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説教 「わるものになりましょう」 (マタイ 7:7-12)      2013/04/14

 今日は「悪者になりましょう」というお話をさせていただきます。教会で「悪者になりましょう」なんて、これは説教題がよくない、そんなふうに思われる方もおられるかも知れません。でも、最後までお聞きいただければと思います。決して「悪人になれ」というようなお話ではありませんので、ご安心ください。

 ということで、今日の聖書のところですが、ここには先ず「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という有名な言葉が出てまいります。これは、昔の文語訳の聖書では、こんなふうにありました。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」。有名な言葉であります。

 ところで、「求めよ、探せ(尋ねよ)、門を叩け」という、これらの言葉、これは積極的に求めていく、積極的に物事に取り組んでいくという、そういう姿勢を語ったものであります。最近は、与えられるだけで、自分から積極的に何かを求めたり、取り組んだりすることが少なくなって来たようにも思います。

 例えば、私は幼稚園の仕事を長くやってまいりましたが、最近の子供たちは、自分から積極的に何かをやっていこうという、そういう子が少なくなって来たようにも思います。勿論、積極的にチャレンジしていく子もいます。でも、先生が「~しましょう」と言わないと何もしない、ポカーンとしている子もいます。手を洗いましょう。うがいをしましょう。後片づけをしましょう。ゴミを拾いましょう。先生がいちいち言わないと何もしない。要するに「指示待ち症候群」(誰かの指示がないと動かない、動けない)、そういう子が多くなってきているようにも思うのであります。

 学校なんかでもそうではないでしょうか。積極的に勉強しようという子も勿論いますけれど、授業だから仕方なく教科書を開くという子も多い訳であります。黒板の板書書きも、写さないと試験の時に困るから仕方なく写す。そういう子もいます。とにかく、最近は自分から積極的に何かを求めたり、取り組んだりすることが少なくなって来た、そんなようにも思える訳であります。

 で、そういう時、先程の「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」というこの言葉、何か私たちに新しい気持ちを呼び起こさないでしょうか。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。真剣に、一生懸命に求めていく時、そこに道は開かれていくのであります。

 ところで、今日の聖書の所には、Golden Rule(黄金律)と呼ばれる言葉が出てまいります。7章12節の所にある、このような言葉です。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」。この言葉は多くの人たちに影響を与えました。そして、実際にこの言葉を実践して大儲けをしたというような人たちもおります。「こんなものが食べたい、こんなものがあったらいいのになあ」というものが提供されれば、それはありがたい訳でして、みんな喜んで買うのではないでしょうか。自分の望んでいるものは、人も望んでいるのであります。ですから、そういうものを提供してあげる。それは商売の鉄則であります。あなたの欲しいものがここにある。どうぞ見て下さい、買って下さい。聖書のこの Golden Rule は、商売繁盛の秘訣を教えている言葉でもあります。この言葉を座右の銘にしている実業家の方々も沢山おられます。

 しかし、これは商売だけの問題ではありません。私たちの人間関係にとっても、とても大切なことであります。自分がして欲しいことを、人にもしてあげる。そこから人と人との信頼関係も生まれて来るでしょうし、みんなが仲良くやっていける、そういう道も、そこから開かれて行くのではないでしょうか。

 ところで、この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」という、この言葉ですが、これに似た言葉に「己の欲せざる所、人に施すなかれ」という言葉があります。(論語にある言葉)自分がして欲しくないことは、他人も同様にいやな事なのだから、人にもしない。とても大切な事だと思います。しかしながら、これは、聖書の Golden Rule と比べますと、非常に消極的な感じがします。自分がして欲しくないから、人にもしないということですから、これは消極的と言ってもいいと思うのであります。それに対して、聖書の方は「自分がして欲しいと思うことを、人にもしていく」ということですから非常に積極的と言えるのではないでしょうか。聖書の教えは、概して、積極的な教えが多いように思います。先程の「求めよ、さらば与えられん」もそうですが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とか「狭い門から入れ」とか「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とか、結構、積極的に、前向きに何かをしていくという、そういう勧めが多いように思います。そして「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」。自分がして欲しいと思うことを、積極的に人にもしていく、これほど積極的な生き方はないと思います。

 しかし注意しませんと、いくら積極的と申しましても、して欲しくないことまでも、「親切の押し売り」で「お節介をやく」というような事では困ります。相手が望んでもいないのに、いやがっているのに、相手の心の中に土足で上がり込むような、そういうあつかましい在り方、これはやはり慎むべきであります。相手が望んでもいないのに、押し掛けていって一方的に話しまくる。ものみの塔、エホバの証人のおばさん達、皆様ご存知でしょうか? こちらが忙しくしているのに、何時間でも自分の言いたいことをしゃべりまくっていく。こちらの言うことなんかには全く耳を貸さずに、自分たちの主張だけを一方的に話しまくる。これは困ったものであります。あるいは、世話好きのおばさん達が、お見合い写真なんかを持って来て、この人は家柄もいいし、学歴もあるし、ハンサムだし、いい人だから、お見合いでもしてみたらどうかなんて、望んでもいないのに余計なお節介をやく。これもちょっといただけません。ですから、注意しないといけませんが、でも、「人にしてもらいたいと思うことを、積極的に人にしていく」という事は、これはとても大切な事のように思います。

 イエス様は、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。(隣人を自分のように愛しなさい)」(マタイ22:39)と教えられました。イエス様が教えている「愛・アガペーの愛」というのは、よく「自己犠牲の愛」なんて言われますが、基本的には「相手を理解し、相手を思いやる心」、そんなふうに言ってもいいと思います。相手の事も考えず、むやみやたらに働きかけていく親切の押し売り、これは必ずしも「愛」とは言えません。愛は先ず相手を理解し、相手を思いやることから始まるのであります。

 こういうお話があります。ご存知の方もいらっしゃるかも知れません。

 ある所に、隣り合わせの二軒の家があったというのであります。で、その一軒には、子供のいない中年の夫婦が住んでおりまして、しょっちゅう「ケンカ」をしていた。「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言いますが、この夫婦の場合、ちょっとした事が原因ですぐ喧嘩になり、お互い口汚くののしり合う、そんな日が続いていたというのであります。 ところが一方、隣の家は、大所帯で、若夫婦に子供が4人、それに姑さんまでいる大家族。しかし、不思議なことに、その家からは口喧嘩ひとつ聞こえて来ない。いつ行ってもニコニコ顔で、如何にも幸せそうで晴れ晴れとしていた。 これは夫婦喧嘩を日課のようにしていた隣の夫婦にとっては理解しがたい謎でありました。で、ある日、その隣のご主人は恥を覚悟で出かけていって、「お宅の家族は沢山なのに、どうして喧嘩もしないでやっていけるのか、何か秘訣があるのか」と尋ねたそうであります。そうしますと、隣の大家族の若主人は、ニッコリ笑って、こんなことを言ったといいます。「それは何も不思議な事ではありませんよ。あなたの家に夫婦喧嘩が絶えないのは、お二人とも善人だからですよ。私の所は、皆悪人ぞろいだから、それで喧嘩がないんですよ」。こんな答えが返って来たといいます。

 「善人ばかりの家に喧嘩があって、悪人揃いの家に喧嘩がない」。みなさん、この意味分かるでしょうか。分かっておられる方もいらっしゃるようですが、隣のご主人はチンプンカンプン、全然分からない。それで、それは一体どういうことなのかと尋ねると、大家族の若主人は、このように答えたといいます。

 「まあ仮に私が座敷の真ん中にあった湯飲み茶碗をうっかり足にひっかけてこぼしてしまったといたしましょう。そうしますと、私は、これは私が不注意で悪かったと申します。すると、私の家内が「いいえ、あなたが悪いのではありません。早く片付けなかった私が悪いんです」と言う。すると、私の母(姑さん)が、そばから口を出して「いやいや年寄りのわしがそばにおりながら、注意してやらなかったわしの過ちじゃ」と申します。みんなが進んで悪者になろうとするのです。これじゃ喧嘩したくても出来ないじゃありませんか」。まあ、こんなふうに若主人は答えたというのでありますね。

 このお話は、実話かどうかは分かりませんが、私たちに非常に大切なことを教えているお話ではないでしょうか。ある意味で、現代は、誰も悪者になろうとしない、悪者なんかになりたがらない。そういう時代であります。たとえ実際に悪いことをしても、自分が悪いとは認めず、自分は正しいと主張する、そういう、いわゆる「善人」があまりにも多い時代であります。先程の若主人が「お茶碗をひっくりかえした」例で申しますならば、「あなたは何をやってもドジってばかりでだめねー」と奥さんが言えば、「お前が早く片付けないから悪いんだ」と主人が言い返す。そこに姑さんが口を挟んで「わしが若かった頃は、もっとしゃきしゃきしていたもんじゃ」と嫁さんの悪口を言う。これが現代の家庭図・家庭の姿ではないでしょうか。仮に誰かが「私が悪かった」と言えば、「そうだ、お前が悪いんだ」という事で、逆にやっつけられてしまう。そんな時代でもあるように思います。現代は、あまりにも善人が多すぎて、悪者が少ない。そして人間関係がぎくしゃくしている。そんな感じがしてなりません。誰も悪者になろうとしないのでありますね。 しかし、誰かが悪者にならなければ、人間関係「ぎくしゃくしたまま」であります。何の進歩も前進もありません。そういう意味では、先ず誰かが悪者になっていく。先鞭をつけると言うか、足跡をつけるというか、そういう事が必要ではないかと思うのであります。

 それでは、誰が先ず悪者になっていくのでしょうか。聖書では、その悪者の先駆者、それはイエス様であると教えています。ご存知のように、イエス様は2000年近く前に十字架につけられ殺されました。十字架がキリスト教のシンボルになっているのは、その為であります。ところで、この十字架ですけれども、これはもともと罪人、悪人が処刑される時の道具であります。その十字架にイエス様が付けられたというのですから、イエス様は確かに悪者であったに違いありません。勿論このように申しましても、イエス様が本当に悪い事をした「犯罪者」であったというのではありません。しかし、イエス様が十字架に付けられたという事実は、イエス様ご自身、先ず悪者になったという事を示してはいないでしょうか。イエス様は、私たちの罪を全部背負って、悪者になって、十字架につけられたのであります。イエス様ご自身が、先ず悪者になって、悪者への道を開いて下さった。だとすれば、私たちも、イエス様にならって、悪者の道を歩んで行くべきではないでしょうか。そんなことをしたら自分だけ馬鹿を見るということで「善人」ぶらないで、率先して悪者になっていく、そういう歩みをして行ってもいいのではないでしょうか。

 確かに、最初は「私が悪かった、自分が悪かった」と言えば、「そうだ、お前が悪いんだ」と言われるかも知れません。しかし、悪者になっていく人間が一人でも二人でも増えて行けば、悪者の輪は次第に大きく広がって行きます。「私が悪かった」「いや、私が悪いんです」「いや、僕が悪かった」、そういう人間関係が出来れば、喧嘩もなくなり、戦争もなくなるのではないでしょうか。そして、平和な世界がやってくる。イエス様が「平和の君」と言われる所以が、ここにもあるように思います。善人が多く、悪者が少ない時代、私たちは、もっと悪者の輪を広げて行ければと思います。 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というこの言葉は、相手を理解し、相手を思いやり、自らは悪者になっていくという、そういうことを教えている言葉でもあるのではないでしょうか。愛の真髄は、相手を思いやる心、そんなふうに言ってもいいと思います。

 ついでに申し上げますと、先程紹介しました「己の欲せざる所、人に施すなかれ」という論語の中にある言葉ですが、この言葉の前には、こんな会話があります。「子貢(しこう)問いて曰わく、一言(いちげん)にして以(もっ)て終身(しゅうしん)之れを行う者有(あ)りやと。」孔子の弟子である子貢(しこう)が、孔子に「たったひと言で、一生涯を通して、行動する際に心すべきことは何でしょうか」と、こう聞く訳であります。そうしますと、孔子はこう答えます。「子(し)曰く、其れ恕(じょ)か。」それは「思いやり」ということだ。そして、「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」と教えたと言います。孔子も、「思いやり」他人を思いやる心ということを教えたのでありますね。それはイエス様の愛の心と共通するものと言ってもいいのではないでしょうか。

 いずれにせよ、私たちは、自分のことばかりでなく、相手のことを思いやる、やさしい心を大切にして行きたいものであります。そして、その為には、先ず自分が悪者になっていく、まあ、そういうことが必要なのではないかということで「悪者になりましょう」というお話をさせていただきました。決して「悪人になれ」ということではありませんので念のため。


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