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説教 「神さまのみこころ」 (マタイ 20:1-16)      2013/07/07

 今日 のところは「ぶどう園の労働者」のたとえというところであります。ぶどう園を経営している主人と労働者のお話(たとえ)、こんなお話であります。
 ぶどう園の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に出かけていき、労働者たちに一日1デナリオンの賃金を支払うという約束をして、彼らをぶどう園に送ったというのであります。

 1デナリオンというのは、聖書のうしろの「度量衡(どりようこう)および通貨」の表によりますと、「ローマの銀貨で、1デナリオンは、1ドラクメと等価・同じ価値(一日の賃金に当たる)」とあります。

 新潟県の最低賃金は、去年(2012年)の10月5日から689円になりました。それまでは時給683円でしたから6円引き上げられた訳であります。ちなみに、東京の最低賃金は850円になりましたので、新潟県は東京と比べますと、時間給で161円も安いということになります。これが1日8時間労働ということで8倍しますと、一日の賃金が新潟県は、東京よりも1,288円も安い。具体的な一日の賃金(日当)で言えば、新潟県が最低賃金で5,512円だとすれば、東京は6,800円。1,288円も違う訳であります。これでは、みんな東京の方へ行ってしまうということにもなりかねない訳ですけれども、今は最低賃金のお話ではありません。イエス様のお話、ぶどう園の主人のお話であります。

 ぶどう園の主人は、一日1デナリオン、今で言えばいくら位なのかは分かりませんが、当時の一日の賃金で、日雇い労働者を朝早く雇った訳であります。

 ところで、9時頃にまた広場に行ってみると、何もしないで立っていた人々がいたので、その人たちにも声をかけ、雇いました。この人たちには、一日いくらという約束をしないで、ただ「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言って雇いました。

 また、主人は、12時頃と3時頃にも出て行き、同じように人を雇いました。そして最後に夕方5時頃、また行ってみると、まだ立っている人たちがいたので、その人たちにも「ぶどう園に行きなさい」と言って雇ったということであります。

 で、ここには、夜明け、9時頃、12時頃、3時頃、5時頃という時間の経過が述べられておりますが、原文のギリシア語では、9時頃というのは、「およそ第3時」となっています。同様に「12時頃と3時頃」というのは、「およそ第6時と第9時」。5時頃というのは、「およそ第11時」となっています。時間の数え方が違うわけでありますね。

 当時のユダヤ人は、昼間を12時間に分け、太陽が昇る6時頃から時間を数えて行きました。ですから、第3時というのは、私たちの9時。第6時、第9時、第11時というのは、それぞれ、12時、午後3時、5時という事になる訳であります。現代のほとんどの聖書は意訳して、現代の時間にあわせて翻訳しておりますが、英語のR.S.V.(Revised Standard Version)やKing James Version、ドイツ語のZürcher Bibel などといった昔の聖書では、ギリシア語を忠実に訳して、第3時、第6時、第9時、第11時などとしております。少し横道にそれたようですが、このような知識も聖書を読むとき、知っておくと便利ですので、あえてお話させていただきました。

 さて、話は戻りますが、夕方になって仕事が終わり、賃金が支払われるときを迎えます。ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言いました。

 まず最初に、夕方5時頃雇われた人たちが来て、それぞれ1デナリオンずつ賃金を支払ってもらいました。夕方5時頃来て、1時間足らずの仕事をして1デナリオンの賃金をもらう。もらった人は、きっと喜んだに違いありません。1時間で1デナリオン。だから、最初に雇われた人たちは、もっと沢山もらえるだろうと期待していたのですけれども、結局もらったのは1デナリオンだけでした。
 
 ですから、最初から来ていた人たちは、賃金をもらったとき、主人に対して不平を言いました。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。(にもかかわらず)まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは。(これは一体どういうことですか)」と文句を言った訳であります。この発言は、当然と言えば当然な発言と言えるかも知れません。

 1時間で1デナリオン。最初に雇われた人たちは、たぶん10時間近く働いたんじゃないでしょうか。朝早く、夜明けから夕方まで、まる一日働いたのでありますね。勿論、昼食の時間や休み時間もあったとは思いますけれども、それでも彼らは一日中働いた。にもかかわらず、同じ1デナリオンの賃金。文句を言わない方がおかしいと思うのであります。しかしながら、このぶどう園の主人は、平然として、このように答えるのであります。

 「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」

 皆さん、この主人の発言、どう思いますでしょうか。確かに、一日1デナリオンの約束で雇ったのだから、主人は不正をしている訳ではありません。また、自分のものをどのようにしようと、それはその人の勝手であります。でも、どうも割り切れないものが心に残る。そんな感じを持ちませんでしょうか。

 私たちの普通の考えから申しますと、この主人の扱い方に不満を持つのは、これは当然だと思います。もし、今の世の中で、このようなことが行われたら、それこそ大変です。先ず労働基準法にひっかかります。労働基準法の総則の第三条に、「均等待遇」ということで、このように述べられております。「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間、その他の労働条件について、差別的取り扱いをしてはならない。」

 ぶどう園の経営者は、正に差別的取り扱いをしているのでありまして、現行法によりますと、「6箇月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処」せられるということになります。要するに、処罰を受けなければならないのであります。

 また、人道的に見ましても、この主人の勝手さに腹が立つという人もいるかも知れません。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」なんて、これは正に権力者の発想そのものであります。一昔前ならば、こんなぶどう園の主人、大衆団交にでも引っぱり出されて自己批判させられるところであります。

 確かに、この「ぶどう園の労働者」のたとえ話、これは私たちに違和感を与えます。しかし、これは「天の国」神の国のたとえ話なのでありますね。イエス様は「天の国は次のようにたとえられる」ということで、このようなお話をされた訳であります。ですから、私たちも、そういう意味で、このお話を理解しなければならないと思います。それでは、このお話が、「天の国・神の国のたとえ話」だとすれば、私たちにどんなことを教えているのでしょうか。

 先ず第一に、神様は私たちを神様のご用のために用いてくださるということがあると思います。ぶどう園の主人が「神様」だとするならば、そのぶどう園の仕事をするというのは、神様のお手伝いをすること、と言ってもいいと思うのでありますね。神様は、私たちにぶどう園の仕事をさせたいのであります。神様のお手伝いをさせたいのであります。そして、そのために神様ご自身が先ず、私たちに働きかけてくださる。夜明けに、また9時頃、12時頃、3時頃、5時頃、いつでも、神様は私たちを捜し、私たちに働きかけてくださって、そして「神様のご用をしなさい」と言ってくださるのであります。

 この神様の呼びかけに対して、どう応えていくか。それは私たちの問題ですけれども、とにかく、神様は、私たちに、神様のお手伝いをしなさいと働きかけて下さっている。私たちは、先ずこのことに気づきたいと思います。そして、願わくは、私たちも、この神様の呼びかけに対して、応えていくものでありたいと思うのであります。神様のためならば、最後に雇われた者のように、ほんの少しでもいい、「小さなお手伝い」でもいい、神様のお役に立つ、そういう働きができればと思うのであります。

 それから、第二ですが、第二はやはり「神様の恵み」というのは、みんなに平等に与えられるということであります。最初から働いた者も、また、最後に来て、ほんの少ししか働かなかった者でも、その報酬はみな同じでした。神の国では、みな平等なんであります。この平等ということが分かりませんと、私たちは神の国というものが分かりません。

 先程も申しましたように、確かに、ぶどう園の主人は、身勝手で、人を差別しているようにも思えるのであります。10時間働いても、1時間しか働かなくても同じ賃金じゃ、これは不平等であります。しかも、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」なんて言われたら、誰だって腹が立ちます。しかしながら、このぶどう園の主人の身勝手さ、えこひいきに腹を立てる私たちは、どこに身を置いているのでしょうか。多分、10時間も一生懸命に働いた労働者の立場に身を置いているのではないでしょうか。だからこそ腹が立つのであります。

 しかしながら、もし1時間しか仕事が出来なかった労働者の立場に立ったらどうでしょうか。私たちは感謝するに違いないと思うのでありますね。たった1時間しか働けなかったけれども、一日の賃金がもらえる。こんなにありがたいことはありません。問題は、私たちがどこに身を置くかであります。どのような立場、どのような視点を持つかであります。同じ出来事に対して、腹を立てるか、それとも感謝するのか。それは、その人の「身の置き場」によって違って来るのであります。

 神様は、決してえこひいきなさるお方ではありません。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方なのであります(マタイ5:45)。神様の言動に対して、不平等だ、差別だ、身勝手だと不平を言うのは、私たちが立つべき立場に立っていないからであります。立つべき立場に立つならば、私たちにも神様の恵みが見えて来るのであります。また、神の国というものがどのようなものなのかということも分かってくるのであります。

 最近は、能力主義というようなことが言われ、沢山働けば沢山お金がもらえる。しかし、働きが悪ければクビになる。そういうご時勢であります。そして、それが当たり前のようになって来ております。確かに、会社を経営するのは大変なことであります。だからこそ、合理化を行い、効率を求めるのも分かります。しかしながら、すべて能力主義で、能力がある者は認めるけれども、十分な働きが出来ない者は切り捨てるという、そういう姿勢だけでいいのでしょうか。

 生まれながら心身に障碍があり、ほかの人と同じような仕事が出来ない人もいます。昔は「役立たず、穀潰(ごくつぶ)し」なんて言われたりも致しました。でも、そういう人だって一生懸命やれば、同じような恵みにあずかることが出来るとするならば、こんなにすばらしいことはありません。神の国というのは、正に、そういうものなのではないでしょうか。いっぱい能力があればいっぱい認められ、少ししか能力のない者は、少ししか認められない。それがこの世の常識かも知れません。しかし、天の国、神の国は違うのであります。5タラントンの者も2タラントンの者も、また1タラントンしか力が無くても、出来ることを精一杯やれば、神様は同じ恵みを与えてくださるのであります。それが神の国であります。

 ぶどう園の主人の言葉。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」という、この言葉は、確かに、神様の身勝手さを示すようにも受けとめられます。しかし、むしろここにこそ「神様のみこころがある」、そんなふうに理解しますと神の国というものもよく分かって来るのではないかと思います。

 神の国、それは、みんなが一生懸命に働けば、みんなが同じ恵みにあずかることが出来る、そういう世界であります。神様は決してえこひいきしている訳ではないのであります。神様は、出来る者にも出来ない者にも、みんなに「恵み」を与えたいのであります。それが「神様のみこころ」なんであります。後から来た者も、先からいた者も、みんなに同じ恵みを与えたい。それが神様のみこころ。この神様のみこころが分からないと、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になって」しまうのでありますね。

 イエス様は、今日のお話の最後、このように言われました。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20:16)。神様の恵みを、素直に、感謝と喜びをもって受け入れる者は、たとえあとから来た者であっても先になるのであります。逆に、先にいた者であっても、不平不満ばっかり言っているならば、あとになってしまう。「信仰生活、ただ長ければよいのではない」というのは、正にそういうことを語っているのではないでしょうか。信仰生活、長いとか短いとかということよりも、むしろ大切なのは、本当に神様の恵みを、今、素直に、感謝と喜びとをもって受け入れるかどうか、あるいは、受け入れているかどうか、そういうことなのではないでしょうか。

 いずれにせよ、私たちは、自分の立つべき立場をしっかりと見極め、どこに立つのかということをしっかりと見極めて、神様の恵みを喜び、感謝して受けとめて、歩んで行きたいものであります。

 神様のみこころは、私たちの思いとは違います。私たちが、「それはえこひいきだ、不平等だ、神様の身勝手だ」と言うとき、逆に、そこにこそ「神様のみこころ」があるのかも知れないと、反省してみることも大切ではないかと思います。いずれにせよ、神様のみこころをわきまえ、謙遜になって歩む者でありたいと思います。

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