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説教 「初めに神」 (ヨハネ 1:1-5) 2013/09/22

 今日は「初めに言があった」という言葉で始まるヨハネ福音書の最初の所を学んでみたいと思います。
「初めに言があった」。これは有名な言葉ですけれども、「初めに」という言葉を聞くとき、私たちは何か思い出さないでしょうか。そうです。聖書の一番最初にあるあの創世記の最初の一節であります。「初めに、神は天地を創造された」。

 聖書は「初めに神」というところから始まるんであります。最初からもう神様というものがおられて、神様とはこういうお方、あるいは、こういうことをされたんだという、そういうことから始まる。

 私たちは、神様のことを人にお話したりしますと、よく「神様なんて本当にいるのかい」なんて言われることがあると思います。「神様はいるのか、いないのか」。神様を信じない人、神様を信じられない人にとっては、それが先ず大きな問題と言ってもいいと思うのであります。

 でも、聖書は、そういうこと、神の存在証明というようなことについては特別何も語りません。勿論、パウロのこんな言葉もあります。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができる(神様がおられるということが分かる)。従って、彼らには弁解の余地がない」(ローマ1:20)。

 これはロマ書の1章20節にある言葉ですけれども、でも、このような言葉があるからと言っても、パウロは、必ずしも神の存在を証明しようとしている訳ではありません。そうではなくて、パウロがここで語っているのは、「神様を知りながらも、神様を神様としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍(にぶ)くなっている」人々(ローマ1:21)、要するに、人間の罪というものを語っているのであります。

 いずれにせよ、聖書は、神がいるのかいないのかという、そういうことは特別問題としてはおりません。初めから「神様がおられる」ということを前提として語るのであります。「初めに神は天地を創造された」「初めに言があった」と語る。ですから、神がいるとするならば、どうしてこんなことが起こるのかというような、そういう私たちが知りたい問いにも直接答えません。(ヨブ記などでは少し触れられているが) 本当は、私たちはそういう所を知りたいのでしょうが、聖書は、そういうことを明らかにする書物ではありません。

 ヨハネ福音書の5章の39節の所で、イエス様は、こんなことを言っています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)。聖書は、イエス様について証しをするものだと言うのでありますね。この言葉は、こんなふうに言い換えてもいいかも知れません。「あなた方は、聖書の中に神様の存在を証明するようなものをさがそうとするかも知れないが、聖書は、イエス様、イエス・キリストを証しするためにあるんだ」と。

 そうなんです。聖書は、イエス様、イエス・キリストを証しするためにあるのであります。イエス・キリストを証ししているのであります。そして、イエス様、イエス・キリストのことが分かってくれば、必然的に神様のことも分かってくる。そういうことを教えているのが聖書なのであります。

 イエス様はこんなことも言っています。ヨハネ福音書の14章9節以下「わたしを見た者は、父を見たのだ(イエス様を見た者は、父なる神様を見たというのでありますね)。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。……わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。……わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(ヨハネ14:9-11)。こんなふうに語っている。

 これは、イエス様が弟子のフィリポに語られた言葉ですけれども、聖書は、決して神様の存在を証明しようというような、そんな書物ではないのでありますね。イエス様を見ることによって神様を見る。神様のことが分かってくる、そういう書物なのであります。

 先程のイエス様の言葉の中には、「信じないのか」とか「信じなさい」という言葉が繰り返しありましたけれども、聖書は、やはり信仰の書物なのでありますね。神様がいるかいないかが問題ではなくて、信仰を持って読むべき書物、あるいは、私たちを信仰へと導いてくれる書物なのであります。

 最初から神様が分からなくてもいいのであります。信仰を持っていなくてもいいのであります。でも、信仰がなくても、神様がおられるということを前提に聖書を読んで行くと、イエス様と出会い、そのイエス様を通して、いつの間にか神様のことが見えてくる、分かってくる。それが聖書というものなんだと思います。

 繰り返しますけれども、聖書はやはり「初めに神」なんでありますね。神様が天地を造られ、すべてのものを導いておられる。最初はよく分からなくてもいい。でも、いずれこういうことが分かってくるのであります。「目からうろこ」という言葉がありますけれども、必ず、神様のことが見えてくる、分かってくる。そういう「時」が与えられるのでありますね。ですから、私たちは、あせらず、その時を気長に待ちたいと思うのであります。

 でも、注意したいのは、これも繰り返しになりますけれども、「初めに神」という世界。そのことを前提として、聖書を読み続けるということであります。最初は信じられなくてもいいのであります。でも、とにかく「初めに神」という、そういう世界から聖書を読み続けて行くということが大切なのではないでしょうか。

 「初めに神」、それは私たちの存在の根底、私たちはなぜ生きているのか、私たちはなぜ生きていかなければならないのかという、そういうことを悟らせる「キーワード」と言ってもいいと思います。とにかく、「初めに神」。そこから聖書の世界は開かれて行くのであります。

 ところで、今日の所は、「初めに神」ではなくて、「初めに言があった」とあります。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。

 「初めに神」が聖書の世界であります。でも、今日の所は、「初めに言があった」であります。でも、この「言」は「神であった」とありますから、やはり「初めに神」ということが語られている訳であります。そして、「万物は、この言によって成った」とありますから、これも、すべてのものは神様によって造られたという、あの創世記の「天地創造のお話」と全く同じであります。

 問題は、ヨハネ福音書では、単に「神様」と言わないで「言(ことば)」という表現を用いている点であります。「言(ことば)」と言っても単なる言葉ではない。言語の「言(げん)」、「言(い)う」という文字を用いて「言(ことば)」と読ませている。それでは、この「言(ことば)」ということで、ヨハネ福音書は何を語ろうとしているのでしょうか。

 原語のギリシア語では、「言(ことば)」というのは「ロゴス」という言葉が用いられております。ご存知の方も多いと思います。「言(ことば)、ロゴス」。これには、いろいろな意味がありまして、辞書などで調べますと、こんな意味が挙げられております。これは聖書のうしろの「用語解説」には載っておりませんので、専門書で調べなければなりませんが、こんな意味があります。「法則、理性、根拠、尺度、思考能力、思考内容、人間精神、定義、説明、目録、計算(神の数式)」等、勿論、「言葉」という意味もあります。まあ、「ロゴス」というのは、いろいろな意味を含む言葉でありますけれども、ロゴスという言葉の動詞形は「レゴー」(言う、語る)という言葉ですから、言葉と訳してもいい訳であります。

 でも、聖書は、言葉は言葉だけれども、言語の「言(げん)」、言(い)うという言葉を用いている。これは、口語訳も文語訳も同じであります。「初めに言があった」「太初(はじめ)に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」。「言は神であった」とある訳ですから、言(ことば)=神ということはすぐに分かる訳ですけれども、なぜ「神」という言葉を使わないで、ヨハネ福音書は「言」(ロゴス)という表現を使っているのでしょうか。「言(ことば)」(ロゴス)ということで、ヨハネ福音書は何を語ろうとしているのか。それはやはり創世記の天地創造のお話と関係があるのだと思います。

 創世記のお話では、「初めに、神は天地を創造された」とありまして、そのあと3節「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった」とあります。神様が「光あれ」と言うと、光がある、光ができる。それは、神様の言葉には力がある、「命」があるということを語っているのだと思うのでありますね。で、そのことを語りたいが故に、ヨハネ福音書はあえて「言(ことば)(ロゴス)」という言葉を用いているのではないでしょうか。

 「言(ことば)(ロゴス)」、それは神様なんであります。だから、「初めに神があった、神様がおられた」としてもいいのであります。しかし、その神様は、ただどこかにおられる神様というものではないのでありますね。命があり、生きておられ、「光あれ」と言うと、光がある、光ができる、そういう神様なのであります。

 「万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった」。そして「言(ことば)の内に命があった」というのがヨハネ福音書なのであります。そして更にこの「命は人間を照らす光であった」というのがヨハネ福音書。人間を照らす光、それが命を持った神様であり、私たちに正しい道を示し、私たちを正しい道へと導いてくれるお方なのであります。

 まあ、「光」については、またあとで詳しく学びたいと思っておりますが、いずれにせよ、ヨハネ福音書が語ろうとしておられる神様、それは、単にどこかにおられる神様というものではなくて、命があり、生きておられ、「光あれ」と言うと、光がある、そういう神様。実際に万物を造ることの出来る神様、万物に命を与えることの出来る神様、一言で言えば、生きている全能の神様、創造主、そういうことを語ろうとしているのではないでしょうか。

 「初めに言(ことば)ありき」。それは単に、初めに神様がおられたという、そういうことだけを語っている訳ではありません。「言」(ロゴス)という表現を用いることによって、その神様は、生きておられる。一言「光あれ。」と言うと光が生まれる。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と言われると、実際にそのようになる。あるいは、「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」と言われると、確かにそのようになる、そういう具体的な力を持った神様なのであります。

 そして、その神様は私たち人間をも造られ、私たちに生命を与え、しかも、私たちにどのような道を歩んでいったらいいのかという、その道までも示し、また私たちを実際に導いてくださるお方なのであります。

 しかし、このような神様であっても、神様のことが分からない、神様のことを理解しようとしない人たちもおります。「でも本当に神様なんているんですか」なんて、まだ言う人たちもいる。それは今日の最後の所に書いてある「暗闇は光を理解しなかった」という、そういうあり方と言ってもいいのではないでしょうか。

 でも、たとえ私たちが神様を否定し、神様なんていない、そんなもん人間が勝手に造りあげたものだと言い張ったとしても、神様は、それでも「暗闇の中で輝いている」、そういう存在なのであります。なぜならば、私たちがこの世に命を与えられ生きているという、そのこと自体、既に神様の力がそこに現れているからであります。

 創世記の最初の言葉、「初めに、神は天地を創造された」という言葉、ヘブライ語では、「ベレシート バーラー エロヒーム」と始まりますけれども、神様が創造されたという言葉「バーラー」、それは、何もない所から何かを生み出す、要するに「無からの創造」ということを語っている言葉であります。

 私たちは、何か材料を用いて新しいものを生み出すことは出来ます。でも、命だけは作り出すことは出来ません。最近は、iPS細胞(人口多能性幹細胞)(京都大学の山中教授のグループ作製)とかクローンなんてことがよく言われますが、iPS細胞にもクローンにも、そのもとになる細胞が必要な訳であります。でも、そのもとになる細胞そのものは、どんなに頑張ったって人間には作れない。命の源は、人間には作り出すことは出来ないのであります。タンパク質だけあったって、それだけでは命は生まれないのでありますね。そこに力が働かないと命は生まれない。そして、その命の源が「無から有を生み出す神様」なのであります。ですから、私たちが今ここにこのように生きている、あるいは、生かされているということ自体、既に私たちは、神様から力を与えられているということになるのであります。

 私たちが神様を認めようと認めまいと、それでも神様は「光が暗闇の中で輝いている」ように輝いている。だとするならば、私たちは、頑なにならないで、もっと素直になって神様の恵みを受けてもいいのではないでしょうか。私たち人間を照らす光があるのであります。その光をむしろ全身に浴びて、私たちは歩み出すべきではないでしょうか。

 聖書の神様、それは生きた神様、私たちに恵みを与え、力を与え、勇気を与えてくださる神様であります。「初めに神」ということを忘れずに、この一週間も、このような神様に守られ導かれながら、力強い歩みをして行きたいものであります。

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