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説教 「変えることの出来ないもの」 (1コリント 3:10-11)    2013/06/30

 今日は、三条教会創立65周年の記念礼拝を、皆様とご一緒に守っております。この三条教会は、1948年(昭和23)6月、新潟教会の中井佐一郎牧師を迎え、西巻さん(西巻清さん・トミさん)のお宅で、毎週、聖書研究会を行ったことから始まりました(「三条聖書研究会」)。以来、65年間、三条教会は、山あり谷ありでしたけれども、神さまに守られ、導かれて、今日に至りました。

 私は、今年の4月に、こちらに赴任して来たばかりですので、詳しいことはよく分かりませんが、幸い2009年4月に発行された「三条教会の創立60周年記念誌」というものがありますので、これを読み返しながら、少し三条教会の歩みを、振り返ってみたいと思います。

 三条教会は、先程も申し上げましたように、西巻さんのお宅で、聖書研究会を行ったことから始まりましたけれども、教会には大体「前史」があります。それに至るまでの前の歴史・歩みがある。で、「三条教会創立60周年記念誌」によれば、1943年(昭和18)、新潟教会員・阿部宇一郎兄が第四銀行三条支店長として三条に赴任し、隣家の西巻清兄、トミ姉を招き、自宅で聖書研究を始めた、というのが、その「きっかけ」ということになっております。

 1943年(昭和18)と言えば、まだ戦時中でありまして、キリスト教にとっては非常に厳しい時代でありました。1940年に、国家権力によって日本基督教団が作られ、教団に入らなかった教会なんかは、かなり厳しい迫害を受け、憲兵に連行されて拷問を受けたり、中には獄死した人たちもおりました。当時は、「キリストと天皇、どちらが偉いのか?」なんて質問されたり、宮城(きゆうじよう)遥拝(ようはい)、皇居に向かって礼拝することが強要されていた時代であります。

 日本基督教団は、この時代、戦争に加担したということで、戦後「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦責告白」というものを出しましたけれども、当時は、戦争色一色、とても伝道出来るような、そんな状況ではありませんでした。

 でも、そんな時代でも、伝道がなされていたのでありますね。新潟教会の阿部宇一郎さんという方が第四銀行三条支店長として三条に赴任し、隣りの家の西巻さんご夫妻を招き、自宅で聖書研究を始められた。当時の状況を考えると、これは驚異的なことであります。西巻さんも西巻さん。あんな状況下で、よく聖書を学ぼうなんて思われたのか。不思議であります。

 ところで、1945年(昭和20)、戦争が終わりますと、今度はキリスト教ブームというものが起こります。戦時中「軍国主義」「天皇絶対主義」でやってきた日本ですけれども、戦争に負けて、人々は今までの価値観を変えざるを得ませんでした。そこに登場したのが、いわゆる「キリスト教」であります。

 戦後のキリスト教、これはすさまじいものでありました。多くの人が教会に集まったのであります。大人も子供も、沢山の人が教会に来ました。教会学校なんかも子どもたちであふれていました。ものがまだあまりなかった時代、テレビもゲーム機もなかった時代。教会は、珍しいということもあって、とにかく沢山の人たちが教会に集まって来た。一種の社会的ブームになっておりました。キリスト教関係の集会をしても、沢山の人が集まりました。「創立60周年記念誌」の中に、賀川豊彦氏の三条座での講演会の記事が、写真付きで載っていますけれども、そのとき「決心者が101名も与えられた」なんてことも書いてあります。この101名、そのあとどうなったのでしょうか。

 で、この戦後のキリスト教ブームの中で、1948年(昭和23)6月、西巻さんのお宅で「三条聖書研究会」が発足(ほつそく)し、新潟教会の中井佐一郎牧師が来てくださることになり、三条教会の基礎が出来る訳であります。今申しました賀川豊彦氏の講演会の1年4ケ月前であります。

 ところで、このようにして誕生した三条教会、当時はまだ「家の教会」というかたちでしたけれども、1951年(昭和26)10月、帯広教会の佐藤茂見牧師(~1955.3)が燕教会に赴任され、三条の集会も応援してくれました。当時は、洲脇五東兄、泉姉宅のお宅が主な集会場所であったとあります。その後、財津正弥牧師(1955.4~1956.9)、平山武秀牧師(1957.4~1960.4)と変わり、この平山武秀牧師時代、1958年(昭和33)7月、三条市裏館に教会堂が建設される訳であります。教会創立10周年の年でありました。

 1960年(昭和35)5月には、中村 武(たけし)牧師(~1968.5)を燕教会及び三条伝道所主任担任教師として迎え、礼拝を隔週で行うことになりました。同年7月には、教会学校も開かれています。

 1963年(昭和38)1月には、38豪雪。翌年(よくとし)、1964年(昭和39)6月には新潟地震。大変な年もありましたが、1968年(昭和43)8月、今度は田中恒夫牧師(~1978.3)を同志社大学から燕教会及び三条伝道所主任担任教師として迎えます。教会創立20周年の年であります。

 その後、1978年(昭和53)4月、田中恒夫牧師の世光教会、アシュラムセンター転任に伴い、新島学園より田中徹夫牧師(~1983.3)を燕教会及び三条伝道所主任担任教師として迎える。教会創立30周年の年でありました。で、この田中徹夫牧師の時代、1980年(昭和55)に、今あるこの教会堂がこの地(本町六丁目)に出来る訳ですが(11/30献堂式)、これを機に専任の牧師を迎えようということになり、翌年の1981年(昭和56)4月、日本ルーテル神学大学より長田康志伝道師(~1992.3)を三条伝道所担任教師として迎えます。そして、その翌年1982の7月、三条伝道所は第二種教会になります。

 伝道所と教会の違いは、現住陪餐会員が20名以上いれば教会、20名以下は伝道所ということで、当時20名以上の教会員がいたのでしょう、三条教会は、三条伝道所から「第二種の三条教会」になりました。伝道所とか教会、これは日本基督教団の規則による呼び方でありまして、10人であろうと20人であろうと「教会」と呼んでいる教会は沢山ある訳であります。教団以外の教会、特に単立の教会なんかは、このあたりのことは、ほとんどこだわっておりません。

 日本基督教団は合同教会ですから、いろいろな教派の教会の寄せ集め、先程申しました戦時中、便宜的に作られた教団ですから、規則がないとやっていけない訳であります。ですから、今でも規則、規則ということを言う訳ですが、規則ばっかりが全てではないと、私なんかは思う訳であります。

 最近、洗礼を受けていない人に聖餐式のパンと杯を与えたということで、日本基督教団から免職処分を受けた牧師がいます。北村慈郎牧師。ご存じの方もいると思いますが、洗礼を受けていない人に聖餐式のパンと杯を与えたというだけで牧師をクビにする。聖書の愛の精神、赦しの精神よりも、規則だからということで規則を優先する。それが今の日本基督教団であります。

 まあ、教団批判はさておいて、教会のことに戻りますが、三条教会は、1982年、伝道所から第二種教会に格上げされます。ちなみに、日本基督教団の規則では、教会員が50名以上いれば、第一種教会と呼ばれますが、面白いことに、一旦第一種教会になってしまえば、その後会員が減って20名以下、要するに、伝道所なみになっても、第一種教会のままであります。

 戦後、キリスト教ブームの中で「第一種教会」50名以上になった教会、沢山ありました。でも、今は20名未満で伝道所なみの教会になっている、そういう教会も全国には沢山あります。例えば、新潟地区で言えば、佐渡教会、五泉教会、小出教会が、そうであります。いずれも「第一種教会」ですが、現実は伝道所なみの教会であります。

 第一種教会で、第二種教会なみの教会は、村上教会、中条教会、新発田教会、燕教会、十日町教会、高田教会。第二種教会なのに伝道所なみの教会は、三条教会、見附教会、新井教会、妙高高原教会。教団の規則では「格上げ」はしても「格下げ」はしないのでありますね。それは規則がないからであります。私は、個人的には、このようなランク付けはない方がいいと思っておりますけれども、教団の教会であれば、やはり教団の規則に従わなければならない、という現実がある訳で、非常に複雑な思いをしております。

 ところで、この三条教会が、伝道所から第二種教会になった年、長田先生が三条教会に赴任された翌年、1982年4月に、私は五泉教会に赴任してまいりました。ですから、このあたりの所からは、なんとなく覚えているのですが、なんせ30年も昔ですから、「うろ覚え」の所もありまして、1983年(昭和58)3月、田中徹夫牧師が永山伝道所に転任されので、4月から長田康志先生が三条教会専任の主任担任教師となったのは覚えているのですが、1988年の「三条教会創立40周年記念礼拝、並びに長田圭子牧師就任式」のことは、あまり覚えていないのであります。

 長田先生が圭子先生とご結婚されたことは覚えているのですが、1988年6月19日、「三条教会創立40周年記念礼拝が守られ、そのあと長田圭子先生の牧師就任式」が行われようですが、そのあたりのことは、あまり覚えていない。この時の写真が「創立60周年記念誌」に載っておりますが、春名先生や小淵先生、見附の島田先生や栃尾の酒井先生なんかの顔はあるのですが、私の顔はありません。どうしてなのかと思いまして、当時の五泉教会の資料を見てみましたら、ちょうどその日は幼稚園の後援会の総会があって、どうも圭子先生の就任式には出席できなかったようであります。まあ、こんな調子ですので、昔のことは「うろ覚え」で、私の記憶もあまり当てになりません。

 ところで、三条教会のことですが、1992年(平成4)4月、長田康志・圭子牧師の後任として、小笠原 純牧師(~1997.3)が岡山教会から主任担任教師として来られます。そして、1993年(平成5)11月には「教会の墓地納骨堂」が完成し、1995年(平成7)3月には、宗教法人格も取得いたしました。その後、1997年(平成9)4月、土佐教会より西川晃充(あきみつ)牧師(~2001.3)を主任担任教師として迎え、1998年(平成10)、教会創立五〇周年のときには、教会の看板を設置しました。2001年(平成13)4月からは柴田 実牧師(~2004.3)を主任担任教師として迎えましたが、2004年(平成16)3月に柴田先生が辞任されたときは、牧師招聘の目処が立たず、新潟教会の上島一高牧師が代務者(6月)としてご奉仕くださいました(6月)。

 で、ちょうどこの無牧師の時代、2004年(平成16)の7月13日には、新潟豪雨水害が起こり、また、同年10月23日には、マグニチュード6.8、最大震度7の新潟県中越地震が起こりました。この水害と大震災で、教会員のお宅も大きな被害を受けられました。7・13の水害の時の写真、また、10・23の中越大震災の時の小千谷市内の様子が「60周年記念誌」に載っておりますが、本当に大変な年でありました。三条教会は、この7・13の水害の時、「新潟地区情報支援センター」として用いられ、大方さんは、そのときのことを「記念誌」の中に書いてくださいました。

 ところで、この翌年(よくとし)の4月、2005年(平成17)の4月、同志社大学から西川幸作先生(~2013.3)を主任担任教師として迎え、そして、2008年(平成20)には、教会創立60周年を祝い、このような「記念誌」も出来ました。そして、今年、2013(平成25)4月、兼牧というかたちですが、私・小鮒が三条教会に来た訳であります。

 まあ、牧師中心の流れでしたが、とにかく、今日は、三条教会創立65周年記念礼拝ということで、三条教会の歩み・歴史を、少しばかり振り返ってみました。「ああいうことがあった、こういうことがあった」、「あんな牧師がいたなあ」と、思い出してみるのも大切ですが、昔のことなんてあまり興味ないという人もいるかも知れます。

 確かに、「ああいうことがあった、こういうことがあった」という思い出だけでは、単に「過去をなつかしむ」ということでは、あまり意味がないかも知れません。でも、三条教会の歩みを、牧師は一生懸命勉強してくれた。これで、牧師も、少しは三条教会のことを分かってくれたのかな、なんて考えていただければ、ありがたいと思います。

 相手のことが分からなければ、親しみを持てない。好きだから、もっと相手のことを知りたい。そういうことがあると思います。私は、三条教会がとっても好きです。ですから、三条教会のことも勉強してみました。これから皆様と一緒に歩んで行きたいと思うからであります。

 教会の歴史を振り返りますと、すべて順調だったなんて教会、どこにもありません。みんな山あり谷ありの歩みをしております。三条教会も然り。大変なことが沢山ありました。でも、神さまが今に至るまで、この三条教会を守り、導いてくださいました。心から感謝したいと思います。そして、牧師も変わったことですし、新たな思いで、また歩み出して行きたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

 ところで、今日お読みいただきました聖書には、「土台」ということが記されております。
「私は、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることはできません。」(1コリント3:10-11)

 ラインホールド・ニーバー(1982-1971)という人の「祈り」に、こんな祈りがあります。

神よ、変えるべきものであることについて、それを変える勇気を私たちに与えてください。
変えることの出来ないものについては、それを受け容れる冷静さを私たちに与えてください。
そして、変えるべきものと変えることの出来ないものとを、識別する知恵を私たちに与えてください。 有名な祈りであります。

 ニーバーは、「変えるべきもの」と「変えられないもの、変えることの出来ないもの」があるといいます。教会の土台であるイエス・キリストは、「きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方」、決して「変えることの出来ないもの」であります。この先、三条教会がどのような歩みをしていくか、それは誰にも分かりません。でも、土台がしっかりしていれば大丈夫。時代は変わり、人も変わるかも知れませんが、変えることの出来ないもの、イエス・キリストをしっかりと見上げ、イエス様に従って歩むならば、きっとまた道は開かれて行くと思います。

 長田康志先生の時代、「教会の経済状態は、会社で言えば倒産寸前」というような言葉が出てきます。あの時代から、30年前から三条教会は大変だったのであります。今でもそうであります。「会社で言えば倒産寸前」。ですから、今回、牧師も専任の牧師を招聘することが出来なかった。また、長田先生以前のような、燕教会と兼牧という状態に戻ってしまいました。でも、大丈夫。ご安心ください。変えることの出来ないもの、イエス・キリストという土台がしっかりしていれば、必ずまた道は開けて行くのであります。それが私たちの信仰であります。
神さまの御手に全てを委ね、イエス様を信じて、これからも、皆様と一緒に歩んでまいりたいと思います。

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