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説教 「眠りについた人たち」 (1テサロニケ 4:13-18) 2013/09/08
(燕教会・永眠者記念礼拝)
 今日は、信仰の先輩たちのお写真を飾って「永眠者の記念礼拝」を守っております。燕教会の歴史の中で、沢山の信仰の先輩たちが与えられ、そして神様の所へ帰って行かれました。

 今日は、その信仰の先輩たちのことを思い起こし、偲んでいただければと思いますが、一人ひとり、その思い出は違いますし、故人を知っている人もいれば、知らない人もまたいる訳であります。

 でも、信仰の先輩たち、皆「聖書の信仰」を持っておりました。そして、希望をもって天に帰って行かれました。生きた時代は違い、また、その生き方は皆違いますけれども、昔も今も変わらない聖書の信仰に立って、先輩たちは、それぞれの人生を送られたのであります。

 私たちは、「故人から学ぶ」ということを、よく申しますけれども、私たちが先ず学ぶべき事は、この信仰の先輩たちの「信仰」であります。そして、その信仰は、聖書に記されている信仰ですから、先ず、聖書の御言葉に耳を傾けることから始めたいと思います。

 この礼拝が終わりましたら、教会の墓地で「墓前礼拝」、その後「記念の愛餐会」もありますので、そのときに、故人の思い出等を十分語り合っていただければと思います。

 ということで、今日は「眠りについた人たちの希望」ということについてお話させていただきたいと思いますが、「眠りについた人たち」、それは「永眠者」、既にお亡くなりになった方々のことであります。先程お読みいただきました聖書には、このようにありました。

 「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」。(1テサロニケ 4:13f.)

 「既に眠りについた人たち」、死んでしまった人たち。お葬式をして、塵を塵に、灰を灰におかえしした人たち。心の中には今でも思い出として生きておりましても、現実的には、もうこの世にはいない人たちであります。今まで一緒にこの世の人生を歩んで来られた方は、今までおられた方がいなくなって寂しいのであります。悲しいのであります。それは、私たちの気持ちとしてはよーく分かるのであります。

 でも、聖書は言います。「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」。「希望を持たないほかの人々」、それは死んだらそれで全ておしまい、夢も希望もすべてなくなってしまう、そんなふうに考える人たちのことであります。死んだら、それでおしまいなんですから、希望の持ちようがない訳であります。

 しかし、聖書は「希望を持たないほかの人々のように、嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言います。「次のこと」、それは、イエス様を信じて眠りについた人たちが「復活する」ということであります。聖書には続けてこのようにあります。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。

 「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じている」。イエス様は十字架につけられ、死んで墓に葬られましたけれども、三日目にお墓から復活されたのであります。私たちは、そう信じているのであります。ですから、同じように、イエス様を信じて眠りについた人たちも、また復活すると信じるのであります。

 しかし、どうなんでしょうか。イエス様が復活されたことは信じられても、勿論、イエス様の復活も信じられないという人もおりますけれども、私たちが復活する。死んだ者がもう一度よみがえる、そんなこと信じられるでしょうか。

 今のような科学が進歩した時代にあって、死人の復活を信じるということは、これは一見「時代遅れ」のようにも見えます。しかしながら、聖書はイエス・キリストのよみがえり、イエス様の復活という出来事を根拠にして、私達もまたよみがえる、復活すると教えるのであります。

キリスト教の神様は「全知全能の神様」であります。聖書には「人には出来ないことでも、神に出来ないことは何もない」。「神様には何でも出来る」とあります。

 ある時、イエス様は金持ちの青年に対して「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。それを聞いた弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いましたけれども、それに対して、イエス様は「それは人間にできることではないが、神は何でも出来る」と教えられました(マタイ19:26)。

 「神様に出来ないことは何もない」のであります。「神様は何でも出来る」のであります。これは「天地を造られた全知全能の神様」であってみれば、別に不思議なことではありません。人間には不可能と思われることでも、神様に出来ないことは何もない、神様には不可能はないのであります。

 「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」。これはキリスト教の「最も大切な教えの一つ」であります。パウロは、最も大切なこととして、イエス様が「私たちの罪のために死んだこと」、そして「三日目によみがえった、復活した」ということを挙げております。いわゆる十字架と復活であります。

 全知全能の神様がイエス様を復活させたとするならば、私たちもまた、その時がくれば、よみがえるのであります。聖書は、全知全能の神様の力、そして、イエス様の復活という、この出来事を根拠にして、私たちにも「よみがえりの希望、復活の希望」があると教えるのであります。

 それでは、どのようにして私たちは復活するのでしょうか。
聖書には、このようにあります。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、⑰それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。」(1テサロニケ 4:16-18)

 ここには、「合図の号令がかかって、大天使の声が聞こえる」とか「神のラッパ」が鳴り響くとか、また「空中で出会う」とか「雲に包まれて引き上げられる」なんていう言葉がありますが、これらは2000年前の世界観に基づく表現でありますから、文字通りに受け止める必要はありません。

 しかし、いずれにせよ、いつかその時が来れば、イエス様が「天から降って来る」ときが来るというのであります。復活されたイエス様は、弟子たちが見ている前で天に昇っていかれたと聖書は語る訳ですが、そのイエス様が、再び「天から降って来る」ときが来る。これは「キリストの再臨」と申しますけれども、イエス様がもう一度この世にお出でになる時、すなわち、再臨される時、イエス様を信じて死んだ人たちが、まず最初に復活する。そして、生き残っている私たちも主と出会い「私たちはいつまでも主と共にいることになる」と聖書は教えるのであります。

 「主と共にいる」、それは神様・イエス様と共に永遠の命に生きるということであります。これは今の私たちの常識や私たちの知恵や知識でははかり知ることが出来ません。しかし、聖書は、その事を確信をもって教え、この事を信じて生きることを勧めるのであります。

 パウロは、復活についてこんなことも言っております。(1コリント15:13-19)
 「死者の復活がなければ(死者の復活ということがなければ)、キリストも復活しなかったはずです。
 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(私たちは、キリストの復活を信じている訳ですが、その信仰も無駄だというのであります。)
 更に、わたしたちは神の偽証人(嘘つき、ウソを言っている偽証人)とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです(正に神の偽証人であります)。
 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
(イエス様の十字架は、私たちの罪を贖うためのもの、私たちの罪を赦すためのものだったと聖書は教えています。しかし、イエス様が死んで、それで全ておしまいということであれば、十字架の意味はなくなってしまう)
 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
 この世の生活でキリストに(単なる)望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。(クリスチャンは、すべての人の中で最も惨めな者?)

 死者の復活、それは単なる夢物語ではないのであります。もし、「死者の復活」という事が、単なる夢物語、私たちの単なる望みに過ぎないとするならば、キリスト教の信仰には何の意味もありません。ただ「そうであればいい」というような事であれば、それは正に、パウロが言うように「この世のすべての人の中で最も惨めな者」という事になってしまいます。あり得ないことを、ただ「そうあってほしい」と願うだけならば、これほどむなしいことはありません。

 しかし、聖書は、繰り返しますけれども、イエス・キリストの復活を根拠として、天に召された者、眠りについた人たちの復活という事を確信をもって語るのであります。そして、キリスト者はこの事を、また確信をもって信じて生きていくのであります。信仰の先輩たちがそうであったように、私たちもまた、そう信じるのであります。信仰の先輩たちは、死んで、滅んでしまった訳では決してないのであります。今、私たちの目には見えなくても、その魂は神様のみもとで復活の時を待ち望んでいる。私たちはそう信じるのであります。

 先に天に召されました「信仰の先輩たち」、彼らは、今、神様のみもとで安らいでおられます。そしていつも私たちのことを天から見守っておられます。私たちも、「信仰の先輩たち」のことを忘れることなく、天と地と、その住まいは異なりましても、共に「主にあって」、これからも豊かな交わりを保って行ければと思います。

 今日の聖書のことばの締めくくりには、このような言葉がございます。「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」(1テサロニケ4:18)。前の口語訳聖書には「だから、あなた方は、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい」とありました。

 キリスト者には希望があります。死んだらそれでおしまい、塵は塵に、灰は灰になってそれでおしまいというのではなく、神様のみもとに行く事が出来るという希望、またイエス様の再臨の時、よみがえり、復活を与えられるという希望が与えられているのであります。私達はこのような希望をもって「互いに、慰め合い、励まし合う」者でありたいと思います。

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