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説教 「生きている時に」 (ルカ 16:19-31)    2013/08/11

 先程お読みいただきました聖書の箇所はたとえ話ですが、二人の人物が登場します。
 一人は「ある金持ち」、もう一人は「ラザロというできものだらけの貧しい人」、貧乏人であります。

 で、ここでおもしろいのは、金持ちの方は「ある金持ち」とあるだけですが、貧乏人の方は「ラザロ」という名前が挙げられているということであります。ラザロというのは、「神、助け給う」というような意味でありますが、ラザロの運命を暗示しているようで面白いと思います。

 ところで、この金持ちと貧乏人ラザロですが、金持ちの方は「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」といいます。「紫の衣」というのは、非常に高価なものでありまして、偉い人や金持ちが着る着物であります。また、「柔らかい麻布」というのは下着でありまして、この金持ちは立派な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。

 ところが、ラザロの方は、「この金持ちの門前に横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たそうとしていた」。いわゆる乞食でありました。しかも、「犬もやって来ては、そのできものをなめた」という事ですから、ラザロは、最もみじめな、最低のどん底生活をしていた人と言ってもいいと思います。

 そして、この二人の者がついに亡くなります。金持ちも貧乏人も共に死ぬのであります。多分、ラザロの方は乞食でありますから、のたれ死にでもしたのではないでしょうか。そして、挙げ句の果ては、どこかへ運ばれて埋められたのではないかと思います。

 でも、金持ちの方は手厚く葬られた。聖書をよく読みますと、金持ちの方は「死んで葬られた」と書かれているのに対し、ラザロの方は「死んだ」という事しか書かれていません。金持ちは「死んで葬られた」。葬られたということは手厚く葬られた、非常に立派なお葬式でもしてもらったのではないでしょうか。

 死んでも、貧乏人と金持ちでは違う。これがこの世の現実であります。死ぬ時ぐらい同じだっていいじゃないかと思うかも知れませんが、なかなかそううまくはいかない。現実は厳しいものでありまして、金さえあれば立派なお葬式も出来るけれども、お金がなければそうも行かない。

 その点、教会のお葬式というのは、金持ちも貧乏人もそう変わりません。勿論、世間体とか格式というようなものもありますから、多少の違いはありますけれども、そんなに変わらない。金持ちであっても信仰的にしっかりしている人は、かえって質素にお葬式をするよう遺言を残したりしますし、葬式にお金をかけるよりは教会に献金するよう遺言しておきますから、お葬式そのものはそう変わらない。

 しかし、一般的にはどうしても金持ちであれば、それ相応のお葬式ということで立派にしますし、お金もかける訳であります。「死んだらみな同じさ」などとよく言いますけれども、これはウソッパチでありまして、死んでも金持ちと貧乏人では違うのであります。本当に死んでも同じように扱うのは、教会ぐらいではないでしょうか。

 教会では、金持ちであっても貧乏人であっても、お葬式には同じように讃美歌を歌い、同じようにお祈りをし、同じような説教をするのであります。金持ちだからといって、讃美歌が一つ多いとか、説教が少しばかり長くなるというような、そんなことはありません。そういう意味では、生きていても死んでも同じように平等に扱うのは教会だけと言ってもいいかも知れません。

 話がちょっと横道にそれましたけれども、金持ちと貧乏人ラザロ、彼らはこの世での生活も雲泥の差がありましたけれども、葬られ方もかなり違っていたようであります。

 ところで、死んだ後、彼らはどうなったのかと言いますと、ラザロの方は「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」といいます。

 「アブラハム」というのはユダヤ人のご先祖様でありまして、「宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」というのは、義人があの世で宴会を行うと考えられたいたすばらしい所、簡単に「天国、極楽」と言ってもよいかも知れません。貧乏人ラザロはそのような所に送られ、宴席に招かれ、食事をすることになったというのであります。

 一方、金持ちの方は、陰府(ハーデス)、これは地獄と言ってもよいと思うのですけれども、陰府に落とされ、「炎の中でもだえ苦しむ」はめになる。

 どうしてこのような事になったのでしょうか。聖書の答えは極めて簡単であります。25節の所を見て下さい。アブラハムは金持ちに言っています。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。

 ここだけを読みますと、金持ちの方は生前よいものを与えられ、贅沢三昧な生活をしたから、地獄に落ちた。一方、ラザロの方は生前悪いものを与えられ、みじめな生活をして来たから天国に入れられたんだという事になります。でも、それだけなんでしょうか。

 私は、ここには一つの秘密があるように思います。

 金持ちは、確かにお金を持っておりました。ですから、そのお金を用いて、贅沢三昧に遊び暮らしていた。彼は自分の事だけにお金を使ったのではないでしょうか。この金持ちは、門前に座っていたラザロを知らなかったはずはありません。できものを犬になめられながら、食卓から落ちるパンを食べようとしていた、この乞食の姿に気付かなかったはずはありません。

 しかし、聖書には、金持ちがこのラザロの存在に気が付いて、彼に何かをしてやったというような事は一切記されておりません。うすぎたない乞食など、汚らわしいと言って門前払いをくらわせるような事もしなかったようですけれども、かと言って、金持ちは決してそれ以上の親切心も持たず、関心も示さなかったようであります。

 要するに、この金持ちは、他の人間、隣人に対しては、無関心であった。また、自分のものは自分のもの、自分の金をどのように使おうと自分の勝手だと言わんばかりに、自分のことだけを考えて生きて来た。そんな人ではなかったかと思うのであります。

 この金持ちには、「自分を愛するように、汝の隣人を愛せよ」というような、そういう隣人愛の精神が微塵もなかった。しかも、隣人愛の精神がないという事は、神様に対する愛もなかった。そんなふうに言ってもいいかも知れません。

 ヨハネの手紙一の4章20節には、このような言葉があります。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(1ヨハネ4:20)。 この金持ちは目の前にいた隣人であるラザロを愛さなかったという意味で、神様を愛することもしなかった、と言ってもいいと思うのであります。

 また、イエス様の、こんな言葉もあります。「これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」。金持ちがラザロに何もしなかった、無関心であったというのは、それは神様・イエス様に対しても「何もしなかった」、無関心であったと言ってもいいと思うのでありますね。

 で、このように見てきますと、金持ちが陰府に落ちたという、その原因も少しは理解できるのではないでしょうか。金持ちは単に「金持ちだったから地獄に落ちた」ということではないのであります。金持ちが地獄に落ちたのは、彼の生前の生き方、生き様に原因があるのだと思うのであります。繰り返しますけれども、金持ちは、隣り人に無関心であった、隣り人を愛することをしなかった。また、神様をないがしろにし、自分のことだけを考えて生きて来た。そういう生き方、生き様が、彼の死後の運命を決めた、と言ってもいいのではないでしょうか。

 それでは、ラザロは、どうしてアブラハムのそば、天国に行くことが出来たのでしょうか。これも単にラザロが生前貧しい生活、みじめな環境を与えられたからという理由だけではないように思います。ラザロ、ヘブル語のエルアザルの短縮形(神、助け給う)という名前が示しているように、ラザロには神様が手助けをせざるを得ないような、そういう生き様があったように思うのであります。

 イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」という事をよく言われました。「あなたの信仰があなたを救った」。これは、神様を、イエス様を心から信頼する事によって与えられるところの「救い」であります。ラザロは、どん底の、もうこれ以上落ち込むところがないという最低の状態の中で、必死に神様の助けを求めていたのではないでしょうか。

 人生に行き詰まり、どうしようもなくなってしまった時、私たちはよく「神様、仏様、助けてください」というような事を言いますが、ラザロは、毎日、毎日、そのどん底生活の中で、「神様助けてください。神様助けてください。」と祈り続けていたのではないでしょうか。要するに、神様のみを頼りとし、神様に自分の全てを委ねる、そういう生き方をラザロはして来たのではないかと思うのであります。それ故、ラザロはその生き様が認められ、天国に送られた。そんなふうにも思われる訳であります。

 繰り返しますけれども、今日のお話は、「金持ちは生前良いものを与えられ、贅沢三昧な生活をしたから地獄に落ち、ラザロはみじめな生活をしていたから天国に行ったんだ」というような、そういう単純なお話ではありません。人間の生き方、生き様を問題にしている、そういうお話なんだろうと思うのであります。この世に生きている私たちが、私たちの人生を如何に生きるか、どのような生き方をして行ったらいいのかという、そういうことを教えているお話。私には、そんなふうに思われる訳であります。

 ある金持ち。この人は自分の持っている富を、自分の為だけに、自分の贅沢の為だけに用いました。自分の周りに貧しい人がいるにもかかわらず、そういう人たちのためには何一つせず、自分の利益になること、自分の事ばかりを考えていた。勿論、だからと言って、この金持ちが、特別悪いことをしたという事ではなさそうです。彼は、できものでおおわれた乞食のラザロが門前に座っていても、何も言いませんでした。

 普通ならば、汚い、目障りだと追っ払うかも知れませんが、金持ちはそういう事もしなかったようであります。そういう意味では、この金持ちはある程度寛大な人間であったと言ってもいいかも知れません。しかし、ただそれだけであります。進んでラザロに食を恵んでやった訳でもありませんし、ラザロを隣人として愛した訳でもありません。また、先程も申しましたように、神様・イエス様に対しても無関心であった。

 で、このようなあり方というのは、ごく普通、私たちの日常生活の中でよく見られる「あり方」ですけれども、聖書はそれを「是(ぜ)」とはしない、それでよしとはしないのであります。金持ちは死んで陰府で苦しんだというのであります。

 聖書は、神様を一人の父親とすれば、人間は皆兄弟姉妹であると教えています。そして、兄弟姉妹であるが故に、私たちは互いに愛し合わなければならない。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛さなければならない」と教えています。隣人に無関心であってはならないのであります。積極的に助け合い、励まし合う。「互いに重荷を負い合って生きて」行かなければならないのであります。

 私たちの人生、一人一人いろいろな生き方があると思いますけれども、願わくは、単に自分だけ良ければそれでいいというような生き方ではなくて、お互いに助け合い、励まし合い、支え合うというような、そういう生き方が出来ればと思います。

 ところで、最後になりますが、この金持ち、彼は陰府の炎の中で苦しみもだえながら、生前の自らの生き様を省みて、自分の兄弟がこんな苦しい所へ来ることがないように、ラザロを遣わして警告していただきたいと願う訳であります。

 しかし、アブラハムは答えて言います。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。それに対して、金持ちは「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と言います。

 モーセと預言者だけではダメだと言うのであります。死んだ者の中から誰かが直接忠告してくれなければダメ。ここには金持ちの必死な思いがこめられております。自分の兄弟にはこんな苦しい思いはさせたくない。何とかして、その生き方、生き様を変えてもらい、自分と同じ運命をたどるような事がないようにと、必死に願う訳であります。で、そのためには、死んだ者の中から誰かが直接忠告してやらねばダメだと考える。

 しかし、アブラハムは言います。今日のテキストの最後の所ですけれども、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。どうでしょうか。この言葉。

 既に神様の警告は与えられているのであります。アブラハムは「モーセと預言者」という事を言っておりますが、これは言い換えれば「聖書」と言ってもよいと思います。聖書の言葉に耳を傾けなければ、たとえ死者が生き返って警告を与えたとしても、聞き入れはしない。聞かない人は結局聞かないというのであります。

 聖書には、救いに至る道、滅びに至る道、天国への道、地獄への道、そういうものが詳しく書かれています。そして、人間の生きる道、どのような生き方、生き様をしたらいいのかという事も詳しく教えられている。今日の所もそうですし、今日も聖書の言葉をいくつか引用しましたけれども、聖書には私たちのふみ行うべき道が十二分に記されているのであります。あとは、この聖書の御言葉に、耳を傾けるかどうか、聞き従うかどうかという事だけであります。

 私たちは、聖書の御言葉を学び、生命の道、救いに至る道、天国への道を選びとって行きたいものであります。そして、生きるにせよ、死ぬにせよ、キリストを証しするような、そういう生き方をしてまいりたいものであります。

 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ 14:8)。「主のもの」、神様のものとされている私たちは、神様の御心にかなった、神様が願われるような、そんな生き方を、少しでもして行ければと思います。

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