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説教 「賢い人」 (使徒 20:33-35)    2013/08/25

 昔、こんな「レシピ」が新聞に載っておりました。

 先ず<材料>ですけれども、
 愛をカップ5杯、やさしさをカップ3杯、誠実をカップ2杯、寛容をスプーン5杯、希望をスプーン3杯、思いやりをスプーン2杯、ユーモアがもし手元にあればスプーン2杯、感謝があればカップ1杯以上、最後はスパイスとして笑顔を少々。

 次に<作り方>ですが、こんなふうに作るという事であります。
先ず愛をベースにし、やさしさと誠実を用意し、そこに寛容と希望を入れてよく混ぜる。次に思いやりとユーモアを入れて、更によくかき回す。そして、その上に感謝をたっぷりとふりかける。それから、これはすべて自らの体温で焼くという事ですが(オーブンやレンジは使いません)、焼きながら笑顔のスパイスをまぶすのがポイントだそうであります。

 このようにして出来上がる料理。さて、これは何の料理でしょうか。実は、これは「幸福という料理」なんだそうであります。「幸福の作り方」。面白いレシピではないでしょうか。皆さんだったら、どんな幸福のレシピを考えるでしょうか。

 さて、今日はこの「幸福」ということについて、少しばかり考えてみたいと思いますが、「幸福」、それは誰もが追い求めるもの、みんなが幸福になりたい、そんなふうに思っているのではないでしょうか。勿論、中には、「私は別に幸福になんかなりたくない」なんて言う人もいるかも知れません。(あまのじゃく) でもたとえ口でそう言っても、心の中ではみんな幸福になりたい、幸せになりたい、そう願っているのではないでしょうか。

 それでは「幸福」というのは、一体どういうものなのでしょうか。日本語の辞書、広辞苑なんかによれば、それは「満ち足りた状態にあって、幸せだと感ずること」、それが「幸福」だと、そんなふうに説明されております。「満ち足りた状態」、いろんなものが与えられて満足すれば、確かに「幸せだ、幸福だ」と感じるかもしれません。

 それでは「満ち足りた状態」というのは、どういう状態なのでしょうか。お金がいっぱいある。家がある。車がある。テレビやビデオ、パソコンなどがある。いろいろあれば確かに便利であります。しかしながら、いろいろなものがあれば、それで私たちは「満ち足りた状態」になるのでしょうか。お金はあればあるほどいい。車でも高級車の方がいい。ナビなんてついていると、とっても便利。家だって、大きい家の方がいいですし、出来ればエアコン付きの家の方がいい。冬は暖かくて、夏は涼しい、そういう家の方がいい。次から次へと「よりいいもの」を求めようとするのが、私たちではないでしょうか。

 だとするならば、「満ち足りた状態」というのは、いつになったら与えられるのでしょうか。「よりよいもの」、あるいは「より便利なもの」を求めていくというのは、それはそれでとても大切な事かも知れません。しかしながら、「より良いもの」が与えられれば、「更により良いものを求めて行く」という事であれば、私たちはなかなか「満ち足りた状態」にはならないのではないでしょうか。

 近年、ものが豊かにある、「物質的な豊かさ」という事がよく言われます。確かに、物が豊かにあり、便利になって行くということは、これはとてもいい事であります。しかしながら、物資的に豊かになれば、私たちが「幸福」になれるのかというと、必ずしもそうとは限らない。

 最近は、本当にものが豊かになり、いろいろなものがいっぱいあります。便利なものもいっぱいあります。じゃあ、私たちは、昔と比べて「幸福」になったかというと、必ずしもそうとは限らない。「昔の方がよかった」と言われるような人も、中にはおられる訳でありますね。ですから、ものがある。いっぱいある。物資的に豊かになれば、私たちが「幸福」になれるのかというと、必ずしもそうとは限らないのでありますね。

ところで、今、幸福とは何なのかということで、辞書にあります「満ち足りた状態にあって、幸せだと感ずること」という、そういう所(視点)から「幸福」というものについて、少し考えてみた訳ですけれども、聖書はちょっと違うことを教えております。

 先程お読みいただきました聖書の所には、「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉がありました。これは主イエス様御自身が言われた言葉ということになっておりますが、これはとても大切な言葉のように思います。「受けるよりは与える方が幸いである」。この「幸い」というのは、厳密に言えば「幸福」というのとはちょっと違いますけれども、まあ英語の聖書では blessed という言葉が使われておりまして、神様から祝福を受けるという意味であります。ですから、幸福、幸せ(happiness)というのとはちょっとニューアンスが違いますけれども、非常に面白い「教え」だと思います。

 で、先程、物が豊かに与えられ、満ち足りた状態になれば、そこに幸せ・幸福を感じるのではないかという事を見てきた訳ですけれども、「受けるよりは与える方が幸いである」というのは、これは全く逆の、反対の立場でありますね。

 受けること、もらうこと、与えられること、それは確かに「いいこと」かも知れません。「うれしいこと」であります。物をもらえば誰だってうれしい。反対に、与えるというのは、自分のものがなくなってしまうようで、どうももったいない、そんな気もするのではないでしょうか。

 しかしながら、与える時の喜び、あるいは、与えた時の喜び、そこには何とも言えない「すがすがしい思い」というものもまたあるように思います。例えば、バスや電車で座席をお年寄りにゆずってあげた時、車椅子の人が困っていた時に、ちょっと手を貸してあげた時、そういう時、何とも言えない喜びを感じるという事はないでしょうか。

 自分の持っているものを人に与える。それは物質的な物だけではありません。自分の持っているもの、自分の能力や才能、いろいろなものがあると思いますけれども、そういうものを人のために、聖書の言葉で言えば「隣り人のために」、与えていく時、そこにはまた大きな喜びが与えられる。そういうこともまたあると思うのでありますね。それを「幸福」と呼ぶにはちょっと抵抗があるかも知れませんが、そういう「幸福感」というものもまた「ある」と言ってもいいのではないかと思うのであります。

 私が前におりました群馬県の渋川教会には、昔「湯本輝高さん」という方がおられました。もうお亡くなりになられまして大部たちますけれども(1987年、84歳召天)、この方は、渋川の金島村という所で、初めてクリスチャンになった人であります。湯本さんは、生涯農業をされた人ですけれども(農家でしたが)、人が来ると、よく自分の所で取れた鶏の卵とか、野菜だとか、そういうものを持ってきて、「持ってけや」と言って「くださった」そうであります。

 湯本さんは、クリスチャンになって「仕えることの大切さ」というものを生涯実践された人であります。そして、いつも「受けるよりは与える方が幸いである」という先程の聖書の御言葉を、口にしておられたいうことで、まあ渋川教会では「知る人ぞ知る」、有名な方なんですけれども。まあ、そういう人がおられました。で、こういう人、実はいろいろな教会にもおられるのではないでしょうか。

 「受けるよりは与える方が幸いである」。それは、繰り返しますけれども、決して、物だけではありません。自分の持っている才能や能力、あるいは、先程の「幸福のレシピ」の中にあったような、愛とかやさしさ、笑顔や、思いやり、そういうものを人に与えて行く、もう少し言うならば、自分の持っているものを「人と分かち合う」ということ(シェアリングですね)、これはとてもすばらしい事だと思うのでありますね。

 で、これは、初代教会にも、そういうあり方があった訳であります。みんなが自分の持ち物を持ち寄って集会を守っていた。そういう姿が初代教会にもあったと使徒言行録には記されております。使徒言行録2章44節以下。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒2:44-47) こんなふうに書かれております。

 いずれにせよ、自分の持っているものを、お互いがみんなで分かち合うとき、隣人と分かち合うとき、幸せの道、幸福の道というものもまた開かれていくというのが、聖書の教えのように思うのであります。聖書には、「喜んで与える人を神様は愛してくださる」という言葉もあります(2コリント9:7)。「喜んで与える人を神様は愛してくださる」のであります。神様に愛される人、これ以上に幸せな人はいないと思うのですが、いかがでしょうか。

 物がいっぱいある。豊かである。それは確かに良いことかも知れません。しかし、物だけがすべてではない。私たちは「心の豊かさ」ということもまた考えなければならないと思います。エーリッヒ・フロムという人は、こんな事を言っております。「たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのである。」(Erich S. Fromm 「愛するということ」(The Art of Loving))。物を沢山もっていても、それで豊かとは言えない。むしろ沢山与えることの出来る人、そういう人こそ本当の意味で「豊かな人」なんだという、そういう意味であります。

 アメリカなんかでは、お金を沢山持っていても尊敬されません。日本なんかでもそうではないでしょうか。お金持ちが必ずしも尊敬されるとは限らないのでありますね。むしろ、敬遠されることだってある。本当に尊敬される人というのは、持っているお金を、社会のために、みんなの幸福のために使う人であります。

 世界の鉄鋼王と呼ばれたカーネギー(Carnegie,Andrew)は、莫大な富をカーネギー・ホールをはじめ、多くの公共施設のために用いました。彼は「お金は本来人々に平等に分け与えられるべきもの。自分はそれを預かっているに過ぎない。(だから)社会のために、みんなの幸福のためには惜しむべきではない。自分はそれらのためにお金を使う義務がある」と言って、惜しみなく、社会事業のためにお金を使いました。

 アメリカの社会では、どれだけお金を持っているかではなくて、どれだけ沢山与えることが出来るかで、その人の評価が決まると言われています。お金持ちの基準が違うのでありますね。ただ持っているだけではなくて、どれだけ社会のために、人々のために、そのお金を使えるかで、本当の金持ちと見かけだけの金持ちとを見分けている。そして、これはただお金の問題だけではなくて、人間の「豊かさ」の問題でもまたあるように思うのであります。

 人間として「豊かな人」というのは、ただいろいろな物をたくさん持っているという、そういう人ではなくて、自分の持っているものをたくさん人に与える事の出来る人なのであります。

 「受けるよりは与える方が幸いである」。勿論、これはただ与えればそれでいいということではありません。先程の聖書の言葉にもありましたように、「喜んで与える」ということが大切であります。「喜んで与える人を神様は愛してくださる」のであります。いやいやながら与えるのであれば、いっそうのこと何もしない方がいい。もったいないと思って、ごまかして「これで全部です」なんて言って与えるのであれば、あのアナニアとサフィラ(サッピラ)(使徒5:1f.)のようにもなりかねません。(土地の代金をごまかし、これだけですと言って使徒たちに差し出したアナニアとサフィラ(サッピラ)は、結局、息絶えて、死んでしまいました。)

 聖書には、献金のときも、「各自、不承不承ではなく、(また)強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」(2コリント9:7)と勧められております。不承不承ではなく、また、強制されてでもなく、こうしようと、自分はこうしようと、心に決めたとおりにすれば、それでいいのであります。見栄をはる必要なんか全くない。

 しかしながら、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(同9:6)という、この御言葉も覚えておく必要があると思います。惜しんでわずかしか蒔かなければ、刈り入れもわずか。でも、惜しみなく蒔けば、刈り入れも豊かに与えられる。聖書は決して間違ったことを教えている訳ではないのでありますね。当たり前のことを教えているだけであります。

 いずれにせよ、「受けるよりは与える方が幸いである」という、この御言葉は、私たちに「幸福、幸せ」というものを考えさせる、とても大切な御言葉であると言ってもいいと思います。

 ついでに申しますと、昔の人は、「しあわせ」という文字を、「仕え合う」(仕合わせ)と書いて、「しあわせ」と読ませたといいます。これは大和言葉でありますけれども、「仕え合う」のが「しあわせ」。お互いに「仕え合って行く」とき、幸せになることが出来る。大切なことを教えているように思います。

 お互いがお互いに「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様の教えに基づいて、与えることを大切にし、そしてお互いが「仕え合って行く」とき、私たちは「豊かな人」になり、本当の「しあわせ、幸福」というものを手に入れることができるのではないでしょうか。

 これは、この世の価値観ではありません。聖書の価値観であります。神の国の価値観であります。ですから、「こんなこと、この世では通用しないよ」なんて言われるかも知れませんが、私たちは、神様・イエス様の教えに従った真の道・真理の道を歩んでいければと思います。

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