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説教 「それほど言うなら」 (マルコ 7:24-30)    2013/08/18

 今日の聖書のお話は、イエス様がティルスの地方に行かれた時のお話であります。

 ティルスというのは、エルサレムのずっと北の方にある、地中海に面したフェニキアの海岸都市。ユダヤ人にしてみれば異邦人の町であります。

 聖書には、「カナの結婚式」(ヨハネ2:1-11)というお話がありますが、あのカナという場所は、イエス様が住んでおられたナザレから北に13km位行った所にあります。そのカナよりも更にずっと北にあるのが「ティルス」という町。
 ですから、イエス様はかなり遠くまで行かれたという事になる訳ですけれども、どうしてイエス様はそんな遠い所まで行かれたのでしょうか。

 一つは、領主ヘロデの追手を逃れるために、ティルスまで逃げて行ったのではないかという「説」があります。イエス様の評判が高まってきた時、領主ヘロデは、「あれは洗礼者ヨハネが生き返ったのだ」と言って、イエス様を捕らえようとしたといいます。ルカ福音書には「ヘロデがイエス様を殺そうとしている」という言葉もありまして(ルカ13:31)、イエス様は危険を覚え、追手を逃れるためにティルスまで逃げて行ったのではないかと、そんなふうに言う人もおります。

 それから、もう一つ、イエス様がティルスまで行かれたのは、毎日毎日の伝道活動に疲れ、しばし休息を取るためティルスまで行ったのではないかという「説」もあります。イエス様の評判を聞いて、毎日沢山の人たちがイエス様の所に押し掛けて来たのでありますね。病人を連れて来る人もおれば、お話を聞きに来る人もいる。そういう人たちにイエス様は、毎日毎日、御言葉を語り、また、やってきた病人たちをみないやされた訳であります。年中無休の活動が続けられた。週1回の安息日だって働かれたのであります。

 ですから、やはり疲れる訳であります。だから、イエス様は、しばしの間、休息したかったのではないかという訳であります。今日の所には、イエス様はティルスの地方に行かれ、「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」とありますが、それは「誰にも知られず少し休みたかったから」。そんなふうに考える人もいる訳であります。

 まあ、いろいろな説がありますが、今日はこのような「説」を紹介することがテーマではありません。このティルスでどのようなことをあったのか、また、今日のお話を通して、聖書は私たちにどのような事を教えようとしているのか、そういうことを、これから少しお話してみたいと思います。

 ということで、聖書のお話に戻りますが、イエス様はティルスに行って、ある家に入られたという事であります。それは、先程も申し上げましたが「だれにも知られたくない」という事であったようですけれども、それがどういう意味なのか、ヘロデの追手に知られないためなのか、あるいは、人々に知られないでゆっくり休息するためだったのか、それは分かりません。でもとにかく、イエス様は「人に知られたくなかった」ようであります。

 しかし、現実はそう甘くはありませんで、人々に気づかれてしまう訳であります。そして、さっそくある人がやって来る訳であります。聖書には、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」とあります。

 この女の人、幼い娘を持つ「お母さん」ですけれども、聖書には「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とあります。同じお話が記されておりますマタイ福音書には「この地に生まれたカナンの女」(マタイ15:21)とありますが、これらは共に「異邦人の女の人」という事を示すものであります。

 とにかく、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘」を持つ「異邦人のお母さん」がやってきて、イエス様の前にひざまづき、「娘から悪霊を追い出してください」と一生懸命にお願いする訳であります。

 しかし、イエス様は、このように言われました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(7:27)。

 皆様、このイエス様の言葉、どのように思われますでしょうか。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。

 これはイエス様特有の「たとえ」でありますけれども、特別な説明がなくても、なんとなくこの意味、分かるのではないでしょうか。イエス様は「まず、子供たち」ということを言うのであります。「子供たち」、それはユダヤ人というのでしょうか、神様に選ばれたイスラエル民族の事であります。同じお話が記されているマタイ福音書では、イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)とお答えになったとあります。

 私たちは、イエス様がこの世に来られたのは、「すべての人のためである」と信じています。それは間違いありません。しかしながら、それは私たちがイエス様の十字架によって、「救いがすべての人に、もたらされた」という意味で、そう信じている訳であります。

 ヨハネ福音書の3章の16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」という言葉があります。確かに、神様はこの世を愛しておられます。この世を愛し、私たちを愛しておられるが故に、神様はイエス様をこの世に遣わして下さったのであります。

  しかしながら、「順序」というのでしょうか、「秩序」というものも、またある訳であります。
 ヨハネ福音書の4章22節には、このような言葉があります。「救いはユダヤ人から来る」。これはイエス様が、サマリヤの女の人に語った言葉の一節であります。また、パウロも使徒言行録の中でこのように言っております。「神の言葉は、まずあなた方(ユダヤ人)に語られるはずでした。だがあなた方はそれを拒(こば)み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」。それ故、パウロは「私たちは異邦人の方に行く」(使徒13:46)と言って、異邦人伝道に向かった訳であります。

 ユダヤ人、イスラエルの人たちが先ず救われ、そしてその救いが異邦人にまでもたらされていくという考え方。当時はこのような考え方が主流でありました。イエス様もこのような発想のもとに、ご自分はイスラエルのために、神様から選ばれたイスラエル民族のために遣わされたんだという、そういう意識を持っておられたようであります。勿論、イエス様が「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と語られたこの言葉を、この女の人の「信仰を試す言葉」と受けとめることも出来るとは思います。

 しかしながら、聖書全体の流れの中から判断いたしますと、やはりこれは「救いの順序」というのでしょうか、「救いはイスラエルから異邦人へともたらされて行く」という、そういう神様の「救いのご計画」を踏まえた上での言葉として受けとめた方がよさそうであります。

 いずれにせよ、イエス様はこの母親の必死の願いに対して、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と語り、素直に母親の願いには応じませんでした。ひれ伏してまで、土下座までして「お願い」しているのに、イエス様は無慈悲とも思えるような言葉を語り、冷たくあしらったのであります。この母親の願いを「つっぱねた」のであります。

 どうでしょうか。このようなイエス様の態度。これだけ見れば、イエス様につまずく人も出てくるのではないでしょうか。「イエス様ってなんて冷たい人なんだろう」、そんなふうに思われる人もきっとおられると思うのであります。しかし、このお話はここで終わっているのではありません。続きがあるのであります。

 このイエス様の言葉に対して、悪霊につかれた子供の母親は、必死に食い下がるのであります。母親はこのように言っております。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。どうでしょうか。この言葉。私たちにこのような言葉が語れるでしょうか。この母親は一度はイエス様から冷たくあしらわれたのであります。断わられたのであります。しかし、この母親はそれでも必死にイエス様に食い下がって行ったのであります。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。

 イエス様は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」と言われました。その通りだと思います。子供がお腹をすかしているのに、そのパンを取り上げて小犬にやるなんて、普通の人には出来ません。それはその通りなのであります。この母親もその事は十分承知しているのであります。しかし、その子供の食べたパン屑、残り物はいただいてもいいのではないか、というのであります。「おこぼれ」ならばいいのではないか、せめて「おこぼれ」にでもあずかりたいというのが、この母親の気持ちなのであります。

 こうまで言われますと、さすがのイエス様も言い返す言葉を持ち合わせていなかったようでありまして、とうとう折れる訳であります。そして言われました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。そして実際に娘の病気はいやされた訳であります。母親が家に帰ってみると、「その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」というのであります。

 同じお話が載っておりますマタイ福音書では、イエス様はこのように言っております。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」(マタイ15:28)。マタイ福音書では、はっきりと「あなたの信仰」という言葉が出て来ますが、この母親のイエス様に取りすがる姿、それは信仰者の姿を示すものと言ってもいいのではないでしょうか。

 私たちは普通「信仰」なんて申しますと、神様を信じること、イエス様を信じること、そんなふうに思っております。でも、信仰というのは、神様・イエス様に寄りすがることではないでしょうか。たとえ、神様・イエス様から拒否されようと、それにもかかわらず、神様・イエス様を信じ、信頼し、寄りすがっていくことではないでしょうか。

 この母親は、いったんはイエス様から冷たくあしらわれたのであります。無視されたのであります。拒否されたのであります。にもかかわらず、この母親は、イエス様にすがりつき、イエス様にすべてを賭けていった。「母は強し」という言葉がありますけれども、この母親は子供のために、なんとかしてイエス様にお願いして病気をいやしてもらおうとしたのであります。

 そこには、イエス様ならば「なんとかしてくださる」「娘の病気を必ずなおしてくださる」という、そういう確信があったからだと思うのであります。しかし、それだけではなく、否定され、無視されても、なお「寄りすがっていく」、そういう「姿勢」が認められて、このお母さんは、その願いをかなえてもらったのではないでしょうか。

 「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。娘の病気はいやされたのであります。

 ところで、このお話を通して、もう一つだけ考えておきたい事があります。それは「イエス様の不思議な力と信仰の力について」であります。

 イエス様は「あなたの子供がいやされるように」とか、「あなたの娘から悪霊が出ていくように」というような事は一切語っていません。ただ、母親に「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言っているだけであります。マタイ福音書では、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と語っているだけであります。

 イエス様には、確かに不思議な力がありました。多くの病人をいやし、また、いろいろな奇跡も沢山行われました。しかし、イエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」ということもよく言われました。今日の聖書の箇所の少し前、マルコ福音書5章21節以下には「ヤイロの娘とイエス様の服に触れる女」というお話がありますが、その中に、12年間も出血が止まらない女の人がイエス様の服にさわると、その病気が治ってしまった、というお話があります。

 イエス様は何もしていません。女の人が「イエス様の服にでもさわればいやしてもらえる」と思って服にさわるのであります。そしたら、いやされた。しかも、その時、イエス様から「力が出ていった」と書いてあります(マルコ5:3)。そして、このあと、イエス様は、この人に、こんなふうに言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

 イエス様は確かに不思議な力を持っておられました。病気をいやし、奇跡を行う力を持っておられました。それはイエス様が神様から遣わされた「神の独り子」であったからであります。

 でも同時に、私たちは、「信仰の力」によっても奇跡は起こる、ということを、知っておいてもいいのではないでしょうか。イエス様を信頼し、イエス様に寄り頼む者には、また奇跡も起こるのであります。

 「それほど言うなら、よろしい」。この言葉は、この母親の信仰をイエス様が受け入れて下さったということであります。神様は、私たちが本当に神様に頼っていく時、それをかなえて下さるお方であります。勿論「苦しいときだけ」の神頼みでは、どうか分かりませんけれども、でも、神様を信頼し、神様に寄りすがっていく時、神様は奇跡をもって、それに応えてくださる、そういうこともあるということを、私たちは是非知っておきたいものであります。

  「信仰の力」、これは今の科学では、まだ十分証明されていません。でも、「信仰には力がある」。私たちは、そのことをよく知っております。イエス様から「力を引き出す」ような信仰、イエス様に「それほど言うなら、よろしい」と言ってもらえるような、そんな信仰をもって、私たち、これからも歩んで行ければと思います。

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