今日の聖書の箇所は、復活されたイエス様がペトロに「私を愛しているか」と尋ねた、あの有名なお話の続きの所であります。
ペトロはイエス様が捕まった時、三度も「イエス様なんて知らない」と言ってしまった人であります。イエス様はペトロに「あなたは、今日、鶏が鳴くまでに三度私を知らないと言うだろう」(ルカ22:34)と言われた訳ですが、正にその通りになってしまった。
しかし、復活されたイエス様は、「私を愛しているか」と三度もペトロに尋ねます。三度「イエス様を知らない」と言ったペトロ。それに対して、イエス様も三度「私を愛しているか」とペトロに尋ねる。非常に面白いお話ですけれども、そのイエス様の問いに対して、ペトロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答える訳であります。
で、このペトロの三回目の答えのあと、イエス様はこのように言われました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)。
これは明らかに「迫害の予言」とでもいうのでしょうか、ペトロがこれからどのような歩みをするのか、その前途多難な将来を語ったものであります。聖書にも、これは「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」という説明がついています。実際、まあこれは伝説ですけれども、ペトロはネロ皇帝の時代に「さかさ十字架」につけられて殉教したと言われています。
ところで、このようにイエス様から将来の事を予言され、また「わたしに従いなさい」と言われたペトロですけれども、ふと振り返るとイエス様の愛しておられた弟子が、そこにおりました。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」(20)。
で、ここからが今日のお話の所ですけれども、ペトロは、このイエス様の愛しておられた弟子、(この弟子が、このヨハネ福音書を書いたヨハネではないかと言われておりますけれども)、とにかく、ペトロはこのイエス様の愛弟子(まなでし)を見て、イエス様に尋ねる訳であります。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。それに対して、イエス様はこのように答えられたといいます。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(21:22)。
ペトロは、イエス様から「お前は将来こういうふうになるぞ」と言われたのでありますね。しかも、それは決して喜ばしいような将来ではなくて「ほかの人が帯をつけて、行きたくない所へ連れていく」というような、そういう将来、苦難の将来、もう少し言えば、迫害の将来、殉教の将来なのであります。それでもペトロは、イエス様から「わたしに従いなさい」と言われて、その気になる訳であります。
ペトロにしてみれば、三回もイエス様を知らないと言ってしまった手前、もう二度と同じ過ちを犯すことは出来ない。ですから、ペトロもそれなりの覚悟は出来ていたと思うのであります。しかし、そこに別の人がいた。イエス様が愛しておられた別の弟子。その弟子のことが気になるのであります。で、ペトロはイエス様に「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と聞く訳ですけれども、イエス様は「あなたは、わたしに従いなさい」と、こう言われました。
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」。ペトロのこの問いは「人と比べる・比較」という問いであります。
私たちは無意識のうちに、いつも誰かと比較しながら自分を見ているという、そういうところがあります。確かに、人と自分を比較して、あの人にはあんなにすばらしい所があるから、自分も見習おうという事で自分も頑張っていくというようなことであれば、これはすばらしい事であります。
しかし、実際は必ずしもこのようなことだけではありません。人と比べて、あの人よりも自分は劣っているということで劣等感を持つ。あるいは、反対に、あの人よりも私の方が優れているという事で優越感を持つ。劣等感も優越感も、それは共に比べることから生まれてくる産物であります。で、どちらが優れ、どちらが劣っているかという、そういう優劣という発想。これは人間関係を歪(ゆが)める原因でもあり、あまり良い事ではありません。
ペトロが「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問うた、この問いは、優劣という発想とはちょっと違いますけれども、深いところでは関連しているのではないでしょうか。要するに、神様の前にあっては「あなたはあなた」という、そういう視点が欠けている。そういう所から出て来ている問いのように思われる訳であります。
聖書は、神様によって造られた私たち人間は、どんな人でも皆平等である、神様の前にあっては優劣というようなものはない。すべての人が皆かけがえのない大切な存在であると教えています。神様の前にあっては、皆平等なのであります。神様の目から見れば、私たち一人ひとり、皆「かけがえのない大切な存在」なのであります。
確かに、人間的に見れば、皆一人ひとり違います。能力も違いますし、性格も違う。聖書のお話で言えば、5タラントンの人もいれば、1タラントンの人もいる。イエス様の弟子で言えば、すぐ「カッー」となる弟子(ゼベダイの子のヤコブとヨハネ、ボアネルゲス・「雷の子ら」(マルコ3:17))もいれば、何でも疑ってかかるトマスというような弟子もいる。皆違う訳であります。
しかしながら、神様の前にあっては、皆大切な一人ひとりなのであります。神様は、人間的には一人ひとり違う私たちを、「あなたはあなた」として、大切にしてくださるのであります。ですから、私たちも、神様の前にあっては、「私は私」という、そういうあり方をしなければなりません。
キルケゴールという人は「単独者」ということを言いました。神様の前に「ただ一人立つ」というような意味ですけれども、人のことを気にする前に、先ず、神様の前に、一人の人間として立つ。「あなたはあなた」と言ってくださる神様の前に、「私は私」として立つことが大切なのであります。
ペトロが「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねたこの問いの背景には、「あなたはあなた」「私は私」という、神様の前に「ただ一人立つ」という、そういう視点が欠けているように思います。人のことが気になるペトロ。それに対して、イエス様は「あなたは、わたしに従いなさい」と言われる。問題はやはり「あなた」なのでありますね。人がどうのこうのではない。神様の前にあなたはどうなのか、あなたはどうするのか、それが問題なのであります。
私たちは人間社会に生きておりますから、どうしても人のことが気になります。あるいは、人のことを気にして生きております。人のことが気になる、あるいは、人のことを気にするというのは、隣人愛というような視点から言えば、それはそれなりに大切な事かも知れません。「隣は何をする人ぞ」で、知らんぷりでは困ります。
しかしながら、人のことが気になって自分の使命を忘れるようでは、これまた困る訳であります。たとえ人はどうであれ、自分はこうなんだというような、そういうあり方も時として必要なのではないでしょうか。 そして、もしそのことが本当に大切な事であるならば、イエス様が言われるように「あなたは、わたしに従いなさい」というような事であるならば、やはり躊躇せずに自らのあり方をはっきりさせるべきだと思います。「あなたはどうなのか」、これは他人事ではありません。あなたの問題、自分自身の問題なのであります。
で、この「あなたの問題」、言い換えれば、自分の問題という事ですけれども、これは先程も申し上げましたように、神様の前に、かけがえりない大切な存在として、しっかりと立つかどうかということであります。要するに、縦の関係というのでしょうか、神様と自分との関係、その関係がしっかりしているかどうかということであります。
神様は確かに全ての人を愛しておられます。イエス様の十字架もそれは全ての人のためのものであります。しかし、この「全て」という表現によって自分の存在、あるいは、自分のあり方というものが薄められてはならないと思います。神様にとっては「全て」ですけれども、私たちにとっては、それはあくまでも私たち一人一人「自分の問題」なのであります。
自分が神様の愛をどのように受け止めるか、自分がイエス様の十字架によって救われているかどうか、決して他人事ではなくて、自分の問題として受け止めなければならない訳であります。そして、自分が本当にしっかりと神様の前に立つ事が出来るならば、そこから「横の関係」というのでしょうか、人と人との関係も、それなりにうまく行くのではないかと思うのであります。
私たちは縦よりも横を先に見る、そういう傾向があります。横の関係は目に見える関係ですし、意識しなくても、それなりに関わりを持たなければなりませんから、横の関係はよく分かる訳ですけれども、縦の関係というのは目に見えませんから、本当に意識的に、主体的に取り組んで行かなければ、つい見失ってしまう、そういう所があります。しかし、本当に大切なのは、先ず縦の関係。神様との関係をしっかりと受け止め、それから横の関係を考えるという事ではないでしょうか。
秩序、あるいは順序という言葉がありますけれども、先ず「縦」、それから「横」という秩序、順序。カトリックの人が十字を切る時、彼らは必ず「縦」を先に切ります。決して「横」じゃない。縦の関係がしっかりしていれば必然的に横の関係もしっかりしてくるのであります。
で、この縦と横の関係ということについて、聖書にはこんなお話が載っております。律法の専門家が、イエス様を試そうとして、こんな質問をしたというのであります。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。
この質問に対して、イエス様はこんなふうに答えられました。 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37-40)。有名なお話であります。
イエス様は先ず「神様を愛しなさい」と教えられたのであります。それから「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられた。神様を愛することと隣り人を愛すること、これは切っても切れない関係、同じように大切ですけれども、でも順序があるのであります。先ず「神様を愛する」という縦の関係、それから「隣り人を愛する」という横の関係。私たちはこの順序、秩序というものをやはり大切にしたいと思います。
先程も申し上げましたけれども、縦の関係がしっかりしていれば、横の関係も必然的にうまく行くようになるのであります。なぜならば、御言葉をしっかりと聞く者は、その御言葉によって生きようとするからであります。
よく「人を見ないで神を見る」とか「キリストを見る」ということが言われます。人ばかり見ていると「つまずく」訳であります。いつも不平不満ばっかり言っている人、お高くとまっている人、いつも上から目線でものを言う人。そんな人ばっかり見ていると、教会に来るのもいやになります。ですから、先ず「神様を見ましょう、イエス様を見ましょう」ということが言われる訳であります。人ばっかり見ているとつまずくから、神様を見上げる、イエス様を見上げる。縦の関係をしっかりと築くことが大切なんであります。
勿論、「「あなたはあなた」「私は私」ということで、人のことなんて関係ない、どうだっていいというのではありません。横のつながり、人と人の関係、これはとても大切であります。困っている人がいても見て見ぬふりをする、あの祭司やレビ人のようでは困る訳であります。
しかしながら、こと信仰に関しては、「この人はどうなるのか」「あの人はどうなのか」ということではなくて、「あなたはあなた」「あなたは、わたしに従いなさい」という、そういう世界があるということを覚えたいと思います。
キリスト教の信仰は、一人ひとりのものであります。仏教のような檀家制度がありません。親子であっても、親の信仰を子に強制することは出来ないのであります。夫婦であってもそうであります。本当は、家族みんなが同じ信仰を持てれば、これはすばらしいことですけれども、現実は、必ずしもそううまくは行かない訳であります。
だからこそ、私たちは祈っていく訳ですけれども、信仰の世界には、「あなたはあなた」「私は私」という世界もあるということを覚えたいと思います。人のことが気になることもあるかも知れませんが、「あなたはあなた」。一人ひとりの人生を大切にして行くものでありたいと思います。
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