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説教 「相手に分かってもらわないと」 (1コリント 14:6-19)   2013/05/19

 今日は「ペンテコステ」であります。ペンテコステというのは、今から2000年近く前、イエス様のお弟子さんたちに聖霊が注がれた日であります。弟子たちが一生懸命にお祈りしているとき、突然、聖霊が一人一人の弟子たちの上に雨のように注がれた。そして、弟子たちは、イエス様のことを語り出して行ったというのであります。

 このときのことを、聖書は、こんなふうに記しています。使徒言行録の2章1節以下。「五旬(ごじゆん)祭(さい)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1-4)。

 ここにあります「五旬祭(ごじゆんさい)」というお祭り。これは「麦の収穫を祝うお祭り」とよく言われますけれども、それだけではなくて、モーセがシナイ山で神様から律法を授けられた記念のお祭りでもありました。私たちの聖書では「五旬祭」と訳されておりますけれども、もともとこれは50という意味の「ペンテコステ」という言葉が使われております。ユダヤ教の「過越祭」というお祭りから50日目に守られたので「五旬祭(50日目ペンテコステ)」というのでありますね。

 ついでに言いますと、五旬祭の「旬(じゆん)」というのは、一か月・30日を三つに分けて考える考え方で、10・十のことを「旬(じゆん)」と言います。10を一巡(ひとめぐ)りとして数える数え方。毎週出る雑誌は週刊誌。毎月発行されるのは月刊誌。そして10日ごとに発行されるものを「旬刊(じゆんかん)」と言います。「キネマ旬報(じゆんぽう)」という映画雑誌がありますが、昔々、戦前は「毎月1日、11日、21日」に発行されていました。10日毎(ごと)に発行されていたので「旬報」と呼んでいたのでありますね。今の「キネマ旬報」は、毎月5日と20日の月2回の発行、「上旬号と下旬号」しかありませんので、厳密に言えば、今の「キネマ旬報」は「旬報」ではありませんけれども、昔は実際に10日毎に発行されていたんでありますね。(三条教会は、以下( )内省略)

 (とにかく、1週間は7日ですけれども、「旬(じゆん)」というのは、10・十を意味する言葉なんですね。今日は、燕教会では「こどもの礼拝」のお友だちも一緒に礼拝を守っていますので、小学生にも分かる説明をしてみましたが、分かりましたか。もう学校で習ったというお友だちもいるかも知れませんが、まだ習っていないというお友だちは覚えておくとよいと思います。教会では聖書のお話だけではなくて、こんなことも勉強できるんですね。)

 ということで、旬(じゆん)が10ですから五旬で50日目のお祭り、五旬祭。過越祭から数えて50日目、イエス様のお弟子さんたちが集まっていた時、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえてきて、弟子たちが座っていた家中に響いたというのであります。そればかりではありません。「炎のような舌」も現れ、それが一人一人の弟子たちの上にとどまった。「炎のような舌」なんて、なんか恐い感じもしますけれども、これが聖霊が降(くだ)った瞬間だったんですね。そうしますと、弟子たちは、聖霊に導かれて、いろんな国の言葉でイエス様のことを語り出しました。「イエス様は神様の独り子です。イエス様は、みんなの救い主です。イエス様は十字架に付けられて殺されましたが、3日目にお墓からよみがえられました」。そういうことを語り出したのであります。

 今まで、イエス様の弟子だということで、みんなに見つかったらイエス様のように殺されてしまうかも知れない。そう思って部屋に隠れていた弟子たち。びくびく恐れていたのでありますね。でも、聖霊を与えられた弟子たちは、神様から力を与えられ堂々とイエス様のことを宣べ伝えて行きました。そして、教会が出来たのでありますね。ですから、ペンテコステは、「教会の誕生日」なんてことも言われます。とにかく、聖霊を与えられて弟子たちは変えられました。聖霊が与えられると、人は力を与えられ、変えられるのでありますね。

 ところで先程、五旬祭というお祭りは、「麦の収穫を祝うお祭り」また、「モーセがシナイ山で神様から『律法』を授けられたという記念のお祭り」ということを申しましたけれども、律法というのは、神様の掟、「こうしなさい、ああしなさい」、あるいは「こんなことはしてはいけない、あんなことはしてはいけない」という、そういう掟・教えであります。それは昔「二枚の石の板」に記されておりました。例えば、①「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。神様はお一人だけですよ。ほかの人は、いろんな神様がいるなんて言うかも知れないけれど、本当の神様は、すべてのものを造られた天地の創造者お一人だけだよ。だから、他の神様を拝んではいけませんという教え。 あるいは、②「あなたはいかなる像も造ってはならない」。神様は目には見えないお方ですから、人間の考えで、いろいろな形に作って「これが神様ですよ」なんて言って、拝んではいけないという教え。

 また、③「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。昔は、神様にもお名前があったようですけれども、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という、この掟がありましたので、今では神様のお名前は分からなくなってしまいました。神様の名前を口にしなくなったからであります。4つの文字(テトラグラマトン)だけは残っていますけれども、その文字をどのように発音するのか。学者は、いろいろ研究して「ヤハーウェ」とか「ヤーウェ」というのが神様のお名前だったのではないかと言っておりますが、本当のところは誰にも分かりません。でも、この「神様の名をみだりに唱えてはならない」という教えは、とても大切な教えだと思います。「神様、神様」と言えば何でも赦される。「神様、神様」で何でもかたづけてしまう。これは神様を自分勝手に利用することであります。神様は人に利用されるお方ではありません。イエス様も、こんなことを言っておられます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21) 神様、神様。イエス様、イエス様と言うことも大切かも知れませんが、本当に大切なのは、「神様の御心」神様の願われることを行って行くことであります。このことが分かりませんと、本末転倒、神様を利用するということになってしまう訳であります。いずれにせよ、「神様の名をみだりに唱えてはならない」という、この教えは、とても大切な教えだと思います。

 それから、④「安息日に心を留め、これを聖別せよ」なんて教えもあります。安息日、昔は「土曜日」が安息日でしたけれども、キリスト教では「日曜日」を安息日としました。それは、日曜日にイエス様がお墓から復活されたからであります。で、この安息日は「いかなる仕事もしてはならない日」、要するに、お仕事がお休みの日ですけれども、単に「お休みの日」というのではなくて、神様を礼拝する日。安息日は、ほかの日と違ってみんなで礼拝を守る日なのでありますね。神様は、「日曜日は礼拝を守りましょう」と教えられたのであります。

 このように、神様の教え、それは昔「二枚の石の板」に記されておりました。実は、まだまだ沢山あります。⑤「あなたのお父さんやお母さんを敬いなさい」という教え。あるいは⑥「殺してはならない」という教え、そのほか⑦「姦淫してはならない」とか⑧「人のものを盗んではならない」⑨「ウソを言ってはいけない」⑩「人のものをほしがってはいけない」。 いろいろな教えがありました。(出エジプト 20:2-17)

 確かに、「こうしなさい」とか、「こうしてはいけない」という教えは大切であります。そして、その教えを、忘れないために「文字として書いておく」。これもとても大切であります。私も60歳を過ぎてから、物忘れが多くなってきて、あれを取ってこようと部屋を一歩出た途端、「何を取って来るんだっけ」って忘れていたり、買い物に行っても、肝心なものを勝ってこなかったり、そういうことが多くなって来ました。ですから、買い物に行くときは、必ず買ってくる物を紙に書いて持って行く。そうじゃないと、本当に忘れてしまうのでありますね。時には、折角書いた紙さえ持って行くのを忘れてしまうこともある。でも、紙に書いておけば、何をするのか、何を買うのか、見れば分かる訳でありますね。

 神様の教えも、文字として書かれていれば安心。忘れなくてもすむ。忘れても、文字で書かれていれば、それを読めば思い出すことが出来る。ですから、神様の教えが、文字として書いてあるというのは、とてもありがたいことであります。

 でも、聖霊が与えられると、心の中に、「こうしなければならない」とか「こんなことはしてはいけない」というような、そういう声が聞こえてきて、神様の御心、神様の願われることが分かってくるのであります。例えば、「あなたのお父さんやお母さんを敬いなさい」なんて教え。「そんなの常識じゃん」と思う人もいるかも知れませんが、そうじゃない人だっている訳であります。人間、人様々ですから、自分にとっては常識だと思うことも、人によっては常識ではないということもある訳であります。「殺してはならない」という教えだって、戦争にでもなれば、「敵を殺さなければ、自分が殺される」ということで、人殺しだって正当化される。それが人間の現実であります。でも、聖霊が与えられると、していいことと悪いこと、神様の御心が分かるようになるのであります。そして、「こうしていこう」という勇気も湧いてくる。聖霊は心の内側から私たちを正しい道に導いてくれるのでありますね。

 聖書には「文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方をしましょう」(ローマ7:6)とありますけれども、聖霊が与えられると、聖霊に導かれた新しい生き方が与えられるのであります。モーセがシナイ山で、神様から律法をいただいた、その記念の日、五旬祭の日に聖霊が与えられたというのは、古い旧約時代の生き方から、聖霊による新しい時代が始まった、そんなふうに言ってもいいかも知れません。

 ところで、聖霊を与えられたイエス様の弟子たちは、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」ということですが、このお話については、少し注意が必要だと思います。というのは、聖霊を与えられて、弟子たちはいろんな国の言葉で話し出した訳ですが、例えば、このような場所で、私がスワヒリ語(ケニア・タンザニア・ウガンダ)やトンガ語(ポリネシア諸島)なんかで話したら、誰が分かるでしょうか。たとえ、お話の内容が「イエス様は神様の独り子です。イエス様は、みんなの救い主です。イエス様は本当にすばらしいお方です。」なんて語っても、スワヒリ語やトンガ語では、何が何だかさっぱり分からないのではないでしょうか。これでは意味がないと思うんでありますね。

 日本語だって、はっきりと言ってくれないと分からないということが沢山あります。ある偉い先生から、(入れ歯風)「君、ボクシ…、…りませんか」と言われ、「はい」と言って牧師になってしまったという人もいます。この人は「君、ボクシングをやりませんか」と言われたのだと思って、ボクシングならやってもいいと思って「はい」と言ったんだそうですけれども、実は、ボクシングではなくて「牧師になりませんか」という、そういう意味だと、あとで分かって戸惑ったということであります。まあ、牧師になったんだから、これはいいとしても、日本語だってはっきり言ってくれないと誤解することだってある。ましてや、知らない言葉でなんだかんだと言われたって、そりゃよく分からない。でも、聖霊を与えられると、時としてそういうことも起こるのでありますね。

 で、今日読んでいただいた聖書の中には、それが「異言」という言葉で語られておりました。「異言」というのは、聖霊を与えられた人が、普通の人には分からない言葉で神様・イエス様のことを語ることであります。確かに、「異言」も大切かも知れません。でも、コリントの信徒への手紙を書いたパウロという人は、こういうことを言っています。「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」。今日の聖書の最後の所にある言葉であります。「異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとる」。理性によって語るというのは、相手に分かるように語るということであります。言葉というのは、やはり相手に分かってもらわなければ意味がありません。相手が分からないことを、いくらしゃべったって意味がない。

 教会には、教会独特な言葉があります。今日の「ペンテコステ」もそうですけれども、「ペンテコステ」なんて言っても、普通の人には分からない、「ヘンテコな言葉ですね」なんて言われるかも知れません。聖霊様なんて言葉も、聖霊様がどこかにおられるようで、これもよく分からない。三位一体ということで、父・子・御霊なんて言っても、父なる神様がいて、子なるキリストがいて、聖霊様がいる。キリスト教の神様はお一人だと言うけれど、どうなっているのかさっぱり分からない、そういう人だっている訳であります。相手が分からない言葉を、いくら語ったって、相手が分からなければ意味がありません。やはり、相手に分かってもらうことが大切ではないでしょうか。

 話は戻りますが、教会で「異言」が語られる。それは確かに「聖霊の働き」なのでしょうが、相手が分からなければどうしようもありません。ですから、パウロは、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとる」と言うのであります。繰り返しますが、理性によって語るというのは、相手に分かるように語るということであります。

 それでは、相手に分かるような言葉、理性によって語られる言葉には、聖霊は働いていないのでしょうか。決してそんなことはありません。同じコリントの信徒への手紙一12章3節には、こんなことが書いてあります。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」。これは、イエス様は主である、キリスト、救い主であると言うことの出来る人には聖霊が働いているということであります。ですから、訳の分からないことを言うだけが聖霊の与えられている証拠ではないのであります。理性で、「イエス様は主である。キリストである。私の救い主である」と言える人には、ちゃんと聖霊が働いているのでありますね。

 聖霊は、神様の働きです。聖書には、「神は霊である」(ヨハネ4:24)とありますけれども、神様は、いつも私たちを守り導いておられるのであります。その神様のお守りと導きが分かる人には、聖霊が豊かに注がれているのであります。

 ペンテコステ、2000年前、弟子たちの注がれた聖霊は、いまも私たちに注がれています。その聖霊に導かれて、力強く歩んで行った弟子たち。同じように、私たちも、聖霊に導かれて力強い歩みをしていければと思います。

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