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説教 「恵みによって召された人たち」 (1コリント 1:26-31) 2013/09/01

 今年の夏の甲子園(第95回全国高校野球選手権大会)は、群馬の「前橋育英高校」が優勝しました。49校(全国3957校)のトップになった訳であります。特に、前橋育英は、甲子園初出場・初優勝ということでしたから、とってもうれしかったと思います。みんなとっても喜びました。私も、群馬県の前橋出身ですから、前橋育英の優勝、素直に喜びました。

 ところで、うれしい出来事と言えば、あのヤンキースのイチローが、8月21日のトロント・ブルージェイズ戦で日米通算4000本安打を達成したというニュースがあります。4000本安打というのは、これはとてつもない数字でありまして、アメリカ大リーグのピート・ローズとタイ・カッブに次ぐ3人目ということになります。イチローは、やはりスゴイと思います。

 私は、別に野球が特に好きだという訳ではありませんけれども、このようなニュースを聞きますと、やはりうれしくなりますね。また、いろいろな所で、世界選手権大会というものが行われておりますけれども、日本人選手が優勝したとか、金メダルをとったなんてニュースを聞くと、やはりうれしい。それは、私が日本人だからという、そういうこともありますけれども、同時に、優勝するとか、金メダルをとるというのは、一生懸命に頑張ったという結果が、そこにあるからであります。

 聖書には、「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」(1コリント9:24)という言葉があります。「賞を得るように走りなさい」。聖書も、一生懸命頑張りなさいと勧めているのでありますね。

 最近は、あまり「一生懸命」ということを言わなくなったようにも思います。まあまあでいいじゃないか。ゆっくりやりましょう。沖縄の言葉で言えば、「テーゲーでいいさ」という、そういうあり方の方が優勢のようになって来ております。勿論、「テーゲー」も大切であります。でも、一生懸命にやるということもまた大切ではないでしょうか。

 で、何が言いたいのかと言いますと、一生懸命に頑張って優勝したあの前橋育英や、日米通算4000本安打の偉業を達成したイチロー、あるいは、怪我をしながらも一生懸命に戦って金メダルをとった選手たち、私は「大いに誇ってもいいのではないか」ということであります。

 聖書は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14:11)とか、「だれも人間を誇ってはなりません」(1コリント3:21)とか、今日の聖書の所には「誇る者は主を誇れ」(1コリント1:31)なんてありまして、「誇ること」が、なんか悪いことのように書いてありますけれども、聖書が言っているのは、誇り高ぶること、高慢(自分がすぐれていると思い上がって、人を見下すこと)、そういうことは「よくない」ということであります。

 聖書は、へりくだること、謙遜ということを美徳として教えます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(コロサイ3:12)。また、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2:3-4)と教えています。イエス様も「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と教えられました(マタイ18:4)。

 自分を低くする、へりくだる、謙遜になる。これは、とても大切なことであります。人間、往々にして、何か出来ると、おごり高ぶりやすい。あるいは、優勝したとか金メダルをとったなんてことになりますと「すごいだろう、偉いだろう」というようなことで、高慢になりやすい。そういうところがあるように思います。ですから、聖書は、そういう人間に対して、「だれでも高ぶる者は低くされる」。「だれも人間を誇ってはならない」。むしろ、自分を低くすること、へりくだること、「謙遜になりなさい」と教えている訳であります。

 しかしながら、一生懸命頑張って「賞を得る」。優勝するとか、金メダルをとるとか、すばらしい実績を上げるということに対しては、素直にそれを評価することもまた大切ではないでしょうか。そして、一生懸命頑張った者が、賞を手にして「自らの頑張りを誇りに思う」ということが、あってもいいと思うのであります。

 昔は、「誇り」(プライド)というものを、とても大切にしました。最近は、あまり「誇り」ということを言わなくなったようにも思いますが、それは「誇り」(プライド)というものが、あまりにも観念的なものであり、また、「誇り高ぶり」をイメージすることがよくあるからではないかと思います。

 フランス人は誇り高い民族なんてよく言われますが、あまりいい印象を与えていません。フランス人は、どこへ行ってもフランス語でしゃべり、たとえ英語を知っていてもフランス語で通す。フランス語に誇りを持っているからでしょうが、人からはあまりよく見られない。また、「あの人プライド高いよね」なんて、よく使われますが、決して良い意味で言っている訳ではありません。

 ちなみに、最近使われている「誇り」と「プライド」の違いを、こんなふうに説明している人がいますので紹介しておきます。

 「誇り」は、間違っていないもの、経験によって培われるもの、皆があこがれ、尊敬するもの。
一方、「プライド」は、間違っている可能性のあるもの、成長の妨げになる可能性のあるもの、年をとることによって発生する行動理念(プライドが高いなんていうのがこれですね)、また、自己満足の可能性のあるもの。
勿論、プライドの本来の意味は良い意味ですけれども、今は、こんなふうに勘違いして使っている人が多いということであります。

 確かに、プライドが高くて、近づきがたい人。そういう人には、近づかない方がいいと思います。また、プライドが高い人は、高慢で、自分が何かすぐれていると思い上がって、人を見下す傾向がありますので、注意しなければなりませんが、自分の仕事に「誇りを持つ」とか、「この子は私の誇りです」と言えるような、そういう「誇り」は持ってもいいのではないでしょうか。(前橋育英:荒井監督)

 先程紹介した「日米通算4000本安打の偉業を達成したイチローは、大リーグだけで4000本安打を達成したピート・ローズやタイ・カッブと自分は違う、同じ部類に入れる必要はないと、コメントしたということですが、私はもっと素直に自分の業績を誇ってもいいのではないかと思っております。
 勿論、自分の業績に対して、偉いだろう、スゴイだろうとおごり高ぶることは禁物であります。おごり高ぶりは、聖書の価値観から言えば「悪」であります。ヤコブ書の4章16節には、誇り高ぶっている者に対して、「このような高慢は、すべて悪である」(口語訳)と言っております。

 誇りを持つこと。それ自体は決して悪いことではありません。むしろ、「誇り」は持つべきではないでしょうか。「誇り高い生き方をしろ」なんて言っている訳ではありません。でも、誇りを持つこと、誇りを持って生きて行くというのは、これは、とても大切なことではないかと思うのでありますね。勿論、「誇り」なんて、これは観念的なものですから、どんな誇りを持ったらいいのか、どんな誇りがあるのか、なんてことにもなる訳ですけれども、せめて、人間としての誇りを持って生きて行く、そういうことがあってもいいのではないでしょうか。

 しかし、ここに「誇りを持てない人たち」がいます。

今日の聖書の所は、神様に召された人たちのことが語られていますが、26節以下、こんなふうにあります。

 「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

 どうでしょうか。ここには「世の無学な者」とか「世の無力な者」。また、「無に等しい者」とか「身分の卑しい者や見下げられている者」という言葉が出て来ています。こういう人たちは、誇りを持とうとしても、誇りを持てない人たちであります。無学な者、無力な者に何の誇りがあるでしょうか。身分の卑しい者、見下げられている者、これは当時のことで言えば「奴隷」を連想させますが、身分の卑しい者、また、みんなから軽蔑されているような、そういう人たちに何の誇りを持てというのでしょうか。誇りなんて持てないのであります。

 誇りを持って生きて行けない人たち。でも、神様は、そういう人たちを選び、召してくださったのであります。召してくださったというのは、神様のご用のために、用いてくださるということであります。神様のご用をするために用いられる。これ以上の「誇り」はないのではないでしょうか。日本国のために、日本人1億2700万人のために、自分はこういう仕事をしている。国のために自分はこういう仕事をしているんだということであれば、そのことを「誇り」に思う人もいると思うのであります。それが、「神様のために」ということにでもなれば、どうでしょうか。これ以上の「誇り」はないのではないでしょうか。

 それにしても、神様って、へんなにお方だと思いませんでしょうか。神様のご用をするのであれば、無学な者よりも知恵ある者の方がいい。無力な者、力のない者よりも、いろんな能力のある人、また、財力や社会的に影響力を持っているような、そういう人たちの方が、ずっと役に立つと思うのでありますね。にもかかわらず、神様は「無学な者、無力な者」「無きに等しいような者、身分の卑しい者や見下げられているような者」、そういう人たちをあえて選ばれたというのであります。

 聖書は、それは「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためだ」と説明しておりますけれども、私は、これが「神様の恵み」なんだと思うのでありますね。

 確かに、神様のご用をするのであれば、無学な者よりも知恵ある者の方がいい。無力な者、無きに等しいような者よりも、いろんな能力のある人、また、財力や社会的に影響力を持っているような、そういう人たちの方が、ずっといいのであります。そんなの当たり前であります。

 しかしながら、あえて神様は、こういう人たちを選ばれたというのは、それは、神様の恵みであり、また、彼らに「誇り」を持って歩ませるためだったのではないかと思うのであります。

 今日のテキストの最後の所には「誇る者は主を誇れ」という言葉がありますが、彼らには、もともと何も誇るものがなかったのであります。しかし今や「主を誇る」という「誇り」が生まれた。主を誇り、神様のご用をなしていくという「誇り」が与えられたのであります。

 教会は、神様の「恵みによって召された人たち」が集まっているところであります。私たちは、神様に選ばれるような、何か特別な資格があって選ばれたのではありません。むしろ、先程の聖書の所にあったように、「無学な者、無力な者」「無きに等しいような者」ではなかったでしょうか。

 「私は大学にも行ったし、大学院まで行った。だから決して無学ではない」なんて言わないでください。学問をしたからと言って、道を究めたわけではないでしょうし、道を究めたと思った瞬間、また、新たな道が見えてくる。それが学問の世界であります。少々の学問をしたからと言って、「私は無学ではない」なんて言う人ほど、実は「無学である」ことを証明していることにはならないでしょうか。

 「無力な者、無きに等しいような者」というような言葉も出て来ましたが、私たちに、どんな力があるというのでしょうか。自然災害の前では、私たちの力なんて全くの無力ですし、無きに等しいものであります。 私たちには、自分にはこんな力がある、こんなことだって出来るといった、そんな思いもあるかも知れませんが、冷静になってよく考えて見れば、結局「無力な者、無きに等しいような者」というところに行き着くのではないでしょうか。

 でも、そんな私たちを、神様は選び、神様のご用のために召してくださいました。それは、繰り返しますけれども、「神様の恵み」であります。私たちは、正に「恵みによって召された者たち」なのであります。そして、神様は、私たちに「主を誇る」という「誇り」、また、神様のご用をなしていくという「誇り」を与えてくださいました。これは、とてもありがたいことであります。

 「自分には何の取り柄もない。誇るものなんて何もない」。そんなふうにおっしゃらないでください。神様は、私たちにすばらしい恵みを与えて下さっています。その神様の恵みなら誇れるはずであります。また、神様のご用をなしていくという、そういう「恵み」も「誇り」も与えられております。私たちは、「恵みによって召された者」として、神様に感謝し、主を誇る「誇り」を持って歩んで行ければと思います。

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