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説教 「人間っていいな」 (創世記 1:27-31)    2013/05/12

 先程みんなで歌いました讃美歌の490番「かみさまにかんしゃ」という讃美歌。これは1番しかありませんけれども、実は、讃美歌の歌詞の下の所に書いてあるように、「『よいもの』の所は、いろいろと自由に入れてもよい」とありまして、いろいろな言葉を入れることが出来る訳であります。例えば、「神さまは、イエス様をくださった。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」とか「神さまは、食べ物をくださった。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」とか、来週はペンテコステですから、「神さまは、聖霊をくださった。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」なんて、何でも入れていい訳であります。

 で、今日は、神さまが私たちに与えてくださった、この「よいもの」について少し考えてみたいと思いますが、さっき読んでもらった聖書の創世記の1章の所には、こんなことが書いてありました。1章の27節。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」

 これは、一言で言えば、神さまが私たち人間を造ったという、そういうことを語っている言葉であります。人間は、猿から進化したなんていう、そういういわゆる「進化論」という仮説もありますけれども、聖書は、神さまが私たち人間を造ったと教えている訳であります。「神さまは、ご自分にかたどって、似せて、人を、私たち人間を創造された。造った。男と女に造った。」

 神さまにかたどって、似せてなんてありますから、神様も人間のような姿かたちをしているのではないか、なんて思う人もいるかも知れませんが、これは、そういうことではありません。神様は私たちの目には見えないお方でありますから、姿かたちがある訳ではないのであります。ですから、神様も二本足で歩いているなんてことはありません。

 神さまにかたどって、似せてというのは、私たちが人を愛するように、神様も私たちを愛しておられる。あるいは、私たちが正義を愛するように、神様も正義を愛している。あるいは、私たちが平和を願っているように、神様も平和を願っている。そういう私たちの思いが神様から与えられているということであります。

 神様が人を愛し、正義を愛し、平和を愛している。そういう思い、神様の思いを、私たちは神様から受け継いでいるのであります。それが、私たちが「神様にかたどって、似せて造られた」という意味であります。決して、人間の姿かたち・外見が、神様に似ているという、そういうことではないのでありますね。

 とにかく、人間は、神様によって創造された、造られた。それが聖書の教えるところであります。そして、人間が神様によって造られたというのは、もう少し言えば、私たちは神様によって命を与えられているということでもあります。

 聖書には、こんな言葉もあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。創世記2章7節にある言葉であります。ここには、語呂合わせと言うのでしょうか、土(アダマ)から、人(アダム)が出来たという、そういう語呂合わせが使われておりますけれども、いずれにせよ、神様は、私たち人間をお造りになって、命の息を吹き入れ、生きる者としてくださったのであります。

 私たちに命があり、今私たちがこのように生きているというのは、神様が私たちに命を与えてくださっているからなんでありますね。ですから、私たちは、その命を大切にして行かなければなりません。勝手にその命を奪ったり、取ったりすることは許されないのであります。それは、人の命もそうですけれども、自分の命だってそう。人殺しは殺人罪ですけれども、自殺だって、これは神様が望んでおられることではありません。どんなに苦しくても、「こんなんだったら死んだ方がましだ」と思うようなことがあっても、自分で自分の命を奪うというのは、それは決して神様の御心ではないのであります。

 いずれにしても、私たちの命、それは神様からの「さずかりもの」、与えられたものですから大切にして行きたいと思います。生きているからこそ、楽しいことだってある訳ですし、喜びだって味わえるのであります。死んだら、もうそれで本当におしまい。苦しみからは解放されるかも知れませんが、これから経験する、喜びや楽しみは味わえなくなってしまうのであります。それでもいいということで自殺するのでしょうけれども、それではあまりにも悲しいです。寂しいです。折角、神様から与えられた命なんですから、神様が「人の子よ、帰れ」と、神様のみもとに招いてくださるまでは、精一杯生き続ける、生きて行きたい、と思います。

 文字通り、手も足も出せなくなってしまった星野富弘さんという人は、手も足も動かせないので、口に筆をくわえて絵を描き、詩を作りました。こんな詩があります。

  痛みを感じるのは生きているから 悩みがあるのは生きているから
  傷つくのは生きているから 私は今 かなり生きているぞ

 そうです。半身不随でも、手足が動かなくても、「生きている」からこそ、痛みを感じることが出来るし、悩むことも、また傷つくことも出来る。それだけではありません。先程申しましたように、楽しいことも、喜びも、また味わうことが出来るのであります。生きている。命を与えられているというのは、本当にすばらしいことなのでありますね。

 とにかく、私たちの「命」、それは「神様からのさずかりもの」、神様が与えてくださったものでありますから、素直に「ありがとう」と言いたいと思います。先程の「神さまに感謝しましょう」という讃美歌の「神さまはよいものをくださった」という所には、「神さまは、私たちに「命」をくださった。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」。そんなふうに「私たちの命」という言葉を入れて、歌ってもいいのではないでしょうか。

 ところで、聖書のお話に戻りますが、人間を造られた神様は、こんなことも言われたといいます。
「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。これは祝福の言葉であります。神様は人間を祝福しておられるのでありますね。でも、そのあと「地を従わせよ」とか「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」なんて、人間があたかも「万物の支配者」のような、そんな言葉もあります。確かに、「従わせよ」とか「支配せよ」なんて、力で支配する、強制的に支配するという、そういうイメージが強いようにも思えます。そして、人間の歴史を見る限りにおいては、そういう支配者がほとんどだったと言ってもいいと思います。力のある者が相手をやっつけて相手を支配する。

 でも、聖書の世界では、天地すべての支配者、それは神様であると教えている訳であります。神様がすべての支配者。しかも、それは、神様が力で強制的に支配しているという、そういう意味ではありません。「神は愛である」という言葉がありますけれども、神様は、愛ですべてのものを支配しておられるのであります。だとするならば、神様に似せて造られた私たち人間も「神様のような愛」で、地を従わせる。生き物を支配する。そういう意味の支配者でなければならないと思います。

 確かに、今までは、好き勝手なことをしてきた人間であります。好きなだけ木を切り(熱帯雨林)、自分たちの都合で川や海、また空を汚(よご)し、また二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスなんかもばらまいて来た。そんなことをすれば、自然界がダメになるだけではなく、いずれ自分たちもこの地球に住むことが出来なくなる。そんなこと分かっているのに、利益優先ということで、「分かっているけどやめられない」でやって来た人間。これでは、暴君のような支配者と言われても仕方ありません。

 で、そういう人間の現実から聖書を読むと、先程の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」なんて言葉は、確かに暴君的な「万物の支配者」、そういうイメージになってしまいます。でも、本当は、これらの言葉は、先程も申しましたように、神様のような愛で自然界を支配する、自然をいたわり、自然を大切にし、そして環境にやさしい社会を作り上げて行く、そういう人間に対する神様の祝福の言葉なのであります。最近は、私たちは、段々そういうことにも気付いて、環境問題にも気を配るようになってきておりますけれども、これはとても大切なことだと思います。

 ところで、神様はもう一つ、こんなことも言われました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」。

 これは、一言で言えば、神様は私たちに「食べ物」を与えてくださったということでありますね。「種を持つ草」米も麦も野菜も、そして「種を持つ実をつける木」、リンゴの木もミカンの木も、そして、そういうものから穫れる果実、みんな神様からの贈り物。神様から与えられている食べ物であります。

 勿論、私たち人間は、種を蒔いたり、手入れをしたりしなければなりません。農地もほうっておけば荒れ地になりますし、リンゴや梨の木、最近のように、急に気温が低くなったりしてハチや虫が飛ばなくなると、受粉が出来ない、実がならないということで、人間の手による受粉も行われる。確かに、人の手も必要であります。でも、米や麦、野菜や果物が与えられているということは、これは神様の恵みであります。神様はすばらしい恵みを私たちにいっぱい与えてくださっているのであります。

 しかも、神様の恵みは、自然界の恵みだけではありません。神様は、イエス様まで私たちに与えてくださいました。ヨハネ福音書の3章16節には、こんな言葉があります。「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子(イエス様)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 イエス様の恵み。イエス様が私たちに与えられたという恵み。それは、信仰的には、私たちの罪のために、イエス様が十字架に付けられて私たちの罪を贖(あがな)ってくださった、私たちの罪を赦し、私たちを罪から解放してくださったという、そういう意味でありますけれども、聖書の言う「罪」ということが分かりませんと、このような説明もよく分からないと思いますのて、もう少し違う説明をしたいと思います。

 ヨハネの手紙一の4章10節には、このように記されています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 これも初めての人には分かりにくいかも知れませんが、こんなふうに説明すると少しは分かるかも知れません。神様は、神様の最も大切なものを犠牲にしてまでも、私たちを愛してくださった。まだ分かりにくいですね。それでは、こんな説明ではどうでしょうか。

 私たちが自分の最も大切にしているものを人にあげる。愛がなければ、こんなこと出来ませんよね。自分の最も大切にしているもの、それは自分にとっての宝物、人になんかあげたくありません。でも、それをあげるというのは、その人が好きだから、愛しているからであります。自分の大切なものをあげるのですから、当然痛みがともないます。もったいないです。でも、あげる。それは自分を犠牲にすることであります。自分を犠牲にしてでも、その人を愛する。このような愛を、難しい言葉では「アガペーの愛・自己犠牲の愛」と言いますけれども、神様は、まさにこのような愛で私たちを愛してくださったのであります。それが、あのイエス様の十字架であります。

 神様は、ご自分の最も大切なもの、神の独り子・イエス様を十字架に付けて、私たちにくださったのであります。イエス様の十字架は、神様の愛の象徴なのでありますね。でも、神様の愛と言っても分からない。そういう人もいます。でも、そういう人は、何度でも何度でも、繰り返し繰り返し、イエス様の十字架を見上げるといいと思います。きっと神様の愛が分かる「とき」が来ると思います。言葉でいくら説明されたって分からないときは分からない。頭では分かっても心には響いてこない。そういうこともあると思います。でも、必ず分かるときがくる。これもまた信仰であります。

 いずれにせよ、神様は、神様の独り子・イエス様を犠牲にしてでも、私たちを愛してくださった。否、今も愛してくださっている。私たちは、神様に愛されている存在なのであります。これはすばらしいことではないでしょうか。
 今日は「人間っていいな」という説教題にしてみました。神様にかたどって造られた人間。大切な命を与えられている人間。神様に祝福されている人間。食べ物も与えられ、イエス様までも与えられている人間。神様に愛され、守られている人間。本当に「人間っていいな」とは思いませんでしょうか。

 私たちは、空の鳥を見て、「種も蒔(ま)かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないのに、神様は鳥をちゃんと養っていてくれる。鳥はいいな。しかも空も飛べる。鳥っていいな、と思うことがあるかも知れません。でも、イエス様は言われます。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。やはり人間の方がいいのでありますね。
 「おいしいおやつに ほかほかごはん」が食べられる。「みんなでなかよくポチャポチャおふろ」に入れる。「あったかい ふとんで ねむる」ことができる。だから、「人間っていいな」。それも確かに「あり」ですけれども、それだけではなくて、神様からいっぱい「よいもの」を与えられている私たち。ですから、神様に感謝しながら、また、「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」と神様を讃美しながら、「人間っていいな」の、この世界を共々に、満喫して行きたいものであります。

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