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説教 「損をする生き方」(マタイ 5:38-42)    2013/04/28

 今日は「損をする生き方」という説教題。「損をする生き方」なんて、これもあまりほめられた「説教題」ではありません。でも、こういう生き方もあるということでお聞きいただければと思います。

 ということで、今日の聖書の所は、イエス様のこんな言葉から始まります。

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」。「目には目を、歯には歯を」という教え、これは旧約聖書の出エジプト記(21:24)やレビ記(24:20)、申命記(19:21)などに出てくる教えであります。例えば、レビ記の24章17節以下には、こんな言葉があります。

 「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜を打ち殺す者は、その償い(つぐない)をする。命には命をもって償う。人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(レビ24:17-20)。

 このほかにも「手には手、足には足、 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷」(出21:24-25)という言葉も出て来るのですが、この「目には目、歯には歯」という教え、これは一般的には「復讐思想」なんて呼ばれています。目をつぶされたら、相手の目をつぶす。歯を折られたら、相手の歯を折る。やられたら、やり返す。「復讐思想」であります。

 しかし、この「復讐思想」、考え方によっては、復讐を制限する思想でもあると言われます。というのは、人間やられたら、倍にして、あるいは何十倍にしてもやり返すという、そういう気持ちが湧いて来るからであります。片目をつぶされたら、相手の両目をつぶさなければ気が済まない。歯を一本折られたら、二本、いやそれ以上折ってやらないと気が済まない。

 三浦綾子さんの小説「塩狩峠」の中に、主人公の「信夫」を育てた「おばあちゃん・祖母トセ」のこんな言葉が出てまいります。「信夫、男の子という者は、ひとつなぐられたら、ふたつなぐり返してやるのですよ。三つなぐられたら、六つなぐってやるものです。それでなければ男とは言えませんよ」。「殴られたら、殴り返す、しかも、倍にして」。人間というのは、そういうところがあるのではないでしょうか。倍ならばまだしも、何十倍にしても仕返しをするという事だってある。人間の気持ちはエスカレートして行くのでありますね。

 そういう私たちの現実を考える時、「目には目を、歯には歯を」という思想は、エスカレートを予防する・防止することにもなると言われます。要するに、片目をやられたら、相手の片目だけにしておきなさい。歯を一本折られたら、相手の歯も一本だけにしておきなさいという、そういう復讐を制限する思想でもあるというのであります。確かに、そんなふうに理解した方が本当の所なのかも知れません。

 でも、イエス様は、こんなふうに教えるのでありますね。
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。こんなふうに教える。

 これは、ある意味において、「損をする生き方」であります。まあ、最初の「悪人に手向かってはならない」というのは、「手向かっても仕方ない、いいことはないからやめておけ」という、そういう意味にも取れますが、次の「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉から始まる教えは、決して「得をする生き方」ではありません。

 「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けてやれ」、普通はとんでもないということになる訳であります。打たれたら打ち返す。そこまでは出来なくてもせめてよけようとする。降りかかる火の粉は払わなければならない。そんなふうに私たちは考える訳であります。しかし、イエス様は「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教える。決して「得な生き方」ではない、むしろ「損をする生き方」であります。

 次もそうであります。次は「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」とあります。当時の人たちは、下着は何枚か持っていたようですが、上着は1枚しか持っていない、そういう人も多かったようであります。しかも、この上着は、昼は外套となり、夜は毛布代わりになる貴重品。そういう貴重品であるにもかかわらず、イエス様は「下着をよこせ」という者には上着をもくれてやれと教える。これは大変な事であります。損の上塗りどころではない。下手をすると生死に関わるような事にもなりかねない、本当に損をする生き方であります。

 また、続いてこんな言葉も語られます。「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」。1ミリオンというのは、聖書の後ろの「換算表」によれば約1,480m、およそ1.5kmであります。1.5km 行けと言われたら、その人と一緒に3km行けという訳であります。

 昔、イエス様時代には、もう郵便制度のようなものが整っていたそうで、要所要所に駅があり、人と馬が備えられ、敏速正確に郵便物が届けられたそうであります。ところが、何かトラブルがあって、然るべき人数や馬に欠けが生じますと、緊急の郵便を届けるために、急遽、馬や人がかり出されたそうなんでありますね。

 日本でも、戦争中、お国のためだからという事で、男の人は兵隊にかり出されましたし、女の人は、軍需工場などで働かされました。そのほか多くの物がお国のためということで徴用されました、取られました。それは国家権力による強制でありました。イエス様当時も同じようなことが行われていたようであります。国家権力によって「奉仕を強いられる」。それは、ある意味において、屈辱であります。自由を奪われ、人間性が踏みにじられる出来事であります。徴用され、1ミリオン行けと言われれば、行きたくなくても行かざるを得ない。

 しかし、イエス様はあえて、1ミリオン行けと言われたら、その人と一緒に2ミリオン行けと、こう教える。強制させられるだけでもいやなのに、余分に、倍も行く。損な生き方であります。

 そして、最後ですが、最後にはこんな言葉があります。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。

 「求めるものには与える。借りようとする者がいれば拒んではならない」。こんな生き方をしていたら、いくら財産があっても間に合いません。要するに、これらのイエス様の教えは「損をする生き方」を教えている、そんなふうに言ってもいいと思うのであります。「損をする生き方」。誰もこんな生き方など望んでいない。この世では通用しないような生き方であります。

 それでは、イエス様は、どうしてこんな「損をするような生き方」を教えるのでしょうか。ある人は、イエス様は「『愛』というものを教えようとしているのではないか」と言います。自分が損をして、相手が得をするような、そういう自己犠牲の愛。聖書は、そういう「愛」を教えております。イエス様の十字架がその典型でありますね。イエス様は、私たちが得をするために、ご自分は損をする道を選ばれ、十字架につけられた訳であります。自分は損をしても、相手が得をすれば、それをよしとする、そういう世界もあるのでありますね。勿論、それは誰にでも出来ることではありません。でも、そういう生き方、考え方も確かにある。

 これも三浦綾子さんの小説の中に出てくる会話ですが、「氷点」の中で、辰子と徹と陽子の、こんな会話があります。
 辰子:「もし百円落としたら徹くんはどう思う?」
 徹 :「損したと思うさ。当たり前さ」
 辰子:「陽子は、どう思う?」
 陽子:「百円落とさないと、わかんないけれど、ずっと前に十円おとしたの」
 辰子:「その時どう思った?」
 陽子:「だれかが拾って喜ぶだろうと思ったわ」
 辰子:「だれかが拾って喜んだら、つまらない?」
 陽子:「だれかが喜んだらうれしいわ。乞食が拾えばいいなあと思ったの」
 徹 :「だってさ。落としたら損だぞ。うれしくないよ、ぼくは」
 辰子:「徹くん。十円落としたら、本当に十円をなくしたのだから損したわけよ。    その上、損した損したと思ったら、なお損じゃない」
 徹 :「あ、そうか」
 辰子:「百円落としたら百円分楽しくするのよ。二百円落とさずに百円だったから    よかったなと思ってもいいしね。あの百円拾った人は、もう死ぬほどおなか    がすいていて、あの百円のおかげで命が助かって、それからだんだんいいこ    とばかりあるんだと思ってもいいわ。百円落とした上に、損したといつまで    もクヨクヨしていたら大損よ」
 徹 :「フーン。足をケガしたら、手はケガをしなくてよかったと思うのかい?」
 辰子:「そうよ」

 どうでしょうか、面白い会話ではないでしょうか。お金を落として損をしたと思う人もいれば、そのお金を拾って得をする者がいるかも知れないから、それはそれでいいとする、そういう考え方もある。面白いとは思いませんでしょうか。

 でも、イエス様は、そういう事だけを教えているのでしょうか。
 ある人は、こんなことを言います。イエス様は「キリスト者の自由」ということを教えているのではないか。『目には目を、歯には歯を』という、やられたらやり返すという、この世の常識に対して、悪人には手向かわないという自由、右の頬を打たれたら、左の頬をも向けていくという自由、また、下着を取ろうとする者には、上着をも与えるという自由、あるいは、強制的に1ミリオン行くように言われたら、進んで2ミリオン行くという自由、また、求められたら与えるという自由、そういう自由をキリスト者は持っている。そして、イエス様はそういう自由を大切にして行きなさいと教えているのではないか、そんなふうに言う人もおります。

 確かに、そういうことも言えると思います。強制的に「しろ!」と言われれば誰でも嫌ですけれども、自分から進んでそうするのであれば、そんなにつらくはない。しかも、自分の自由意志でするのであれば、少なくとも人間性は保たれる、そんなふうに言ってもよいかも知れません。

 でも、もう一つ考えてみたい事があります。それは、もしこのような教えがなければ、私たちはたぶん「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けていく」というようなことは「絶対にしないだろう」ということであります。勿論、例外はあるかも知れません。でも、このような教えがなければ、私たちは多分安易な道の方を選び、このような「損をするような生き方」なんて「絶対にしない」のではないかと思うのであります。勿論、このように教えられているからといって、私たちにこのような事が出来るという保証はありません。たぶん、このような教えがあっても、私たちには出来ないことの方が多いと思います。でも、問題は、出来るとか出来ないという、そういうことではないのであります。このような教えがある。イエス様は、こんなことを教えられたという、そのことが問題なんであります。

 繰り返しますけれども、もしこのような教えがなければ、私たちはたぶん自分に都合のいい、得をするような生き方だけを選ぼうとするのではないでしょうか。でも、そういう時、私たちの背後で、こういう「損をする生き方もあるよ」と語りかけるイエス様の声が聞こえてきたらどうでしょうか。私たちは立ち止まり、もう一度自分の考え、自分の決断、決意、そういうものを見直すことも出来るのではないでしょうか。

 私は、このようなイエス様の教えがあるということを、とてもありがたいと思います。常識に流れやすい私たち、安易な道を選んでしまいがちな私たちに対して、もう一度、信仰者としての歩みを思い出させてくれる、とてもありがたい言葉のように思える訳であります。勿論、言葉だけで終わってはいけない訳ですけれども、でも、これらの教えを知っているだけでも、私たちの人生、だいぶ違ったものになるのではないでしょうか。

 誰かが、こんなことを言っておりました。「損をすることを誰かが引き受けなければ、世の中は成り立っていかない」。「誰かが損をすることを引き受けなければ、世の中は成り立って行かない」。心に残る言葉ではないでしょうか。

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