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説教 「共に苦しみ、共に喜ぶ」 (1コリント 12:12-27)      2013/07/28

 先程お読みいただきました聖書の所には「一つの体、多くの部分」という小見出しが付いています。
 「一つの体、多くの部分」、これは、「教会」のことを語っている言葉であります。教会には、「一つ」という側面と、「多くの部分」という側面があるのであります。そして、その関係を、今日の所は「人間の体と、手や足や目や耳という多くの部分」という「たとえ」で教えております。

 先ず、「教会は一つ」ということについてパウロはこのように言います。13節「つまり、一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。

 ここには「一つの霊」ということが語られていますが、「一つの霊」、それは「神様の霊・聖霊」のことであります。聖霊、神様の霊によって、教会は一つになるのであります。

 キリスト教の神様は天地を造られた唯一の神様であります。日本のように、八百万(はつぴやくまん)もいる神様、八(や)百(お)万(よろず)の神様ではありません。神様はお一人なのであります。

 昔、内村鑑三は、少年時代に洗礼を受けた時、こんなことを言ったそうであります。「もうあっちの鳥居やこっちのお社(やしろ)、お地蔵さんやお寺など、一つ一つに頭を下げてお参りしなくてもいいから、これは便利でいいや。」と無邪気に喜んだといいます。そうです。聖書の神様はお一人ですから、鳥居やお社(やしろ)、お地蔵さんやお寺、海や山や太陽、いろんなものを拝む必要はないのであります。

 その唯一の神様、聖書には「神は霊である」(ヨハネ4:24)とありますから、聖霊と言ってもいい訳ですが、その聖霊によって私たちは一つになると言うのであります。私たちは、「皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらった」。

 「洗礼(バプテスマ)を受け、一つの霊をのませてもらった」、それは、私たちが、古い自分に死んで、新しい人間、神の子になったということであります。イエス様を信じ、バプテスマを受けた者は皆、新しく生まれ変わり、神の子となり、一つになるのであります。そして、一つの教会、一つのキリストの体を形作っていく。

 ガラテヤの信徒への手紙の3章26節以下には、こんな言葉もあります。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。

バプテスマを受け、神の子とされた者は皆「キリスト・イエスにおいて一つ」。ユダヤ人もギリシア人もない、奴隷も自由な身分の者もない、男も女もない、みんな一つになるのであります。これはキリストの体なる教会は「一つだよ」ということを教えている言葉であります。

 エフェソの信徒への手紙には「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一である」(4:5-6)という言葉がありますが、これも、言い換えれば、このように信じている教会も、また一つであるということではないでしょうか。

 ところで今、教会というのは「一つである」というお話をいたしましたけれども、教会(エクレシア)というのは、イエス様を信じる人たちの集まり、群れ、共同体であります。そこには一人一人の教会員、イエス様を信じる人たちがいる訳であります。しかも、その一人一人は、生まれも違い、生活環境も違い、文化的背景も違います。従って、物事の考え方や受けとめ方も皆違う。勿論、働きや務めも違う。そうしますと、教会は一つであっても、その内実は皆それぞれ違う訳ですから、教会はなかなか一つになれない、統一され得ない、そんな感じもする訳であります。

 しかし、実はここにおいてこそ本当の統一というものが可能なのであります。なぜならば、違いがあるからこそ、お互いに尊重し合う、個性を認め合うということが出来るからであります。金太郎飴のように、全てが同じであり、どれをとっても変わらないのであるならば、そこには個性というようなものはありません。他者を他者と意識する感覚もなくなってしまいます。

 違いがあるからこそ、お互い、相手の存在に気づき、相手の人格を認め、相手の価値を発見することができるのであります。違いがあるからこそ、逆に統一の道も開かれて行く。そんなふうにも言えるのではないでしょうか。

 これは難しい言葉で言えば「不統一の統一」という事になりますが、教会にはそういうところがあるのであります。で、これは、一見矛盾しているようにも思える訳ですが、本当の交わりを生み出す道と言ってもいいと思います。違いがあるからこそ、本当の交わりも与えられる。「聖徒の交わり」が与えられるのであります。

 で、パウロはこのことを人間の「体」と「部分」という事で説明する訳ですが、彼は、こんなふうに言います。 「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません」(12:14-21)。

 ここの所は、よく教会における一人一人の働きの違いとか賜物の違いということで説明されることがありますが、働きの違いとか賜物の違いというのは、私たち一人一人が違うというところから出て来るものであります。確かに、私たちにはそれぞれ違った賜物が与えられ、違った働きがあります。でも、その根底には、かけがえのない一人一人の存在があるのであります。このことを忘れてしまいますと、たとえ教会は一つであっても、生きたものとはなりません。形だけの統一はあっても生きた交わりにはなりません。

 教会は確かに一つであります。しかも、キリストの体である教会は生きているのであります。ですから、生きた教会を築くためには、部分である一人一人の信仰者の違いを認め、そのかけがえのない人間存在そのものを認め合う、大切にする所から出発しなければならないのであります。

 私たちは、時々、神様のためだとか、教会の為だとか言いながら、自分と意見の異なる者、あるいは、考え方の違うものを排除するような、そういう傾向はないでしょうか。自分と同じでなければ我慢できない、あるいは、みんな一つの型にはめ込まなければ満足できない。そこからはみ出る者がいると、理由はともあれ、「お前はいらない」ということで切ってしまう。これでは教会の生きた交わりは与えられません。また、教会も生きた教会にはなりません。

 パウロが人間の「体」と「部分」というたとえで教えようとしている教会のあり方というものは非常にダイナミックであります。しかも、教会の本質をしっかりと踏まえた正論であろうと思います。私たちはもっと真剣になって、パウロが教える教会の姿、教会のあり方というものを学ぶ必要があるのではないでしょうか。

 それでは、このような「体の部分が沢山ある教会・共同体」において、その一つ一つの部分、一人一人の価値、そのかけがえなさというものを認めた上で、実際にはどのようにして教会は形成されるのでしょうか。今日のテキストでは、パウロは「強いものと弱いもの」という問題を取り上げて、このように語っています。22節以下ですが、このようにあります。

 「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 わたしたちは、体の中でほかよりも恰(かつ)好(こう)が悪いと思われる部分を覆(おお)って、もっと恰(かつ)好(こう)よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。 神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。(前の聖書では「体に調和をお与えになった」とあります。「神は劣っている部分をいっそう見よくして、体に調和をお与えになった」) それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」。

 ここを読んでお分かりのように、パウロは決して教会というものを理想化してはおりません。教会には、「弱く見える部分」もあり「恰好が悪いと思われる部分」もある。また「見苦しい部分」もあり「見劣りのする部分」もある。教会は多くの破れを持ち、弱さを持っているのであります。

 実際、この手紙の宛先であるコリントの教会は、絶えずごたごたしており、分派争いや、偶像礼拝、不品行の問題など、様々な問題がありました。それをパウロは決して否定しない。現実を現実として見るのであります。教会には「強い者」もおれば「弱い者」もいる。信仰的に立派な人もいれば、この人はちょっと、というような人もいる。しかし、現実には、教会はこのようないろいろな人がいて、教会として成り立っているのであります。しかも、先程のパウロの主張によれば、かえって弱い者が尊重され、大切にされなければならないという。

 「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。「体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆(おお)って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとする」。「見栄えのよい部分には、そうする必要はない」。

 ここには明らかに弱い者を守ろうとでも言うのでしょうか、強い者が弱い者を邪魔者扱いするのではなくて、弱い立場にある者を、守り、大切にするという、そういう視点が見られます。そして、このような弱いもの、見劣りするような者がかえって尊重され、大切にされる所、そういう所に本当の教会が形成されていくというのであります。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、(キリストの)体(なる教会)を組み立てられました」。教会に「調和」をお与えになったのであります。

 牧師は、一人一人の教会員がもっとしっかりしてくれればいいと思う。教会を強化するためには、有力な教会員がもっともっと増えて欲しいと思う。確かに、そうであります。しかし、義人、聖人、有力者だけの教会というのは、「律法学者、ファリサイ派」の教会であります。

 弱い者を大切にしない教会は、キリストの教会ではありません。キリストの教会は、かえって弱い者を必要とするのであります。体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのであります。

 それでは、どうして教会には弱い者が必要なのでしょうか。パウロは言います。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っている」と。「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合う」、そのために弱く見える部分がかえって必要だというのであります。

 「互いに配慮し合う」、前の聖書では「互いにいたわり合うため」とありました。互いに配慮し合う、いたわり合う、そのために教会は弱い者を必要とするのであります。

 ある人が悩み苦しんでいる時、その人をいたわり、気遣い、その人のことを配慮していく。自分も一緒になって悩み苦しみ、互いに重荷を負い合っていく。そこに教会の調和が生み出されるのであります。

 分裂がある所に調和はありません。調和は互いにいたわり合い、配慮し合う所に生まれるのであります。そして、教会は、そういう所なのであります。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」というような、そういう所。

 「すべての部分」。ある英語の聖書は all the members と訳しています。全てのメンバー、全ての教会員のことであります。一人の人の問題が、全ての教会員の問題になる。ある人が苦しんでいれば、みんなでそれを共有する。一人で悩み苦しむのではなくて、みんなで悩み苦しむのであります。喜ばしいことであれば、みんなでそれを喜ぶ。それが教会であります。教会のあるべき姿なのであります。私たちは、このような教会の姿を目指して歩んで行きたいと思います。

 勿論、これは現実的には、とても難しいことであります。「全ての部分、全てのメンバー」と言葉で言うのは簡単ですが、なかなかこれが「全て」にはならない。必ず一人や二人、「俺、知~らね」「私には、ちょっと無理」というような人が出て来るからであります。ですから、現実的には非常に難しいことですけれども、教会はキリストの体であります。教会が「キリストの体」であるというのは、単に、教会がキリストの手足になって働いていくという、そういうことだけではありません。キリストは、イエス様は、教会を通して生きておられるのであります。単に「キリストの体」があるだけではない。そこには「命」がある。生きたキリストがおられるのであります。そして、私たちは、その生きたキリスト、イエス様につながっている。

 問題は、本当に私たちがイエス様につながっているかどうかではないでしょうか。イエス様は「あなた方が私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:7)と約束してくださいました。

 私たちはこの言葉を信じ、互いに配慮し合い、いたわり合う教会をみんなで目指して行きたいと思います。そして、神様の栄光を少しでも現して行くものでありたいと思います。

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