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説教 「試練を喜ぶ?」 (ヤコブ 1:2-4) 2013/09/29

 聖書は、時々突拍子もないことを語ります。今日の聖書の箇所もその一つだと思いますけれども、今日の所には先ず「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」とあります。この言葉は私たちの度肝を抜くような言葉であります。なぜならば、ここで語られております「試練」(ペイラスモス:試み、試練)という言葉は「苦しみや困難」という意味を含んでいるからであります。

 当時の教会というのは、実際に、反対と迫害の中にあって、多くの人たちが苦しんでおりました。困っておりました。そういう教会の状況が実際にあった訳であります。そのような「苦しみ、困難、苦難」、それを聖書は「喜びと思え」、しかも「この上ない喜びと思え」と教えている。これは何と非常識な、何と無責任な言葉なんでしょうか。

 人間の常識から言えば、苦しみは苦しみであって、決して喜ばしいものではあり得ません。たとえ、その苦しみや困難を「試練」という言葉で置き換えてみましても、苦しみそのものが変わる訳ではありませんから、それを喜べなんて、これは極めて「非常識な教え」ということにもなる訳であります。

 しかし、聖書は、このような私たちの常識を越えて「試練を喜べ」「苦しみを喜べ」と臆面もなく語るのであります。どうしてなのでしょうか。今日はこの問題について少しばかり考えてみたいと思います。

 で、先ず考えてみたいのは、先程「私たちの常識」とか「人間の常識」というようなことを申し上げましたけれども、私たちは意識的であれ、また無意識であれ、自分の持っている知識や経験、あるいは、この世的な常識、そういうものに従って生活しているということがあります。

 例えば、こういうことを考えてみましょう。お腹がすいたのでレストランに行くといたします。そうしますと、大体、最初に水やお手拭きと共にメニューが運ばれてまいります。さて、私たちは何を注文するでしょうか。これは別にクイズではありませんので何でもいい訳ですけれども、やはり私たちは折角食べるのならおいしいものをと考えるのではないでしょうか。それもあまり高くなくておいしそうなもの、まあ、そういうものを選んで注文すると思うのであります。時には、少し変わったものを食べてみようということで、普段あまり食べられないようなものを注文するかも知れません。あるいは、今日はあまり体調がよくないので軽いもの、と思うかも知れません。でもとにかく、私たちはある一つの決断をして、決断なんて少し大げさかも知れませんけれども、とにかく、いろいろあるメニューの中から食べたいものを選んで注文いたします。

 その時、私たちは無意識のうちに自分の経験に基づく知識や、今までの習慣、あるいは常識と言ったもの、要するに、自分が持っているいろいろな情報に基づいて判断しているのではないでしょうか。例えば、おいしいものというのでも、それは今まで食べたものの中でおいしかったもの、そういうものが基準となって、これもおいしいのではないかということで決める訳であります。女性なんかでダイエットしている場合、あまり肥りたくないということで、低カロリーのものを食べるという場合もありますけれども、それも何が低カロリーのものなのかという情報を持っているから低カロリーと思われるものを選ぶのではないでしょうか。勿論、何を食べても肥ってしまうという人も中にはおりまして、開き直ってなんでもいい好きなものを食べるという人もいますけれども、とにかく、私たちがある事を考え、また何かあることをなそうとする時、私たちは意識的であれ、無意識であれ、自分の持っている知識や経験、すなわち、自分が持っている情報に基づいて決断し、行動するという事であります。

 ですから、それぞれの人の持っている情報の違いによって、それぞれの選ぶものも違ってくる。大げさに言えば、生きる姿勢というものも変わってくる訳であります。そして、そういう生きる姿勢、生き方の平均化されたもの、それが「常識」というようなものになっているのではないでしょうか。ですから、常識というものは、時代が変わり、人が変わる事によって変化していくものでもあります。いろいろな情報が多くなればなる程、常識というものは変化していく。

 いい例が「世代の断絶」というようなもの、親子の断絶、話が合わない訳であります。親がいくら口をすっぱくして話をしても分かってもらえない。逆に、子供がいくら今はこうなんだと説明しても分かってもらえない。それはそれぞれの持っている情報の違いによることが大きいと思うのであります。そして、このことを言い換えれば、常識が違うからと言ってもいいと思うのでありますね。親が持っている常識と、子供が持っている常識が違う。それ故、話が合わない、断絶というようなことにもなってくる訳であります。

 私たちは、確かに、それぞれの持っている情報に従って生きております。言い換えれば、そういう情報から導き出された常識や、あるいは知識というようなもの、そういうものを基準にして生きております。もっと端的に言うならば、私たちは自分を中心にして生きているのであります。

 ですから、そういう自分中心の生き方、考え方をする限りにおいては、私たちは聖書の御言葉に違和感を感じざるを得ない。「いろいろな試練に出会うときは、(それを)この上ない喜びと思いなさい」と言われても、素直にそれを受け止めることが出来ない。かえって聖書は「非常識なことを教えている」「無責任なことを教えている」と思ってしまう訳であります。

 で、ここで考えてみたいのは、それでは私たちクリスチャンはどうなのかという事であります。私たちは、私たちの常識に従って、聖書の言葉を「非常識、無責任」と受け止めていくのか。それとも、私たちの常識から言えば非常識に思えても、聖書の言葉なんだから、神様の言葉なんだからということで、御言葉に聞き従って行こうとするのか、どちらなのかいう事であります。

 現実はこうだ、世の中はこうなっているんだということで、現実を優先させ、常識で物事を判断することは、ある意味ではやさしいことであります。しかしながら、神様の霊感によって書かれた聖書を、私たちの「信仰と生活との誤りなき規範」と信じ、告白しているのが私たちクリスチャンではないでしょうか。日本基督教団の信仰告白には、「聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」とあります。

 これは、ただ言葉で、このように唱えればいいというものではないはずであります。聖書の御言葉を、神様の言葉として信じ、受け止め、「信仰と生活との誤りなき規範」として実際に生きていくというのが私たちクリスチャンの生き方であります。もし、私たちが本当に信仰を持って、「生活の規範としての聖書」に聞き従いながら生きるというのであれば、先程の言葉、「試練を喜べ、苦しみを喜べ」という言葉も、私たちはそのまま素直に受け止めなければならないのではないでしょうか。

 信仰生活には「試練」はつきものです。そして、そういう試練にぶつかった時、私たちはこれは自分の信仰が試されているんだな、試練を受けているんだなと思って喜ぶ、そういう受けとめ方をすることが大切だと思います。これは「出来るとか出来ない」という問題ではありません。そうではなくて、聖書の御言葉に対する「姿勢の問題」であります。

 試練に出会った時、多分私たちの多くはそれを素直に喜べないかも知れません。現実はそんなに甘くはありません。しかしながら、聖書は試練を喜べと言っているのだから、先ずその御言葉に耳を傾ける。そして、それを素直に受け止めようとする、少なくともそういう「姿勢」は大切ではないでしょうか。試練を喜ぶなんてできっこないと、最初から決めつけてしまうのではなくて、先ず聖書に聞くという「姿勢」、それが信仰者の姿勢というものであります。私たちはそういう意味でもう一度、今日の御言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 ということで、2節からですが、もう一度読みますと、このようにあります。「②わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。③信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」。

 ここには先ず先程申しました「試練」というものについて、その試練というものは「信仰が試されていることなんだ」という、そういう理解がなされております。それは当時の教会が「反対と迫害の中にあった」ということを考えれば当然の事のようにも思われますけれども、必ずしもそう簡単に言い切れるのでしょうか。

 試練に会う、苦しみに会う、困難に遭う、それは本当につらいことであります。で、つらいからこそ、苦しいからこそ逆に「苦しい時の神頼み」ということで信仰を求める、宗教に逃げ道を求める、そういう人だっている訳であります。しかし、聖書は逆に、「試練に会うならば、それを喜べ」と語り、それは信仰の試練なんだと教えている訳であります。そして、信仰の試練を通して、忍耐というものが生じてくると語るのであります。本当にそうなんでしょうか。

 先程の所には「あなた方は知っている」とありますけれども、私たちは本当にそのことを知っているのでしょうか。あのローマ書の5章の所には「苦難は忍耐を、④忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」(ローマ5:3-4)という有名な言葉があります。私たちは、そういう言葉は知っております。しかし、私たちが「知っている」というのは、「頭で知っている」「聖書にそう書いてあることは知っている」という、そういう意味ではないでしょうか。これは知的認識と言ってもいいと思いますけれども、聖書がここで言っているのは単なる知的認識のことではありません。

 「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っている」。それは体験、経験に基づく認識であります。これは、実際に苦しみを経験し、実際に信仰の試練を経験して、忍耐することを学んだ生きた証しの言葉なのであります。「苦難は忍耐を、④忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」という言葉だって同じであります。パウロは、その伝道活動の中で、実際に苦難に遭い、忍耐することを学んだのであります。

 聖書は、そのような実際の経験に基づいて「忍耐する」ことを勧めているのであります。しかも、4節には、こんな言葉もあります。「④あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。忍耐すれば、完全で申し分ない完全な人間になれる。これは少し誇張した表現かも知れませんけれども、私たちの信仰の成長にとって、忍耐というのは、とても大切なことなのでありますね。

 最近はよく忍耐がないとか、我慢が足らないとか、いろいろ言われます。要するに、辛抱出来ない訳であります。物質的にも恵まれ、甘やかされてきた人間は、ちょっとでもしんどくなると、すぐあきらめてしまう。辛抱が出来ない。それは苦しいこと、つらい事に慣れていないからであります。何でも誰かがやってくれる、必要なものはみんな整えられている、そういう環境の中におりますと、苦しい思いをするというような事は、あたかも損をするかのように思ってしまう。昔は、「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言われたりもしましたけれども、今では「苦労する必要がないのに苦労するのは馬鹿げている」という、そういう論理になって来ている訳であります。出来るだけ苦労しないで、出来るだけ労力を使わないで、何でも手軽に物事をなそうとする。ボタン一つ押せば、それで全てがO.K。そういう生活に慣らされてしまいますと、我慢するとか忍耐するとかという事は、馬鹿げた事のように思えてくる訳であります。

 しかし、聖書は「あくまでも忍耐しなさい」と語り、忍耐の大切さというものを教えるのであります。忍耐することが軽視されがちな現代社会の中にあって、忍耐することの大切さというものを教える聖書の教えに、私たちは、もう少し耳を傾けてもいいのではないでしょうか。

 しかし、言葉で忍耐、忍耐といくら言いましても、そう簡単に忍耐できる訳ではありません。先程も申し上げましたけれども、忍耐力を養うためには、何度も何度も試練を経験しなければならないのであります。試練を経験し、体験を通して忍耐力は養われていくのであります。試練を乗り越え、より豊かな人間として成長するためにも、私たちは忍耐力を養い、悩みや苦しみ、また様々な問題にも真っ正面からぶつかっていく、そういう歩みをして行ければと思います。

 今日は「試練を喜ぶ?(クエスチョン)」という説教題にしてみましたけれども、「試練を喜ぶ」なんて、普通は「クエスチョン(?)」なのではないでしょうか。先程、非常識な教えではないか、なんてお話もしましたけれども、いくら聖書に「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」なんてあっても、なかなか素直に受け入れられない。「信仰が試されることで忍耐が生じるんだよ」なんて言われたって、結局「試練は試練」。大変なこと、しんどいことなんでありますね。

 でも、そういう人には、こんな言葉もありますので、どうぞご安心ください。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13)

 これは、コリントの信徒への手紙一の10章13節にある言葉ですけれども、神様は、私たちが耐えられないような、そんな試練には遭わせない。だから安心していいのでありますね。また、たとえ試練に遭うようなことがあっても、神様は、その試練に耐えられるように、ちゃんと「逃れる道」をも備えていてくださっている。だから、私たちは安心して歩んで行くことが出来るのでありますね。 聖書は、時に突拍子もないことを語ります。でも、同時に、慰めの言葉・励ましの言葉も語るのであります。 私たち、これからも御言葉に耳を傾けつつ、また、神様に守り導かれて、歩んで行くものでありたいと思います。

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