今日の聖書の箇所は、アダムとエバが、エデンの園で禁断の木の実を食べてしまったあとどうなってしまったかという所であります。アダムとエバは、神様から「食べてはいけない。食べたら死んでしまう」と言われていた「禁断の木(こ)の実」「善悪の知識の木(き)の実」を、蛇に誘惑されて食べてしまった訳であります。さて、そのあとどうなったのか。
その日、神様がエデンの園にやって来て「アダムよ、お前はどこにいるのか」と呼びかけます。アダムとエバは、神様の歩く足音を聞いて、恐ろしくなり、木(こ)の間(ま)に隠れていたんでありますね。いつもは神様がやって来れば、元気に挨拶でもしていたのでしょうが、今日はちょっと違います。アダムとエバがいない。そこで神様は「どこにいるのか」と呼びかける訳であります。
アダムは、どんなに隠れていても結局は見つかってしまうと思ったのでしょうか、彼は「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と、木(こ)の間(ま)から答えます。そうしますと、神様は「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いかけます。「お前が裸であることを誰が告げたのか」。
アダムとエバは、もともと二人とも裸だったんでありますね。でも、彼らはそんなこと少しも恥ずかしいとは思わなかった。少し前の所、2章の25節の所には「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とあります。しかし今は恥ずかしい。彼らの目が開けて「恥ずかしい」という思いが沸いてきた訳であります。聖書には「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆(おお)うものとした」(3:7)とあります。
しかし問題は、「裸だから恥ずかしい」という事ではありません。神様が「取って食べるな」と命じておいた木(き)の実(み)を食べたのかどうかという事であります。「お前は取って食べるなと命じた木から食べたのか」。
アダムはどうせ隠し通せるものでもないと思ったのでしょうか、このように答えます。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。彼は「食べた」と言うのであります。しかし、それだけではありません。彼は「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べた」と答えるのです。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女」、すなわち、彼の妻エバですけれども、アダムは「あなたが、神様が、私と共にいるようにしてくださった女が」というようなことを言う訳であります。あたかも神様にも責任があるかのような言い方であります。
彼は素直に「自分が悪かった」とは言えないのであります。「神様が私と共にいるようにしてくださった女が、取って与えたので、食べた」。確かにその通りなのでしょう。アダムは「エバが取ってくれたので食べた」のであります。しかし、それは神様の言い付けに背くものでありました。アダムはエバが取ってくれた木の実が「禁断の木の実」であることを知っていたのであります。知りながら、それを食べた。食べた以上、それはアダムの責任であります。でも、彼はあたかも神様にも責任があるかのような、また、妻のエバが悪いという、そういう言い方で答える訳であります。これは明らかに責任転嫁であります。人のせいにする。妻が悪い、神様が悪い、自分は悪くはない、自分には責任はないという言い逃れ、責任転嫁。
ところで神様は、アダムが「エバが取ってくれたので食べた」と言いましたものですから、今度はエバに向かって「何ということをしたのか」と言います。そうしますとエバは「蛇がだましたので、食べてしまった」と答える。
面白いことに、エバも「自分が悪かった、ごめんなさい!」とは言わないのでありますね。「蛇がだましたので、食べてしまった」。その通り。しかし、これも責任転嫁ではないでしょうか。食べてしまったのは事実ですから、悪いのはエバ自身なのであります。結局、アダムもエバも、自分が悪いとは認めたくない。誰かの責任にしたいのでありますね。
「してはいけないこと」をしてしまった時、「ごめんなさい」が言えない。素直に自分が悪かったとは言えない。かえって言い訳をし、「誰それが悪い」と人のせいにする。それはアダムやエバだけの問題ではありません。私たちの姿でもあります。
私は幼稚園の仕事を長年してまいりましたけれども、幼稚園では、子供たち同士、時々「けんか」をします。少々のけんかは大目に見て、見て見ぬ振りをしていますが、取っ組み合いになり、殴ったり、蹴ったりし始めると先生が出ていって仲裁に入ります。そして、どうして「けんか」になったのかを聞く訳ですけれども、大体が「誰々ちゃんがぶったとか、蹴ったとか」、お互いに、そんな事を言う訳であります。それぞれに言い分があるのでありますね。
でも、それぞれの言い分を十分に聞いてあげてから、最後には、お互いに「ごめんなさい!」と言わせて仲直りさせます。どちらが先に手を出したのかという事だけではなくて、いけないことをしたのならば、ごめんなさい!と謝る、そういう習慣を身につけさせるよう指導してまいりました。
人のせいにする、「誰々が悪い」と責任を転嫁する。それは大人の世界だって同じであります。前に「ご主人がお茶碗をひっくり返したお話」をしましたけれども、「あなたは何をやってもドジってばかりでだめねー」と奥さんが言えば、「お前が早く片付けないから悪いんだ」とご主人が言い返す。「自分が悪かった」となかなか言えない現実がある訳でありますね。だからこそ、誰かが先ず「わるもの」になって、「私が悪かった」と言えればいいということで「わるものになりましょう」というお話をさせていただいた訳ですけれども、人間ってなかなか「私が悪い」とは言えない。むしろ自分を正当化して、「人のせい」にする。そういうところがある訳であります。
確かに、人のせいにする、「誰々が悪い」と責任を転嫁するのは、これは簡単であります。でも、自分が失敗してしまった場合、悪いことをしてしまったと思うならば、素直に「ごめんなさい!」と謝ることも、これまた大切な事ではないでしょうか。いけないことをしてしまった時、素直に謝る、これは非常に勇気のいることですけれども、とても大切なことのように思います。
アダムとエバは、結局、楽園から追放されてしまう訳ですけれども、でも、もしですね。もしあの時、神様に「ごめんなさい!」とすぐに謝っていたならば、どうなっていたんでしょうか。もし、アダムとエバがすぐに「ごめんなさい!」と、素直に神様に謝っていたらどうなっていたか。これはとても興味ある問題ではないでしょうか。
で、私は、このことに関連して、イエス様が教えられた、あの「放蕩息子の話」を思い浮かべるのであります。ルカ福音書15章11節以下にある、あの有名な、皆様よくご存じの「放蕩息子のお話」。このお話は、たとえ話ですけれども、イエス様は、こんなお話をされました。
二人の兄弟がいて、弟の方は、財産を分けてもらって家を出る訳であります。そして、彼は、放蕩の限りを尽くして、財産を全部使い果たしてしまう。そして、食べるものにも困り、みんなに嫌われていた豚の世話までする訳ですが、十分食べられない。腹ぺこが続きますと、豚が食べている「いなご豆」でも食べて腹を満たしたいと思うようになる。でも、彼に食べ物をくれる者は誰もいない。
そんな中で、彼は、我に返って言うのであります。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼は、父親のもとに帰って行く訳ですが、父親はずっと彼が帰るのを待っていたのでしょう、彼の姿を見つけると、走っていって彼を抱きしめ、あたたかく迎える訳であります。息子は、『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』と謝りますが、父親は「死んでいた息子が生き返り、いなくなっていたのに見つかった』と言って、祝宴を開いたというお話。有名な「放蕩息子」のお話であります。
この放蕩息子の父親というのは、神様のことだとよく言われますけれども、とんでもない失敗をしても、心から「ごめんなさい!」と謝るならば、神様は、それを赦してくださるのでありますね。だとするならば、あのアダムとエバが、あのとき素直に「神様ごめんなさい!」と言っていれば、その後の世界も変わっていたかも知れない。そんなふうにも思われる訳であります。勿論、あの創世記のお話というのは、私たちの「今ある現実」を投影したものであるとも言われますように、私たちの現実が変わらなければ、何も変わらないのかも知れません。でも、私たちが何かとんでもない失敗をしてしまったとき、素直に「ごめんなさい!」と言えば、そこからまた新たな道が開かれて行く。そんなことも考えさせられる訳であります。
失敗して、素直に「ごめんなさい!」と言うかどうか、それは私たち一人ひとりの問題であります。でも、神様は「ごめんなさい!」という言葉を望んでおられるのではないでしょうか。そして、私たちが、素直に「ごめんなさい!」と言えば、神様はきっとその過ちを赦してくださる。あの放蕩息子のお話は、そういうことを私たちに教えているお話でもあるように思うのであります。
私たち、完全なものではありませんから、時として、とんでもない失敗をしてしまうことがあります。でも、その失敗を「人のせい」にするのではなくて、人に責任を転嫁するのではなくて、自分が悪かったら「悪かった」と、素直に「ごめんなさい!」が言えるものでありたいと思うのであります。そうすれば、人間関係もあまり「ぎくしゃく」しないで済みますし、また、そこから新しい関係も生まれてくるのではないでしょうか。
神様が願っておられるのは、「お互いに愛し合いましょう」ということであります。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34) これがイエス様の教えであります。あの人が悪い、この人が悪いではなくて、むしろ、自分自身を反省し、互いに愛し合う、そういう歩みをお互いにしてまいりたい、そんなふうに思います。
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