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説教 「ピース・メイカー」 (イザヤ 2:1-5)    2013/08/04
-平和聖日-
 日本基督教団では、8月の最初の日曜日を「平和聖日」と定めています。「平和聖日」というのは、1945年(昭和20年)の8月6日広島に原爆が投下された事、また、8月9日の長崎への原爆投下、そして、8月15日の終戦のことなどを特に覚えて、平和について考えようという事で日本基督教団が特別に定めたものであります。

 戦争をしない、「戦争放棄」ということは憲法にも謳われておりますけれども、二度と戦争をしない、むしろ、「平和を実現する人々は、幸いである」というイエス様の御言葉に従い、私たちが「平和を造り出す」ために、「過去の大きな過ち」を反省し、心を新たにする、そういう意味で「平和聖日」というものを定めている訳であります。

 で、今日はこの「平和聖日」ですので、「平和」についてのお話をしたいと思いますけれども、「平和」と申しますと、よく「戦争と平和」という、そういうお話が多く語られます。

 戦争のない状態が平和。確かに、その通りなのですけれども、戦争さえなければそれでいいのでしょうか。日本は戦後68年、いわゆる「平和国家」として歩んでまいりました。それは戦後「日本国憲法」が制定され、日本は「戦争を放棄する」という、そういう事を謳ったからでありますね。

 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(憲法第9条)。

 日本はこのようないわゆる「平和憲法」を持っておりますので、戦後はどこの国とも戦争はしてまいりませんでした。日本自体はですね、戦後68年間戦争はなかった。平和だった。確かに、そうかも知れません。

 しかしながら、お隣の国では「朝鮮戦争」がありました。また「ベトナム戦争」もありました。「湾岸戦争」もありましたし、イラク戦争もありました。今でも、いろいろな所で紛争が続いています。「内戦」やテロ、民族紛争、沢山あります。

 確かに、戦後、日本は直接戦争はしませんでした。でも、直接戦争はしなくても、間接的に戦争に協力してきたということはあるのではないでしょうか。ベトナム戦争の時、日本の基地から、特に沖縄の基地から飛び立っていったアメリカの軍隊によって、沢山の人々が殺されたという、そういう事実がありますし、湾岸戦争、イラク戦争もまたそうだと思うのであります。

 湾岸戦争のときには、日本の政府は、『国際貢献』『国連中心主義』の旗のもと、90億ドル(関係費総額合わせますと135億ドル、およそ1兆3500億円)を支出し、さらに、掃海艇まで派遣いたしました。イラクには、「人道的復興支援」と銘打って自衛隊まで派遣しました。

 日本自体は、確かに戦後、戦争はしなかったかも知れません。でも、戦争に協力してきたということはあるのではないかと思うのであります。勿論、大義名分はあるでしょうし、日米安全保障条約(安保条約)もあります。また、国際平和のためだと言えば言えなくもない訳ですけれども、でも「平和国家」を標榜する日本であるならば、もう少し「平和」について、真剣な取り組みがあってもよかったのではないかと思うのであります。

 「日本国憲法」の第12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力(絶え間ない努力)によって、これを保持しなければならない」とあります。

 憲法第9条に「平和条項」があるから、日本は「平和国家である」のではなくて、私たち国民は、「不断の努力(絶え間ない努力)によって」「平和国家にしていくべき」なのではないかと思うのであります。聖書にも、「平和を願って、これを追い求めよ」(1ペトロ3:11)とか、「平和を実現する人は、幸いである」(マタイ5:9)とあります。

 日本は、戦後、軍国主義国家であることをやめ、平和国家となることを宣言しました。「戦争は二度としない」と謳(うた)ったのであります。日本は、平和(ピース)を宣言した、語った。そういう意味では「ピース・スピーカー」と言ってもいいかも知れません。

 しかし、更に大切なことは、「不断の努力(絶え間ない努力)によって」「平和国家にすること、平和を造り上げていくこと」であります。平和(ピース)を造る(メイカー)、「ピース・メイカー」ということが大切なのではないでしょうか。

 英語では peacemaker(ピースメイカー) と言いますと、一般的には「仲裁者とか調停者」という意味ですけれども、仲違(なかたが)いをしている者同士を仲裁し、調停し、平和を造っていく。日本は、そして、私たちは、そういう「ピース・メイカー」であるべきではないかと思うのであります。

 自分の国だけ平和であればいいというようなことではなくて、本当に、この世から戦争がなくなり、世界中が平和になるように、不断の努力をしていく。絶えず努力していく。そういう歩み、「平和を造り出していく歩み」こそ大切ではないかと思うのであります。

 それでは、平和を造り出すためにはどうしたらいいのでしょうか。私たちはどのような道を歩んだらいいのでしょうか。今日の聖書の所にはこんな言葉が出てまいります。イザヤ書2章3節の所ですけれども、このような言葉があります。「多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」。

 ここには、神様の所に行って、神様の御旨を聞こう・御心を聞こう。「神様は私たちに歩むべき道を示してくれる」ということが書いてあります。神様が、私たちの歩むべき道、進むべき道を教えてくれる。その道に従って歩んで行こうというのであります。神様が示してくださる道、教えてくださる道、これは確かな道であります。

 それでは、神様は私たちにどのような「道」を教えてくれるのでしょうか。4節の所には、このような言葉があります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣(つるぎ)を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2:4)。

 これは「平和の道」と言ってもいいと思います。「剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする」。戦(いくさ)のために使われる「剣(つるぎ)」や「槍」。そういうものを、戦争とは関係ない「鋤(すき)」や「鎌」とする。

 私は、農家の生まれですから、鋤や鎌もよく知っておりますけれども、今の若い人は「鎌」は知っていても、「鋤(すき)」なんて知らないという人もいるかも知れません。でも、なんとなく分かるのではないでしょうか。「鋤も鎌」も農具であります。戦争とは関係ありません。

 勿論、「鋤も鎌」も、反乱や一揆の時には武器として使われました。でも、ここで言っているのは、「剣(つるぎ)や槍」というような武器ではなくて、農具としての「鋤や鎌」に「打ち直す」ということであります。

 燕も三条も、鍛冶の町という歴史があり、この「打ち直す」ということについては、私なんかよりずっと詳しいと思いますけれども、いずれにせよ、戦(いくさ)、戦争のための武器を農耕のための道具に変えていく。これは「平和の道」と言ってもいいと思います。そして、「もはや戦うことを学ばない」。

 戦争の悲惨さを語ることも、とても大切です。8月になりまして、新聞・ラジオ・テレビ、いろいろなメディアで「戦争」の悲惨さが語られています。「あの戦争のことを忘れてはいけない・風化させてはいけない」ということで、多くの「語り部さん」なんかも頑張ってくださっております。

 今の子どもたち、戦争と言ったって、バーチャルの世界、ゲームの世界でしか分からない。そんな子どもたち、孫たちのために、「戦争というのは、怖いもの、恐ろしいもの、悲惨なもの、二度と戦争をしてはいけない」と、語り続けて行く。これはとても大切なことであります。

 しかし更に大切なことは、聖書にあるように「もはや戦うことを学ばない」ということではないでしょうか。如何にして敵をやっつける事が出来るか、ということではなくて、「もはや戦うことを学ばない」。

 昔から「兵法」というものがありまして、敵に勝つためにはどうしたらいいか、戦争になったら如何に戦うか。そういう戦争の仕方、戦い方、そういうことを今まで一生懸命学んで来ました。否、今でも学んでおりますけれども、そういうことを「もはや学ばない」。それこそ「平和を実現していく第一歩」ではないでしょうか。

 しかし、これはあくまでも第一歩でありまして、それだけで平和が訪れる訳でもありません。現実はそんなに甘くはありません。戦争をしたがっている人や、戦争をさせたがっている人たちも大勢いるからであります。私たちは「戦うことを学ばない」というだけではなく、積極的に「平和の道を学んで行く」、そういう姿勢もまた必要だと思うのであります。

それでは、平和の道をどのようにして学んだらいいのでしょうか。私たちは、それを聖書から学んでみたいと思います。聖書からと言いましても、単なる言葉ではありません。生きた実例、真の平和を私たちに示して下さったイエス様を手本として学んでみたいと思うのであります。

 ご存知のように、イエス様は何の罪も犯さなかったにもかかわらず、捕らえられ、十字架につけられて殺されてしまいました。イエス様は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と教えられ、武器、武力による平和を拒否されましたけれども、それだけではなくて、自らの命を犠牲にされて、真の平和をもたらそうとされました。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)、否、それだけではなくて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教えられたイエス様は、自らその言葉を実践されたのであります。

 十字架の上で、ご自身を十字架につけている人たちに対して、「彼らは何をしているのか分からないのです。だから、彼らをお赦しください」と祈られたイエス様。それは正に「敵さえも赦し、どんな人でも愛する」という、生きたお手本であります。

 エフェソの手紙の2章14節以下の所には、このような言葉もあります。
 「実にキリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」

 これは、ユダヤ人と異邦人の対立・隔てがなくなって、神様のもとに一つになった、キリストが平和を実現した、という事が語られている所ですが、キリストは「十字架によって敵意を滅ぼされた」というのであります。

 敵意、敵。敵がいなければ、争う必要はありません。相手が悪い、自分は正しいと主張している限り、争いは避けられません。そうではなくて、たとえ相手が悪くても、自分が十字架につけられることによって敵意はなくなるのであります。

 イエス様は、決してご自身、何か悪い事をした訳ではありません。何か罪を犯したとか、失敗したとか、そういうことではなかったのであります。でも、イエス様は十字架につけられました。それは「敵意を滅ぼす」為でありました。敵意がなければ争いがないからであります。

 戦争、あるいは争いというものは敵意から生まれます。しかし、平和は自己犠牲、愛、赦しから生まれるのであります。イエス様がその生きたお手本であります。イエス様は正にご自身の歩みを通して、あの十字架の歩みを通して、私たちに「真の平和への道」を教えられたのであります。

 イエス様は、すばらしい教えを沢山語られました。でも、イエス様のすばらしさは、単なる教えにとどまらず、その歩み・ご生涯を通して、私たちに「人間の歩むべき道」を示されたことであります。そして、その一つが「真の平和への道」であります。

 今日のテキストには、「主は(神様は)私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう」とありました。神様は、イエス様を通して、真の平和を実現する道を示されたのであります。ですから、私たちも、その道を歩んで行きたい。そんなふうに思います。

 神様が与えてくださった平和、イエス様が与えて下さった平和。イエス様は私たちにお手本を見せてくださったのですから、私たちは、そのイエス様の歩みをお手本としながら、「不断の努力、絶え間ない努力によって」、「真の平和、本当の平和」を造り出す者、ピース・メイカーになっていければと思います。

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