今日は、礼拝後、午後3時から「牧師・伝道師の就任式」が執り行われます。今回は、私の燕教会と三条教会の牧師就任式、それから、田中弘子先生の燕教会伝道師就任式、これらを全部一緒にやってしまおうということで、かなり異例な就任式であります。司式をしてくださる熊江秀一先生も大変でありまして、何度か打合せをして、やっと落ち着く所に落ち着きました。
で、今日は、先ずこの就任式の予行練習を少しばかりしておきたいと思うのですが、何と言っても就任式のハイライトと言えば、「牧師・伝道師の誓約」、それから「教会員の誓約」であります。で先ず、牧師・伝道師の誓約ですが、大体、こんなふうな問と答になっております。
問「あなたは今この教会の牧師(伝道師)としての任務につこうとしています。あなたはこの教会に招聘(しようへい)されたことを神のみ旨であると信じ、主の栄光のためにその身をこの職にささげる覚悟がありますか。あなたは、主の賜(たも)う恵みによって、み言葉の奉仕者としてふさわしい言行をなし、この教会の牧師(伝道師)の務を忠実に果たすことを約束しますか。」
これに対して「神と教会との前で謹んで約束いたします」というのが、牧師・伝道師の誓約であります。
これに対して、「教会員の誓約」は、少し長いですが、こんなふうにあります。
「あなた方が招聘したこの敬愛する教師は、今あなた方の牧師(伝道師)として主からつかわされました。あなた方はこころから感謝して、この教師を受け入れる覚悟がありますか。」 ここで「はい」と答えないで下さい。まだあとがあります。
「元来、牧師(伝道師)の任務は教え、勧め、導き、また戒めることであります。それゆえに、あなた方は牧師(伝道師)の説く真理に、謙遜と善意とをもって聞き従うことを約束しますか。 (ここでもまだ「約束します」と答えないで下さい。まだまだ続きます)
牧師(伝道師)は重大な責任を身に負って群れを守るものであります。それゆえに、使徒たちが命じたように、牧師(伝道師)に対して従順であることを約束しますか。(まだですよ)
牧師(伝道師)は人を救いに導く務をゆだねられた者であります。あなた方はこのために牧師(伝道師)をはげまし、また支持することを約束しますか。(まだです)
あなた方は教会の中で紛争を起こしたり、党派を結んだり、分離をはかったりするようなことはなく、どんなことでも愛と和らぎとをもって行い、ことごとに相慰め、励まし、支えて、牧師にその職を全うさせることを約束しますか。(まだ、あります。)
兄弟姉妹、主は福音をのべ伝える者が福音によって生活すべきことをお教えになりました。また聖書に「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべての良いものを分け合いなさい」と書かれています。これは、主および使徒たちがねんごろに教会に教えたことであって、あなた方もまたすでに(招聘状の中で)これを約束しました。あなた方は、神の恵みによって、誠実にそれを守ることを約束しますか。」
ここまで来ましたら、「私たちは神と教会との前で謹んで約束いたします」と答えていただきたいと思います。
ところで、この就任式の「誓約」のポイントですが、それはやはり「神様」にあると思います。牧師・伝道師は「あなたはこの教会に招聘されたことを神のみ旨であると信じますか」と問われます。牧師・伝道師は、神様のみ旨によって、この教会に招聘された。そう信じなければ、やって行けません。長い間牧師をしておりましても、新しい教会に行けば、人も違い、環境も違う、組織も教会によって違う、みんな違う訳ですから、一からの出発であります。神様のみ旨だと信じなければ、やって行けないのであります。
教会員の誓約も、そうであります。「あなた方が招聘したこの敬愛する教師は、今あなた方の牧師・伝道師として主からつかわされました」。主から遣わされた、神様から遣わされた。そういう意識がありませんと、教会員もまたやって行けないと思います。田中先生は、この燕教会に長いですから、皆様よくご存じですけれども、私なんか初めてですから、どこの馬の骨か分からない。そんなものが、自分たちの牧師になるなんて、不安ではないでしょうか。
勿論、履歴書をみれば、顔や経歴は分かります。でも、人間的にはどうなのか、どんな牧会をするのかなんて、一度や二度の説教を聞いただけでは分からない、分かりようがない。ですから、新しい牧師を迎えるというのは、これは人間的に見れば、とても難しいことと言ってもいいと思います。でも、「主から、神様から遣(つか)わされた者」だから受け入れていく。それが牧師、あるいは、伝道師を受け入れるということであります。
牧師が代(か)わる(交代する)というのは、単に「上の者が変わる」というような、そういうことではありません。確かに、この世的には、「代表役員が変わる」。ですから、代表役員変更の手続きもしました。登記もしました。でも、教会は、そういうことだけではないはずであります。教会は、「きのうも今日も、また永遠に変わらないイエス・キリストを土台とする」共同体。また、神様に選ばれ、「恵みにより召された者たちの集(つど)い」集まりであります。教会には、いつも神様が、イエス様が、その中心におられるのであります。
牧師が新しく就任する。それは単に人が変わる、上の者が変わるという、そういうことだけでは決してありません。牧師や伝道師は、「主が遣わされた、神様が遣わされた」のであります。ですから、そういう思いで、就任式に臨んでいただければと思います。
ところで、この「教会員の誓約」ですが、「約束しますか」という言葉が何度も何度も出てまいります。
「あなた方は牧師(伝道師)の説く真理に、謙遜と善意とをもって聞き従うことを約束しますか。」
「使徒たちが命じたように、牧師(伝道師)に対して従順であることを約束しますか。」
「牧師(伝道師)をはげまし、また支持することを約束しますか。」
「あなた方は教会の中で紛争を起こしたり、党派を結んだり、分離をはかったりするようなことはなく、どんなことでも愛と和らぎとをもって行い、ことごとに相(あい)慰め、励まし、支えて、牧師(伝道師)にその職を全うさせることを約束しますか。」
「あなた方は、神の恵みによって、誠実にそれを守ることを約束しますか。」
いっぱい出てまいります。
確かに、いっぱいある訳ですけれども、私が最も望むのは、「あなた方は教会の中で紛争を起こしたり、党派を結んだり、分離をはかったりするようなことはなく、どんなことでも愛と和らぎとをもって行い、ことごとに相(あい)慰め、励まし、支えて、牧師(伝道師)にその職を全うさせることを約束しますか」という、この一文(いちぶん)であります。
教会の中で紛争がある、もめている。これでは、お話になりません。証しにもなりません。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 すべてのものの父である神は唯一である」(エフェソ4ケ5-6)。これが教会であります。勿論、教会も「人の集まり」ですから、一人ひとり考え方も違い、いろいろな意見もあります。いろいろな意見があっていいと私は思います。しかしながら、教会内に紛争が起こり、党派が出来たり、分裂が起こるようでは、これは困ります。
私たちの神様は「愛と平和の神様」であります。今日取り上げた聖書の後半部には、このような言葉があります。「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(2コリント
13:11)
思いを一つにし、平和を保つとき、愛と平和の神様もまた、私たちと共にいてくださるのであります。これが教会の姿ではないでしょうか。だからこそ、「あなた方は教会の中で紛争を起こしたり、党派を結んだり、分離をはかったりするようなことはなく、どんなことでも愛と和らぎ(愛と平和)とをもって行う」よう勧められているのあります。
ところで、この「教会員の誓約」の後半部ですが、「どんなことでも愛と和らぎ(愛と平和)とをもって行い、」のあとに、このようにあります。/「ことごとに相(あい)慰め、励まし、支えて、牧師(伝道師)にその職を全うさせることを約束しますか」。 「ことごとに相(あい)慰め、励まし、支える」。「相(あい)慰め、励まし、支える」ですから、「お互いに」であります。お互いに慰め合う、励まし合う、支え合う。それが教会であります。
新しい牧師が来た。伝道師が与えられた。さあ、慰めてもらいましょう。励ましてもらいましょう。支えてもらいましょう。ではなくて、「お互いに」であります。教会員同士「お互いに」、また、牧師・伝道師・教会員「お互いに」であります。牧師や伝道師が、教会員を慰め、励まし、支えるのは当たり前。確かに、そうかも知れません。でも、牧師や伝道師も人間です。弱さがあります。ですから、慰め、励まし、支えてもらいたいのであります。
6月30日に出る予定の「地区ニュース」。私は、この「地区ニュース」の「新着牧師紹介」、(新しく新潟地区に着任した牧師の紹介)の所に、こんなふうにに書かせていただきました。
「4月より、燕教会と三条教会の主任担任教師になりました「小鮒 實」です。“ふるさと”の歌に「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」とありますが、あの『小鮒』です。大鮒ではありませんので、形(ナリ)も小さいですが、ヒゲがあります。(普通フナにはヒゲがありません!)よろしくお願いします。まあ、このようなお決まりの自己紹介のあと、このように記しました。
私は、東日本大震災の被災地『石巻』から来ました。“あのとき”のことが今でもフラッシュバックして涙が止まらなくなることがあります。また、怒りっぽくなったり、何もしたくない症候群に見舞われたりしています。
震災後、ボランティアの受入、瓦礫処理、救援物資の受入・配布、諸工事、事務処理等、忙しく過ごして来ました。でも、人間の頑張りには限界があります。そんな時『少し、休んだらいいよ』という声を聞きました。「柿の木もお休みの年があります。あなたの回りの人が疲れているようでしたら、『少し、休んだらいいよ』と、やさしく声をかけてあげてください。」 私も妻も疲れ果て(精神的にも肉体的にも)、“休む時”も必要であると判断し、被災地をあとにしました。(後ろ髪を引かれる思いで)
現在、二つの教会をかけ持ち。教会総会、役員会、説教、聖研祈祷会、家庭集会、その他諸手続き等々、それぞれの教会の“お役”があり、多忙な毎日ですが、教会の皆様にはやさしくしていただいています。
還暦を過ぎている老体ですから、ゆっくり、あせらず、一歩一歩、少しずつ歩みを進めて行きたいと思っています。ちなみに、着任後最初の説教は「亀になりましょう!」でした。」
こんな自己紹介文です。
お見合い説教のときにも、お話させていだきましたけれども、あの東日本大震災のときは、本当に大変でした。あのときのことが、突然「フラッシュバック」して、思い出されて、涙が止まらなくなることがあるんですね。大きなショックを受けたときの典型的な症状であります。
また、怒りっぽくなったり、何もしたくない症候群に見舞われたりすることもある。これも、あの震災の影響であります。まあ、怒りっぽいのは昔からですけれども、日本基督教団の被災地に対する対応なんかを考えると、すぐにプッツンしてしまうことがある。そして、どうでもいいや、なるようにしかならないと諦めてしまう。
また、やらなければならないことも、なかなか手がつかない。やる気力が起こらないのでありますね。何もしたくない症候群。これは完璧に「病気」と言ってもいいかも知れません。心が癒やされていないのでありますね。
それから、もう一つ、これは「地区ニュース」には書きませんでしたが、皆様には前にもお話したことですけれども、我が家は、今、病気の息子をかかえています。うつ病になり、仕事も出来なくなり、今も東京の「心療内科」に月1で通っています。
見かけは普通の人と変わりませんけれども、やる気が起こらない。体調も悪くなったりして、食事も食べたり食べなかったり。また、昼と夜が逆転したりというようなことで、見ているだけでも大変であります。本人もつらいとは思いますけれども、見ている家族だってつらい。なんとかならないかと思う訳ですが、でも、この病気は、時間をかけませんと治らない病気ですから、今は“ゆっくり静養させてあげよう”と、家族みんなで耐えております。
牧師だって弱さをかかえております。牧師の家族だからといって、すべてが順調な訳では決してないのであります。だからこそ、「お互いに、慰め合い、励まし合い、支え合う」という、この言葉、身に染みるのであります。
確かに、「イエス様ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(ヘブライ2:18)。その通りであります。私たちを本当に助けてくださるのは、イエス様であります。
でも、上から目線で、こう語られるよりも、今の私は、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)とか、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊(とうと)ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ。」(1コリント12:26)という、このような言葉の方に、惹かれます。
人、皆、弱さを持っています。いろいろな問題をかかえています。悩み苦しみがあります。だからこそ、お互いに慰め合い、励まし合い、支え合うことが必要なのではないでしょうか。牧師だって決して例外ではありません。ですから、「お互いに」なのであります。
今日は、「励まし合いましょう」という説教題にしました。「慰め合いましょう」では、お互いに、傷をなめ合うような、そんなイメージもありますので、「励まし合いましょう」にしてみました。でも、中身は、あくまでも「お互いに慰め合いましょう、励まし合いましょう、支え合いましょう」ということであります。
うわべは偉そうにしている私たちですけれども、一皮むけば、皆、弱さいっぱいの私たちであります。その弱さが出せるところ、それが教会であります。遠慮しないで、お互いに弱さを見せ合いながら、そして、励まし合っていければと思います。
今日の聖書の箇所を、もう一度読んで、終わります。 「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(2コリント
13:11)
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