今日は「放蕩息子のたとえ話」の所。先週も「放蕩息子」のお話に触れましたけれども、今日は、このお話を少し丁寧に学んでみたいと思います。
先ず、登場人物ですけれども、主な登場人物として、弟と兄と父親が出てまいります。そして、物語の前半部は、弟が中心になって描かれておりますが、後半部は、兄のお話になります。
ところで、ここで「弟」として登場する人物というのは、どういう人の事なのかと申しますと、これは15章の最初の所をみますとよく分かると思うのであります。ルカ福音書の15章の1節以下の所には、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエス様の所に近寄って来た」とあります。そうしますと、「ファリサイ派の人々や律法学者たちが、「この人は(イエス様は)、罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした」というのであります。
「徴税人や罪人」。徴税人は税金を集める人たち。罪人は律法を守れない人たち。要するに、彼らは、みんなから軽蔑され、バカにされていた人たちであります。そういう人たちが、イエス様の話を聞こうと集まってきた。しかも、イエス様は、そういう人たちと一緒に「食事」までされたようなんであります。
当時、一緒に食事をするというのは、「同じ仲間」という、そういう意味合いがありました。ですから、イエス様は「徴税人や罪人」と同じ仲間であるような、そんな意味合いで「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」から非難されたのであります。
しかし、そのとき、イエス様は「次のたとえを話された」ということで、先ず「失われた羊」の話をされます。100匹の羊がいて1匹だけいなくなってしまった。しかし、その一匹が見つかったので「一緒に喜んでくれ」というお話を語る。そして、このお話の最後を、このような言葉で締めくくります。15章7節です。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
それから次に「無くした銀貨のたとえ話」。10枚の銀貨を持っていた女の人が1枚を無くしてしまう。でも、その一枚が見つかったので「一緒に喜んでください」というお話。そして、最後に、「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と、イエス様は教える訳であります。
こういうお話が先ずあって、そのあと、今日の「放蕩息子のたとえ話」が語られる訳であります。ですから、今日のお話の「弟」というのは、このお話の流れから言いますと、「徴税人や罪人たち」、そんなふうに言ってもいいと思います。そうしますと、「兄」というのは、イエス様を非難した「ファリサイ派の人々や律法学者たち」、そんなふうに言えるのではないでしょうか。それでは、「父親」というのは誰のことかと言いますと、それは勿論「神様」あるいは「イエス様」のことであります。
ところで、今日のこの「放蕩息子」のお話では、普通前半部の弟の方に重点が置かれて、後半部の兄の方は付け足しのような形で考えられる場合もありますけれども、このたとえ話が、今申しましたイエス様のあり方を非難したファリサイ派の人々や律法学者たちへの「反論」であるとするならば、後半部も決して見過ごしには出来ません。否、後半部にこそ、このお話の本意がある。そんなふうにも言えるのではないかと思うのであります。
ということで、今日の放蕩息子のお話、一応「弟のお話」から始めたいと思いますけれども、弟は、父親から財産の分け前をもらって遠い国へ旅立とうとする訳であります。12節の所には、このようにあります。「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立って行った」。
この語りは、ごくあっさりしていて、とりたてて何の問題もないようにも思われますが、しかし、よく考えますと、ここには一つ大切なことが語られているようにも思われます。それは、財産の持ち主というのは、もともと父親、父親が財産を持っていたということであります。これは、言い換えれば、全ての物は神様のものであるという、そういうことが言われているのではないでしょうか。私たちは自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの、何でも自分のものにしたがる傾向があります。でも、本当は、私たちの持ち物、それが私たちの命であれ、私たちの財産であれ、能力であれ、全てのものは、神様から与えられたものなんでありますね。
弟は、そのことを忘れ、財産を分けてもらったものですから、それを好き勝手に使いました。お金は使えばなくなります。当たり前であります。弟は先のことなど考えず、持っているお金を全部使ってしまうのであります。聖書には、彼は「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」とあります。持っているお金を全部使ってしまって、スッカラカン。そして「ドン底生活」に陥る訳であります。
しかも、その頃、その地方に飢饉も起こり、彼は食べるものにも困って、豚の世話までします。豚は、当時の人たちにしてみれば「汚れた動物」と考えられておりましたので、誰も好きこのんで「豚の世話」なんかしない。でも、彼は、食べられるならということで、豚の世話までするんでありますね。人間、ドン底にまで落ち込めば何でもする。でも腹は満たされない。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたいと思いますが、食べ物をくれる人はだれもいませんでした。本当の「ドン底生活」に陥る訳であります。
人間、本当のドン底にまで落ち込むと、その人にとっては二つの道しか残されていません。一つは、死ぬことであり、もう一つは、そこから浮き上がってくる事であります。最近では、行き詰まって、どうしようもなくなって「死を選ぶ」というような人も珍しくありませんけれども、この弟は、ドン底生活の中でも、死を選びませんでした。むしろ、彼は、本心に立ち帰って、こんなふうに言うのであります。
『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
この弟は、「悔い改める」のでありますね。「私は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました」。悪かったと思うのであります。でも、悔い改めるというのは、単に「悪かった」と反省するだけではなくて、実際に方向転換をすることであります。彼は、本心に立ち帰り、心からの悔い改めをもって、父親の所に帰っていくのであります。
帰っていく所があるというのは、これはすばらしいことであります。私たち人間の間では、故郷を失い、帰る所がなくなってしまったという人も珍しくありません。しかし、そういう人でも、本当に帰るべき所、神様の所には帰ることが出来ます。私たちの心を神様の方に向ければいいのでありますね。
勿論、簡単にこのように申しましても、神様のもとに帰るには、この弟のように一大決心をしなければなりません。生半可な気持ちでは、結局、途中で挫折してしまいます。しかしながら、心から、本当に自らを反省し、悔い改めて、心を神様の方に向けるならば、神様は、どんな人でも無条件で受け入れてくれます。しかも喜んで迎えてくれるのであります。父親は、この放蕩息子が帰ってきたのを見つけた時、走り寄り、その首をいだいて接吻したといいます。しかも、祝宴まで開いて歓迎した。
このようなことが出来るのは、神様以外にはおりません。普通の父親であれば、文句の一言、二言、必ずあると言ってもいいと思います。しかし、神様は違います。神様は、この父親のように、何も言わずに、「よく帰って来てくれた」と温かく迎え入れてくれるのであります。それが神様の愛であります。神様は、たとえ私たちがどんな人間であろうとも、どんな生活をして来た人間であろうとも、悔い改めて、神様の所に帰ってくるならば、誰でも無条件に温かく迎え入れてくださる。そういうお方なのでありますね。
ところで、この弟を温かく迎え入れた父親の行為を非難した者がおります。弟の兄貴であります。兄は父親が祝宴を始めたものですから、腹を立てて、家にも入らず、なだめにやって来た父親に、こんなことを言います。15章29節以下。「『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』」
兄は、弟のように家を飛び出すことはしませんでした。ですから、いつも父親と一緒にいたらしいのであります。しかし、この兄は、いつも父親と一緒にいたのにもかかわらず、父親の気持ちが分かりませんでした。ですから、弟が帰ってきて、祝宴が催されても、それを素直に受け入れることが出来ず、かえって父親を非難し、不満をぶつけるのであります。
この兄の姿は、先程申しました、イエス様を非難したあの「ファリサイ派の人々や律法学者たちの姿」と言っていいと思います。当時の「ファリサイ派、律法学者」と言えば、信仰的にも熱心で、いつも神様の律法を守り、神様の近くにいると思われていた、そういう人たちであります。しかし、実際には、彼らは神様の御心が分からず、神様から遠く離れていたのでありますね。
ですから、彼らは、神様がおつかわしになったイエス様を受け入れようとはせず、かえって、イエス様を非難した。イエス様が「徴税人や罪人」を受け入れ、一緒に食事をしているのを見て非難した。そして、最後には十字架につけて殺してしまう訳であります。彼らは、イエス様の心、神様の心が分からなかったのであります。父親が放蕩息子を温かく迎え入れたのに対して、兄が不平を言い、父親を非難している姿、それは、正に、ファリサイ派、律法学者の姿そのものであります。
ところで、この兄の不平不満、非難に対して、父親はこのように答えております。31節以下ですけれども、「『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
この父親の言葉は、非常に意味深長であります。前半部の「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」という言葉は、何となく皮肉っぽく聞こえますが、後半部は、正に「恵みの福音」であります。「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。(だから)祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前」。
これは、先程の「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」の最後に記されていた言葉と同じであります。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが「天」にある。」「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」。神様が喜んでくださるのでありますね。私たちが「悔い改め」、神様のもとに帰るというのは、神様が喜ばれることなのであります。
私たちは、福音に出会うまでは、神様から離れ、死んだような状態でありました。ちょうど放蕩息子のように、自分勝手に生きてきたのであります。しかし、福音に触れ、神様・イエス様に出会って、私たちは新しい歩みへと導かれました。私たちは、今まで神様の御心が分からず、ただ自分の思いに従って生きて来ましたけれども、神様のもとに帰って、新しい生き方、新しい人間へと変えられたのであります。
私たちが救われるというのは、勿論、それは私たちにとって喜ばしいということですけれども、それだけではなくて、イエス様は、それは神様にとっても喜ばしいことだと教えるのでありますね。これは不思議な事でありますけれども、神様が私たちにとっての「父」であるとするならば、これは当然と言えば、また当然の事と言ってもいいかも知れません。
とにかく、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかるということは、人間にとっても、神様にとっても、喜ばしいこと、うれしいこと。私たちは、神様の前にあって、弟のような、放蕩息子のような歩みをして来たかも知れません。あるいは、兄のような、神様の近くにいると思いながらも、神様の御心が分からない、そういう歩みをして来たかも知れません。しかし、いずれにせよ、神様のもとに立ち帰り、神様の心を自分の心として生きる。そういう生き方が出来ればすばらしいと思います。私たちは、もう一度自らの歩みを反省しながら、神様の心が少しでも分かるような、そして、神様に喜ばれるような、そんな歩みを目指して歩んで行きたいものであります。
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