今日は、イエス様が「生まれつき目の見えない盲人の人をいやされた」というお話について考えてみたいと思います。
聖書には「盲人のお話」が沢山あります。有名なのが「盲人バルティマイ」のお話。「ティマイの子で、バルティマイという盲人」が、イエス様に目をいやしていただいたという、マルコ福音書10章46節以下にあるお話であります。このバルティマイのお話が有名なのは、「バルティマイ」という名前が記されているからですけれども、名前が載ってない盲人のお話(目が見えなかった人が見えるようになったというお話)、他にも沢山あります。でも、「生まれつき目が見えない」ということで、わざわざ「生まれつき」という説明がついている盲人のお話は、今日の所だけであります。
病気や事故で、目が見えなくなる。そういう人もいます。また、年をとって、目が悪くなるという人もいます。私も目が悪くなりまして、一時大変な思いをいたしました。目がかすんで見えないのでありますね。結局「白内障」ということで手術をしまして、見えるようにはなりましたけれども、私の場合、近視、遠視、そして乱視もありますから、今でも大変であります。長時間、本も読めない。字を書くのもまっすぐに書けない。不都合なことが沢山あります。まあ、年をとれば誰でも何らかの障碍が出てくるのでしょうが、「生まれつき」ということになりますと、これはまた話が違います。「生まれつき」なのですから、これはどうしようもないということがある訳であります。
で、このような「生まれつき」いろいろな障碍を持っている人というのは、今でも沢山おられます。サリドマイドで生まれつき手や足がないというような人。生まれつき耳が聞こえない、あるいは、口がきけないという人。また、生まれつき難病と呼ばれるような病気を背負って生きている人。沢山おられる訳であります。勿論、あえて「生まれつき」ということを言わなくても、病気や事故で、大変な生活を強いられている人たちもいます。事故で脊(せき)髄(ずい)損傷ということで手足が動かなくなる。あるいは、白血病やガンで余命を宣告される、そういう人たちだっている訳であります。
勿論、病気だけではなく、私たちの人生には、自分の力ではどうしようもないような出来事も時として起こります。例えば、あの東日本大震災。もうあれから2年半が経ちましたけれども、あの大地震と津波で多くの人たちが亡くなりました。家も流されました。大変な被害を被った訳であります。当時、私は石巻に住んでおりまして、私も被災者の一人ですけれども、教会員が亡くなったり、その家族が亡くなったり、本当に大変な経験を致しました。
また、今年の夏は、埼玉県や千葉県をはじめ、いろいろな所で竜巻も発生し、多くの被害をもたらしました。洪水だってそうであります。ゲリラ豪雨で、あちこちで大きな被害が出ました。本当に、何が起こるか分からないのが、この世の中であります。
で、このような、自分の力ではどうする事も出来ない、そういう出来事が起こるとき、私たちはそれを時々「運命」という言葉で呼ぶことがあります。「どうして、こんなことが起こるの」「どうして、こんなことになっちゃうの」。「何も悪いことをしていないのに、どうして、なぜ、こうなるの」という問いに対して、答が出ない、答が見いだせない。そういう時、私たちは、それは「運命なのかな」なんて、思うことがある訳であります。
勿論、この「運命」という言葉には、必ずしも悪い意味ばかりではありませんで、時には良い意味でも使われます。例えば、運命の赤い糸によって二人の者が結ばれるというような事もありますけれども、でも、人間の意志を越えた、何か別の大きな力によって私たちの人生が左右されてしまうような、そういう出来事・現象、そういうものがあるのも、これまた事実であります。そして、それをときとして「運命」と呼ぶ人もまた沢山いる訳であります。
しかし、そういう人間の思いを超えた出来事を「すべて運命」ということで片付けてしまっていいのでしょうか。今日のお話に出てくる「生まれつき目の見えない人」。生まれつき目が見えないのは、それは、その人の運命。そんなふうに割り切ってしまっていいのでしょうか。
イエス様の弟子たちは、「生まれつき目の見えない人」の目が見えないのは、「だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と、そんなふうに聞きました。これは、運命ということよりもむしろ因果関係、どうしてこうなったのかという、そういう因果関係を問題にしている質問でありますけれども、でも、「生まれつき目が見えない」という、その現実そのものは、やはり「運命でそうなった」という、そういう思いもあったのではないでしょうか。
でも、イエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言って、この人を癒されました。
イエス様は、運命を運命として、そこで終わらせないお方なのであります。運命と言いますと、私たちは、どうしても「しょうがない、仕方ない」「運命なんだから、私たちにはどうしようもないんだ」ということで諦めてしまう。そういう所があるように思います。
でも、イエス様は、そうではありません。運命だって乗り越えていくことが出来る。少なくとも、乗り越えて行く可能性はあるんだということを教えているようにも思うのであります。それは、イエス様が「神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃって、実際に「生まれつき目が見えない人の目を見えるようにしてくださった」からであります。
しかし、この運命を乗り越えるためには、イエス様まかせだけでいいのでしょうか。イエス様にすべてをお任せすれば、イエス様はすべてを良きように取りはからってくださる。確かに、そうかも知れません。でも、それだけなのかと言うと、必ずしもそれだけではないようにも思うのであります。で、そのことが、今日のお話の中にはまた記されていると思うのでありますね。
イエス様は、この「生まれつき目の見えない人に「シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って洗いなさい」と、こう言われた訳であります。そして、彼は、イエス様の言われる通り、シロアムの池に行って目を洗った。こうして彼の目は見えるようになった訳であります。
もし、彼がシロアムの池に行かなかったならば、どうだったでしょうか。勿論、これは例えばの話ですけれども、もし、生まれつき目の見えない人が、イエス様から「シロアムの池に行って、目を洗いなさい」と言われても、シロアムの池に行かなかったならばどうだったか。また、行ったとしても、イエス様の言われる通り、そこで目を洗わなかったならば、どうだったか。多分、彼の目は開かれる事がなかったのではないか。そんなふうにも思われる訳であります。
で、そうしますとですね、やはり、すべてイエス様まかせではなくて、自分に出来ることは自分でも精一杯やるという、そういうことが大切なようにも思うのであります。そして、イエス様に委ねると同時に、自分でも精一杯頑張るときに、また「運命」を乗り越える道も開かれて行く、そんなふうにも言えるのではないかと思うのでありますね。
自分では何もしないで、ただ「神様、神様」「イエス様、イエス様」と言うだけでは、何も変わらない。何も起こらないのではないでしょうか。ただ「棚からぼた餅」で、自分では何もしない。そんなんであれば、いくら「神様・イエス様」と言ったって、そこに神様の御業を期待しても、何も起こらないのではないでしょうか。
聖書の中には、よく「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が出てきます。先程、紹介しました「盲人バルティマイ」のお話。バルティマイは、イエス様がやって来たというので、必死になって、イエス様に叫ぶのであります。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続ける。人々はバルティマイを叱りつけ黙らせようとしますが、彼はそれでも「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続ける。
その声がイエス様に届いたのでしょう、イエス様は「あの男を呼んできなさい」と言われ、バルティマイに「何をしてほしいのか」と聞く訳であります。バルティマイは、「目が見えるようになりたい」と答える訳ですが、その時にイエス様が言われた言葉が「あなたの信仰があなたを救った」という言葉であります。そしてバルティマイの目は見えるようになりました。
「あなたの信仰があなたを救った」。あなたの信仰、それは勿論「イエス様を信じる」という信仰ですけれども、「イエス様を信じる」という意味は、ただ「イエス様を信じます」と口で言うだけではなくて、イエス様の言葉を信頼し、イエス様の言われるように実際に私たちが歩むこと、行動することではないでしょうか。
「生まれつき目の見えない人」が、イエス様の言われる通り、シロアムの池に行って、目を洗った。そして、見えるようになった。彼は、イエス様を信じ、信頼し、そして、自分も精一杯のことをしたのであります。そのとき奇跡が起こった。生まれつき見えない目が開かれたのであります。彼の運命は、変わったのであります。
私たちの人生。確かに「運命」と呼ばれるようなものもあります。「あれが彼の運命なんだ、彼女の運命なんだ」。そう言わざるを得ないような、そういう出来事も沢山あります。しかしながら、運命だからと言って、そこであきらめてしまえば、それっきりであります。何の解決にもなりません。
私たちは、運命を運命として、そこであきらめてしまうのではなくて、それを乗り越える道をも模索すべきだと思います。そして、その運命を乗り越えていく道こそ「信仰である」と教えているのが聖書ではないかと思います。聖書は、「運命」を「運命」で終わらせない。「運命」の向こうに、まだ可能性があるということを教えている、そういう書物ではないかと思います。で、そういう意味では、もっともっと聖書の御言葉に、私たちは耳を傾けるべきではないかと思うのでありますね。
勿論、このように申しましても、今の時代、信仰を持てば、どんな病気も治る。生まれつき目の見えない人の目だって信仰によって見えるようになるとか、生まれつき腕や脚(あし)がなくても、信仰を持てば腕や脚(あし)が生えてくるなんて、そんなこと起こらないかも知れません。脊(せき)髄(ずい)や頸髄(けいずい)が損傷して、手や足が動かなくなってしまった。でも、信仰を持てば治る。そんなことはないかも知れません。勿論、全くないとは言い切れませんけれども、現実的には、やはり難しいことも沢山あるのではないでしょうか。
しかしながら、そういう現実、「運命」としか言いようのないような、そういう様々な現実があっても、運命だから仕方ないということで、諦めてしまうのか。それとも、現実は現実として認めながらも、それを乗り越えて行こうとするのか。そこには大きな違いがあると思うのでありますね。
私たちは、手や足が動かなくても、口がきけなくても、目が見えなくても、信仰の力によって生き生きと生きている、そう言う人たちを沢山知っています。
例えば、東村の「星野富弘」さん。学校のクラブ活動で器械体操の指導していたとき落下して、頸髄(けいずい)損傷で手足の自由失いました。手足が動きません。でも、口に筆をくわえ、すばらしい詩や絵を描いております。
もう亡くなりましたけれども、まばたきの詩人。「水野源三」さん。子供の頃、集団赤痢にかかり、高熱により脳性麻痺を起こし、首から下と言葉の自由を失いました。寝たっきりになってしまった訳であります。でも、まばたきですばらしい詩を書き、多くの人たちを力づけました。
また、沖縄出身の「新垣 勉」さん。目が見えませんけれども、すばらしいテノール歌手、また牧師として今も活躍しております。
海外にだって、こういう人沢山います。スウェーデンの「レーナ・マリア」(Lena Maria Klingvall)さん。生まれつき両腕がなく、左脚が右脚の半分しかなくても、水泳をやったり(パラリンピックの選手として出場)、また、ゴスペル・シンガーとして歌を歌ったりして活躍しています。日本にも来てコンサートを開きましたので、ご存知の方も多いと思います。
また、「ジョニ・エレクソン・タダ」(Joni Eareckson Tada)さん。彼女は17才の時、ダイビング中に、首の骨を折り、四肢麻痺になりました。星野富弘さんにように手も足も動かなくなってしまった訳ですが、車椅子で全世界を回ってイエス様のことを証し続けています。今は「乳がん」にも冒されているそうですが、それでも、「神の恵みは十分である。神の力は、弱さのうちに完全に現われる」と言って、伝道者の働きを続けています。
イエス様と出会い、信仰を与えられて、運命を乗り越えて生きている人たち。あるいは、生きてきた人たち。沢山おられるのでありますね。
私たちの信仰、キリスト教の信仰は、運命に負けない力を与えてくれる信仰です。どんな状況にあっても、決して諦めない、くじけない、そういう信仰。そして、そのことを教えているのが聖書なのであります。
今日のお話のように、生まれつき目が見えなくても、目が見えるようになるという、そういうことは、今の時代そのままのかたちでは起こらないかも知れません。でも、信仰によって、力を与えられ、励まされ、その人が、運命を乗り越えて新しい人生を歩み出すということは、いくらでもあるのであります。
私たちも、運命だから仕方ないと言って、そこで諦めないで、かえって信仰の力で、それを克服し、そして乗り越えて行くという、そういう歩みへと導かれたい。そんなふうに思います。
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