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説教 「喜びの宗教(喜びの人生)」 (フィリピ 4:4-7)    2013/04/21

 キリスト教と申しますと、愛の宗教、赦しの宗教、恵みの宗教、平和の宗教、いろいろなことが言われます。でも、今日は「喜びの宗教」ということについて、少しばかりお話したいと思います。

 ということで、先程お読みいただきました聖書の所ですが、ここには、キリスト者としてのあり方、生き方が四つ記されています。一つは「④主において常に喜びなさい(いつも喜びなさい)」ということ。二つ目は「⑤あなた方の広い心が全ての人に知られるようになさい」(あなた方の寛容を、みんなの人に示しなさい)ということ。そして三つ目は「⑥どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」(何事も思い煩ってはならない)ということ。そして最後に「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」ということ。以上四つであります。

 で、ここには「喜び」「広い心(寛容)」それから「思い煩わないこと」そして「お祈りをする」というような事が挙げられておりますけれども、これらは私たちの都合に関係なく、「常に」(いつも)という事を語っているものであります。こういう時は喜ばなくてもいい。こういう人には寛容でなくてもいいということではないのであります。いつも、絶えず、例外なく「こうしなさい」ということが勧められている訳であります。そして、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:7)とある。

 で、今日はこの中から特に最初の「主において常に喜びなさい」(主にあっていつも喜びなさい)という事について考えてみたいと思う訳ですけれども、これは言い換えれば、キリスト教というのは「喜びの宗教」であるという事を教えている言葉ではないでしょうか。

 私たちは普通「宗教」と申しますと、なんとなく喜びや楽しみを捨てて禁欲生活をする、あるいは、難行(なんぎよう)苦行(くぎよう)をして悟りを得るといった、そういうイメージで宗教というものを考えてはいないでしょうか。日本では、昔から、いろいろな修行をして、精神や肉体を鍛えて、神秘的なパワーを得るとか、あるいは、悟りを得るとか、そういう事が行われてまいりました。今でも「ある宗教」ではそういうことをしています。昔の有名なお坊さんなんかも、みんな厳しい修行をしたということであります。で、このような所から宗教というものを考えますと、喜びや楽しみはむしろ修行の邪魔であり、喜びや楽しみを否定する所にこそ宗教の本質がある、というような、そんな受けとめ方も出て来る訳であります。しかし、聖書は先程も申しましたように、「あなた方は、主において常に喜びなさい」と教える。有名なテサロニケの信徒への手紙第一の5章16節以下の所にも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とありまして、「いつも喜んでいる」ということを教えている訳であります。

 この世は苦しみである。人はこの世に生まれ、やがて年をとり、病気になって死んでいく。生老病死(しょうろうびょうし)。この世の中は苦しみに満ちている。苦しみの海「苦海」であると教えているのが仏教であります。仏教の創始者お釈迦さん(ゴータマ・シッダルタ)もそのようにして出家したのであります。

 確かに、この世の中には苦しみがあります。私たちの毎日の生活におきましても、苦しい事はいっぱいあります。ですから、私たちは「人間は苦しむものなんだ」、人生はそんなに甘くない、厳しいものなんだというふうに普通思ってしまう訳であります。そして、後輩に対しても、さも人生というものが分かったような顔をして、先輩づらして「君、人生は厳しいんだよ、そんなに甘くはないんだよ」などと説教する訳であります。

 確かに、人生というものを甘く見る事は慎(つつし)むべきであります。人生はそんなに甘くはないのであります。しかし、ただ単に人生というものを「厳しいもの、苦しいもの」と見るのも、これまた考えものではないでしょうか。人生は厳しいもの、苦しいもの、最初からこのように考えてしまいますと、私たちの人生は本当につまらないものになってしまいます。そして、このように最初から人生というものを否定的に考えますと、聖書がいくら「喜びなさい。いつも喜んでいなさい」と語っても、これはさっぱり分からんという事にもなる訳であります。

 日本人は、一般的に、勤勉で、働き者であるという事が言われます。戦後、荒れ廃てた日本がここまで復興し発展して来たのは、日本人の勤勉さ、みんなが一生懸命に働いたからだ、というような事がよく言われます。一生懸命に働く。これは非常に結構なことであります。しかしながら、反面、これもよく言われることですけれども、日本人は遊びを知らない。人生を楽しむ事を知らないというような事もまた言われる訳であります。最近は大分余暇や休暇を利用して遊ぶというのでしょうか、結構楽しんでいる人も多くなったようですけれども、まだまだ私たちの意識の中には、遊ぶ事は悪い事、楽しむ事は悪い事というような、そういう意識が少なからずあるのではないでしょうか。勿論、楽しむという事と、喜ぶという事、これは厳密に言えば、少し違うかも知れませんが、私たち日本人は、どうもこの楽しみや喜びというものに対して、無意識の抵抗というようなものがあるようにも思うのですが、どうでしょうか。

 楽しみや喜び、それは悪いものなのでしょうか。そんなことはないと思うんでありますね。むしろ、私たちの人生というのは、楽しみや喜びのためにあるのではないでしょうか。最初から、これはしんどい、おもしろくない、つまらない、なんて事でやり始めたら、うまくいくはずはありません。むしろ、喜んで物事に取り組めば、どんな事柄であれ、どんな仕事であれ、精が出るものであります。そして、精が出れば仕事もはかどり、成功をもたらす結果にもなる。そして、成功すればそこからまた新たな喜びが生まれてくる。楽しんでするというのも同じであります。やっていて楽しいからこそ時の経つのも忘れ、一生懸命になる。そして一生懸命になってやっていれば、そこからは必ず良い結果が生まれてくるのであります。

 で、これは私たちの信仰についても同じような事が言えるのではないかと思うのであります。信仰を重荷と考える人は、礼拝に出席するのもしんどいと考えます。献金するのももったいない。聖書を読むのもつらい。祈るのも面倒くさい。で、そうなりますと、信仰というのは、形だけのものではありませんから、段々と活力を失ってくる。そして、挙げ句の果ては、教会から離れ、信仰を失い、最後には教会の悪口さえ言うようになってくる。

 しかし、逆に、信仰というものに対して、喜びや楽しみを持つならば、たとえ時間がなくても礼拝だけはどうにかして守ろうとする。どうしても礼拝に出席できない時は、せめてその場で聖書を読みお祈りだけでもする。そうしますと、いつも御言葉に触れているという事になりますから、新たな喜びが与えられ、信仰も強められ、「また頑張ろう」という意欲もわいてくる。要するに、信仰も、他の仕事も、喜びや楽しみから出発するならば、その結果も良い方向に導かれる。でも、逆に、最初からしんどいなと思ったり、重荷と思ったりするならば、結局悪い結果しか与えられない、という事であります。そうしますと、どうしても最初の出発点というものが問題になってくる。最初が肝心という事にもなってくる訳であります。

 で、聖書は、その最初の出発点に「喜び」というものをもってくる訳であります。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言う訳であります。それでは、どうして私たちの出発点は「喜び」なのでしょうか。それはイエス様が私たちの罪を赦し、私たちを罪から解放し、私たちに「喜び」を与えて下さったからでありますね。

 イエス様の十字架と復活、それは喜びの福音、神の国の福音であります。イエス様を信じる者は誰でも、罪から解放され、救われ、「神の子となる資格」(ヨハネ1:12)を与えられるのであります。イエス様は、十字架と復活を通して、神様の主権を回復し、神の国を成就され、そしてこの世を新しくしてくださいました。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)とある通りであります。私たちはイエス様を信じる事により、この新しい恵みの世界に生きる事が出来るようになったのであります。ですから、私たちは「主において」、イエス様において、イエス様を信じることによって、私たちの人生を喜ぶ事が出来るのであります。

 聖書は、「常に喜びなさい。いつも喜んでいなさい」と勧めます。喜びから人生を出発しなさいと勧めているのであります。勿論、喜びから出発するとしても、私たちの人生には、喜びだけがある訳ではありません。悩みや苦しみ、また、悲しみや様々な試練、困難もあります。病気をしたり怪我をしたり、あるいは、年をとって、最後には人生の終局、死を迎えるというような現実もあります。しかし、病気になっても、主にある者は、そこで主の試練を読みとり、信仰を強められ、ますます成長する事が許される訳であります。また、たとえ死という現実に立たされても、永遠の命への希望をもって、それを乗り切る事が出来る。

 これは決して単なる理屈ではありません。信仰の先輩たちの多くが、実際にそういう生涯を歩まれたのであります。今日のテキストのフィリピ書を書いているパウロもそうであります。彼は今獄中から、このような手紙を書いている訳であります。その彼が「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言う。それは、彼自身、牢獄の中にあっても、主にある喜びに満たされていたからではないでしょうか。

 今日のテキストの少し前、2章17節以下の所には、このような言葉もあります。「更に、信仰に基づいてあなた方がいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなた方一同と共に喜びます。同様に、あなた方も喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」。

 パウロは「自分の血が注がれる」、自分が犠牲になろうとも「喜ぶ」と言っているのであります。そして「あなた方も喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」と勧めている。イエス様もあの山上の説教の中で、このように教えております。「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのない事であらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」。イエス様も「大いに喜びなさい」と言っているのであります。「喜ぶ」、それはクリスチャンの原点であり、信仰の出発点と言ってもいいのではないでしょうか。

 私たちの人生、これはたった一回限りの人生であります。やり直すことが出来ません。ですから、私たちは真剣になって考えなければならないと思います。で、その私たちの人生の出発点において、何をもってくるか。それによって私たちの人生というものは、大分変わったものになると思うのであります。最初から私たちの人生はしんどいものなんだ、厳しいものなんだ、喜びも楽しみもないんだ、と考えますと、そういう人生が開かれて行く。逆に、この世は神様によって祝福され、喜びに満ちているんだと考えれば、そういうすばらしい世界が開かれて行く。要は、私たちの考え方如何(いかん)にかかっていると言えるのではないかと思うのであります。そして、このように人生の出発点に「喜び」というものをもってくるのが、キリスト教の教えであります。キリスト教というのは「喜びの宗教」であります。言い換えれば、人生を楽しみ、人生を喜びで満たす、そういうあり方、生き方を教えるのが、キリスト教の信仰と言ってもいいと思います。

 私たちは信仰生活などと申しますと、いろいろな掟・規則・しきたりがあって、あれもこれもしなければならないという事で、非常に圧迫感を感じるというか、重荷を感じる事もあります。日本基督教団の信徒必携なんかを見ますと、信徒はこういう事を守らなければならない、ああいう事も守らなければならないという事で、守るべき事が沢山記されています。しかしながら、信仰生活というのは、本来楽しむべき性格のものではないかと思うのであります。信仰生活というのは、私たちの人生そのものであります。よく信仰は信仰、あるいは、宗教は宗教ということで、私たちの生活と切り離して考える人がおりますけれども、それは間違いであります。少なくともキリスト教では、信仰も生活も一つのもの、同じものであります。ですから、「信仰生活」というのであります。で、信仰生活というのは、私たちの生活そのものでありますから、これは当然「人生」というふうに置き換えてもいいと思うのであります。

 とにかく、私たちの人生、それは喜びや楽しみのためにある。キリスト教の教えから、私たちはこのように考えたいと思います。神様はこの世を祝福しておられます。この世を肯定しておられるのであります。喜びや楽しみのためにある事を認めて下さっているのであります。キリスト教は「喜びの宗教」なのであります。

 先程少しご紹介いたしましたテサロニケの信徒への手紙第一5章16節以下の言葉、もう一度見てみたいと思います。このようにあります。「⑯いつも喜んでいなさい。⑰絶えず祈りなさい。⑱どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。「いつも喜んでいる」「絶えず祈る」「どんなことにも感謝する」、そういう歩みを神様は私たちに「望んでおられる」のであります。「いつも喜んでいなさい」「主において常に喜びなさい」。それはただ私たちがそういう歩みが出来ればいいな、という単なる願望ではないのであります。神さまが私たちに「望んでおられる」ことなのであります。私たちはイエス様が開いてくださった「喜びの人生」を、これからも皆様方とご一緒に歩んで行きたいものであります。


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