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説教 「御言葉の真実」 (マタイ 6:25-34)      2013/07/14
新潟地区デーの交換講壇  在日大韓基督教会新潟教会にて
 おはようございます。今年の4月から、燕教会と三条教会の牧師になりました「小鮒 實(こぶなみのる)」と言います。“ふるさと”の歌に「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」とありますが、あの『小鮒』です。大鮒ではありませんので、形(ナリ)も小さいですが、ヒゲがあります。普通フナにはヒゲがありません!

 今日は、新潟地区の「地区デー」ということで、皆様の教会にまいりました。どうぞよろしくお願いします。

 私は、東日本大震災の被災地『石巻』から、新潟県に来ましたが、“あのとき”のことを思い起こすと、涙が止まらなくなることがあります。また、怒りっぽくなったり、「何もしたくない症候群」に見舞われたりもしています。被災地には、今でもこのような人たちが大勢います。

 新潟でも、豪雨水害があったり、何度も大きな地震があったりで大変だったと思いますが、私たちも、あの東日本大震災・大津波で、大変な経験を致しました。
 2011年3月11日、マグニチュード9の地震、そしてその後の大津波、10mも20mもある大津波、最も高い所は25.8mまで津波の水が来たという数字までありますが、あの地震と津波で、私たちは「多くのもの」を失いました。

 教会員も亡くなりましたし、家族を失った人も大勢います。
 前にいた教会には幼稚園もありましたが、園児のお母さんとその家族も亡くなりました。なんとか命は助かった人でも、家を流されたり、また、車や家財、着るもの、みんななくなってしまったという人たちも沢山います。

 「衣食住」ということを言いますが、衣食住の全てを失った人、沢山いる訳であります。また、「水・電気・ガス・電話」などのライフラインもしばらくの間全てストップ。今まで「あって当たり前」の生活をして私たちでしたけれども、その「あって当たり前のもの」を全て失ってしまったのであります。

 思い返せば、あのときは本当に何もありませんでした。食べるものがない、水がない、携帯だってずっと「圏外」で安否確認も出来ませんでした。着の身着のままでこれからどうなるのか全く分かりませんでした。
 繰り返しますけれども、今まで「あって当たり前」の生活をしていた私たちでしたけれども、その「あって当たり前」の生活を失って、ただ呆然とするばかりでした。そのような中で、一体私たち何を考え、何を学んだのか。

 ある人は、生活の知恵を学んだという人もいます。
電気が来ませんでしたから、電気炊飯器が使えません。でも、炊飯器がなければ、鍋(なべ)でもご飯が炊けることを学びました。幸い、教会はプロパンガスでしたから、プロパンガスだけは使えました。で、私の家内なんかは、教えてもらって鍋(なべ)でご飯を炊くことを覚えました。最初は焦がしたりしておりましたが、何回も炊いている内に大部上手になりました。
 また、水は非常に貴重でしたから、茶碗を洗うなんてもってのほか。茶碗を洗わなくてもいいように「ラップ」を茶碗に敷いてご飯を盛る。そうしますと食べ終わったあと、ラップだけ捨てればいい訳で茶碗は洗わなくてもいい訳であります。お皿も全く同じ。ラップを敷いて使用しました。とにかく、水道は17日間(2週間以上)出ませんでしたから、水は本当に貴重でした。

 近くに給水車が来て、水をもらいに行ったのが14日目。それまではあっちこっち水がある所まで水を汲みに行きました。また、ブルーシートを張って雪を集めトイレの水に使いました。また、食料がなければ、食料のある所に行って食料を調達してくる。
 「サバイバル」という言葉がありますが、まさに「サバイバル」も学びました。震災後3日目になりますと、いよいよ食料がなくなります。食べ物を持っている人がいれば、「その食べ物どこで手に入れたのか」と尋ね、「あそこで手に入れた」と聞けば、そこに行ってヘドロで汚れている食べ物でも持ってくる。
 良心的なお店では、冷蔵庫のものが腐るよりはということで、冷蔵庫にあったものをお店の前でみんなに配ってもいました。そういうものももらってくる。まだ、自衛隊の水や食料の配給がないときです。

 みんな同じ境遇でしたから、お互いに声を掛け合って助け合いました。いっぱい食料を手に入れた人は、「これ持って行きな」と言って分けてくれる。お互いに協力し合わなければやっていけない、そういう現実がありました。そんな中で、私たちは、お互いがお互いを思いやる「思いやり」の大切さ、また「ありがたさ」、そういうものも学びました。

 確かに、私たちはいろいろなことを学びましたけれども、でももう一つ、私たちは大切なことを学びました。それは、「御言葉の真実」であります。

 イエス様は、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6:31)と教えられました。
 先程お読みいただきましたマタイ福音書の6章25節以下「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6:25-31)

 あの東日本大震災で、私たちは『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と思い悩む余裕は全くありませんでした。むしろ、何でもいい、食べるものが欲しい。水が欲しい。着る物があれば何でもいい。そういう思いを経験しました。
 物がいっぱいあって、食べるものがいっぱいある時は、あれが食べたい、これが食べたいなんて言っておりましたけれども、震災後、何もなくなった時は、ただ食べることが出来れば、それだけでありがたかった。おにぎりでも、カップ麺でも、何でもよかった。食べることが出来れば、ただそれだけでありがたかったのであります。

 飲物だってそうであります。ジュースが飲みたい、コーラが飲みたいなんて誰も言いませんでした。ペットボトルの水があれば、それだけでありがたかったのであります。
 着る物だってそう。1週間、2週間、着の身着のままでも、なんとか我慢出来ました。私がお風呂に入ることができたのは13日目ですけれども、それまでは本当に着の身着のままの生活でした。

 『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切である。
 イエス様は、このように教えられましたが、私たちは、実際に、この「御言葉の真実」を体験したのであります。

 物がいっぱいあったときは、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」なんていう御言葉を聞いても、そんなにピンとは来ませんでした。でも、現実に何もない生活を体験して、この御言葉が本当である、真実であるということを私たちは知ったのであります。
 「知った」というのは、体で分かったという意味であります。本当に分かったのであります。身にしみて分かったのでありますね。聖書の御言葉は「真実」なのであります。

 御言葉の真実、それは、ペトロの手紙一2章11節の言葉なんかもそうであります。
ペトロの手紙一2章11節には、こんな言葉があります。
「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」。
新共同訳聖書は「(あなた方は)いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」と訳していますが、私たちは、この世にあっては「旅人」であり「寄留者」「仮住まいの身」である。だから、「肉の欲をを避けなさい」。

 地震と津波で家を失い、住む場所を失って避難所生活を余儀なくされた人たちは、正に「寄留者」(仮住まいの身)でした。
 避難所は自分の家ではありません。仮住まいであります。家が残っていて、お家に帰られた人たちも沢山おられますけれども、避難所生活をしなければならなかった人たちも沢山いたのであります。
 聖書の言葉は、決して避難所生活のことを語っている訳ではありません。でも、この世にあって、私たちは旅人、寄留者、この世に一時的に仮住まいしている者であるという実感は、あのときそれなりに持てました。
 この世に命を与えられ、そしてこの世で生活している私たちですけれども、「私たちの本国(国籍)は天にある」。そういう「聖書の真実の世界」を、私たちは体験したのであります。

 変な言い方ですけれども、この世で生活しておりますと、私たちは「この世のことが全てである」と錯覚しがちであります。現実は、目に見えるこの世のことだけですから、この世のことが全てだと思うのであります。自分の家、自分の車、自分の持ち物、自分の物はみんな自分の物、そう思うのであります。

 でも、家が流されて何もなくなってしまう、そして仮住まいの避難所生活を強いられると、この世のものだけが全てであるとは思えなくなってしまう。勿論、この世の生活は大切であります。自分の家に帰りたい、自分の家で落ち着いた生活がしたい。早く町が復興すればよいと思う。確かに、そうであります。みんなそう思っています。
 でも、津波で何もなくなってしまったあの瓦礫の山を見たとき、私たちは、この世にあって「旅人」であり、仮住まいの者、そして「私たちの本国(国籍)は天にある」という、聖書の御言葉の世界をまた思い浮かべたのであります。

 いずれにせよ、聖書は真実を語ります。その真実に触れるとき、私たちはまた、希望を持つことが出来るのであります。この世の生活だけが全てではない。私たちには帰るべき本国がある。

 「御言葉の真実の世界」、それは私たちが普段普通に生活しているときには、なかなか見出しにくいものかも知れません。でも、今回のような大震災を経験し、すべてを失ったとき、自分のものが何もなくなってしまったとき、私たちは、そこに「真実を見出す」、御言葉の真実の世界を見出すのであります。

 自分のものは自分のもの、何でも自分のものにしたいという、そういう世界からは、なかなか真実が見えて来ません。むしろ、自分のものを神様に明け渡す、自分のものを失うときに、本当の真実というものが見えてくるのではないでしょうか。

 ところで、今日の聖書のお話に戻りますけれども、イエス様は「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」と教えられたあと、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と教えられました。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。
イエス様は「神の国と神の義」ということを言われます。神の国とは何でしょうか。新共同約聖書のうしろの用語解説には「神の国というのは、場所や領土の意味ではなく,神が王として恵みと力とをもって支配されること。イエス様が来られたことによって,既に始まっているが,やがて完全に実現する新しい秩序」なんて説明が書いてあります。

 でも、神の国というのは単なる説明ではありません。現実の世界であります。イエス様は、新しい掟ということで、このように教えられました。
 「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」
 「互いに愛し合う世界」、それが神の国ではないでしょうか。互いに愛し合う、それは、「自分を愛するように隣り人を愛する」世界であります。困っているいる人、助けを必要としている人がいたら愛の手を差し出す世界であります。

 今回の大震災で、私たちは多くの人たちから「愛の手」をいただきました。たくさんの「思いやり」をいただきました。見も知らない人たちからも多くの支援をしてもらいました。本当に感謝しています。
 勿論、いただくだけではなくて、全国から送られてきた救援物資を地域の人たちにも分けることができました。必要なものをタダで持って行ってもらいました。普通の日常生活ではありえないことが現実に起こったのであります。
 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)。そういう現実が実際にありました。私は、あの震災後の生活の中で「神の国」を垣間見た思いがいたします。
 あのときは本当に皆「やさしかった、思いやりがあった、愛がありました」。ボランティアの人たちも沢山来てくれました。必要な物も備えられました。「主の山に備えあり」という言葉がありますけれども、本当に「備えられた」のであります。あのとき経験した「御言葉の真実の世界」を、私は、これからも語り続けて行きたいと思っています。

 聖書の御言葉、神様・イエス様の御言葉は真実です。本当です。間違いありません。聖書の御言葉に批判的な人たちもいます。でも、私たちは「御言葉は真実である」ことを知っています。ですから、「折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝える」者でありたいと思います。(2テモテ4:2)

 私たちの人生、いろいろなことが起こります。私が経験した東日本大震災、こんなこと二度と経験したくありませんけれども、神様は、どんなときでも私たちと一緒にいてくださいます。そして、御言葉を通して、私たちを励まし、導いてくれます。

 詩編の中には「あなたの御言葉(神様の御言葉)は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という言葉もあります(詩119:105)。御言葉は、私たちの歩む道を照らしてくれるのであります。御言葉は真実です。いつも御言葉に耳を傾け、御言葉によって励まされ、力を与えられて、これからも力強い歩みをしてまいりたいと思います。 

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