今日は「亀になりましょう」というお話をしたいと思います。「亀」と申しますと「兎と亀」のお話を思い浮かべる方もおられるかも知れません。「もしもし かめよ かめさんよ」という「兎と亀が競争して、最終的には亀が勝つ」というあのお話。でも、今日は「兎と亀」のお話ではなくて、「舌のお話」であります。「舌」と申しましても、上、下の「下」ではありません。「tongue」(タング)
口の中にあります「舌」、まあ、「べろ」と言ってもよいかも知れません。
舌、べろ、これはとても大切なものであります。舌がありませんと味が分かりません。それだけではなくて、言葉も正しく話せません。声は出せても正しい発音が出来ない訳であります。英語を勉強した時、よく言われたと思いますけれども、Rの発音とLの発音、これは舌の位置によって発音が違う訳であります。私たち日本人には同じように聞こえましても、英語を話す人にとっては、RとLは微妙な違いとして聞こえるようであります。ですから、舌がないと正しい発音も出来ないという事にもなる訳であります。でも、問題は発音の問題ではありません。今日は舌から出てくる言葉、口から出てくる言葉について少しお話したいと思います。
昔から、日本では「口は災いの元(もと)」というような事が言われてまいりました。まあ、正確には「口は禍(わざわい)の門(かど)」と言うらしいのですけれども(門(かど)というのは門(もん)と書きますが)、うっかり吐いた言葉から禍を招くということは往々にしてある訳でありますね。私なんかもしょっちゅう、この「言葉」で失敗しています。言わなくてもいい事まで言って気まずい思いをするというような事もありますし、あるいは、冗談のつもりで言ったことが、相手には冗談として伝わらなくて、お互いに傷つけ合うというようなこともある。本当に「口は災いの元(もと)」。注意して話さないと、とんでもないことになるのでありますね。みなさんはそんな経験をした事はないでしょうか。
ところで、聖書には、この口の問題、言葉の問題について非常におもしろいたとえ話が載っています。先程お読みいただきましたヤコブの手紙の3章の3節、4節のお話がそれでありますが、先ず3節にはこのようにあります。「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。」
馬、まあ、馬にもいろいろな馬がいますけれども、サラブレッドもいれば、じゃじゃ馬もいる。まあ、いろいろな馬がいる訳ですけれども、馬はそれだけでは私たちの言うことを聞いてくれません。ですから、普通は「くつわ」というものをつける訳であります。「くつわ」、ご存知の方も多いと思いますけれども、馬の口に含ませる金属製の道具のことでありますね。それを馬の口に含ませて、そしてそれに手綱(たづな)をつけて馬をコントロールする。馬を御するためには、どうしてもその口に「くつわ」をはめなければならないのであります。そうすれば馬を自由にコントロールすることが出来る。同じように、私たちの口にも「くつわ」をはめれば、意のままに語る言葉をコントロールすることができるというのでしょうか? 非常に面白いたとえ話であります。
それから、もう一つ、4節の所には、このようなたとえ話が載っています。「また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵(かじ)で意のままに操(あやつ)ります。」
これも面白いたとえではないでしょうか。どんなに大きな船であっても、舵(かじ)一つでどうにでもなるというのであります。激しい風が吹いて、波にもまれている船であっても、小さな舵(かじ)一つで、船は舵取りの思いのままに操ることが出来る。
これは、私たちの口もじょうずに使えば、自由自在に相手を操(あやつ)ることが出来る。そんなふうにも受けとめられる「たとえ」でありますけれども、ここで言われている事はどうもそういう事ではなさそうであります。むしろ、ここで語られておりますのは、小さな口、小さな言葉でも「大きな影響を人に与える」ということのようであります。
例えば、私たちの語る言葉、それは自分にとっては些細な、どうでもいいような言葉だったかも知れませんが、その言葉が相手に深いダメージを与えるというようなこともある。要するに、知らないうちに、人を傷つけたりしていることもある訳であります。で、こうなりますと、自分はそんなつもりで言ったのではないと、いくらあとから弁解しても後の祭り。その言葉によって傷ついた人の心は、なかなかいやされません。最悪の場合は、今までうまく行っていた関係が壊れてしまうということだって起こり得る訳であります。ですから、私たちは自分の語る言葉については、責任を持たなければなりませんし、また、細心の注意を払わなければならない訳であります。
先程お読みいただきました聖書の中には、このような言葉もあります。
「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。」
口から出る言葉、それは確かにすばらしい事を語ることもあります。でも、とんでもない事を語る場合だってあるのであります。舌は小さな器官ですけれども、よく大言壮語する。大きなことを言う。また、ごく小さな火でも、大きな森を燃やしてしまうこともある。私たちの語る言葉というのは、口から出てくる時は、たとえ小さなものでありましても、それが人に「大きな影響を与える」という事もあるんだということを、是非覚えておきたいものであります。
ところで、言葉を話すのは、私たち人間であります。猫や犬も猫語や犬語を話すのかも知れませんが、それはさておいて、言葉を話すのは私たち。ですから、この言葉の問題というのは、結局、私たちの問題ということになる訳であります。
で、今日の最初の所には、「あなた方のうち多くの人が教師になってはなりません」ということで「教師」のことが取り上げられておりますけれども、これは「教師」が「言葉」を語り、多くの人たちに影響を与えるからでありますね。大言壮語する教師、偉そうなことを言う教師、時には自分のことは棚に置いておいて、人を裁く教師、いろいろな教師がいます。教師は教えるのが仕事ですから、どうしても語らなければなりませんけれども、語る言葉には十分注意しなければならないという、そういう意味で、「教師」のことがここで取り上げられているのではないでしょうか。「あなた方のうち多くの人が教師になってはならない」とあるからと言って、「あなた方は教師になんかならない方がいいよ」と言っている訳では必ずしもないと思います。教師は、教えるためにどうしても語らなければならない。でも、言葉で過ちを犯さない人はだれもいないのだから、語る言葉には十分注意しなければならない、という、そういう意味で、教師のことが取り上げられているのだと思います。
いずれにせよ、言葉というのは、人を生かすことも出来れば、人を傷つけることもある。そういう両面がある訳ですから、やはり大切にしていかなければなりません。繰り返しますけれども、たとえ小さな言葉であっても大きな力があるのであります。良い意味でも、悪い意味でも、言葉は人に大きな影響を与えることがある。私たちは、このことを忘れないでいたいものであります。
さて、言葉の大切さという事は、このくらいにしておきまして、最後に、それでは、このような私たちの語る言葉、それをコントロールするにはどうしたらいいのかという事について、少しばかり考えてみたいと思います。
聖書には、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とあります。先程お読みいただきました3章の2節の言葉であります。言葉で過ちを犯さない人、そういう人は自分の全身を制御できる完全な人。確かにそうだと思います。でも、そう出来ないからこそ問題がある訳であります。私たちは完全な人間ではありません。ですから、どうしても言葉で過ちを犯してしまう。人の悪口をいったり、ウソをついたり、また、ついつい人を傷つけるような事を言ってしまったりもする訳であります。最近は「言葉の暴力」なんてことも言われますけれども、言葉には「人を傷つける」とんでもない力があるのであります。そのような言葉、それをコントロールするにはどうしたらいいのか。先程、馬の例がありまして、「馬を御するためには、くつわをはめればよい」とありました。私たちも口にくつわをはめて、言いたいことも言わないようにする、そうすれば少しは言葉の過ちを少なくする事も出来るかも知れません。でも、そんなことをすれば、今度は「言論の自由が侵される」というような事にもなりかねません。それでは私たちはどうしたらよいのでしょうか。私たちの言葉をコントロールするには、一体どうしたらよいのか。みなさん何かいい考えがありますでしょうか。
私は、言葉をコントロールする、一番よい方法は「亀」になる事だと思います。聖書には「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒(おこ)るのに遅いようにしなさい」という言葉があります。ヤコブの手紙の1章19節にある言葉であります。「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒(おこ)るのに遅いようにする」。「聞くのに早く」というのは、相手の話をよく聞いて、しっかりと理解するということ。しかし、話すときは「亀になる」、ゆっくりとじっくり考えてから話し出す、語り出す。怒(おこ)る時も「亀」、ゆっくりと考えてから怒る。まあ、怒(おこ)るときは、大体がカッとなって怒る訳ですから、「亀になる」と言いましても、なかなか難しいかも知れませんけれども、話すときは、じっくり考えてから話す、そういうことは出来るのではないでしょうか。
最近はなんでも早ければよいという風潮がありますけれども、亀も満更捨てたものではありません。この世の回転が速くなればなるほど、私たちはむしろ亀の「のろさ」というものにもっと注目してもいいのではないでしょうか。特に、話すことに関しては、聖書が教えるように、「亀」になることが大切ではないかと思います。ゆっくりと考えてから、適切な言葉を語る。それが私たちの言葉をコントロールする秘訣のようにも思える訳ですが、如何でしょうか。
ということで、今日は「亀になりましょう」という説教題をつけさせていただきましたが、実は「亀になりましょう」ということで、「ゆっくり、あせらず、ボチボチ行きましょう」ということもまた言いたかった訳であります。
私たち家族は、4月3日に三条教会に着き、引っ越しの荷物を受け取ったばかりであります。まだ荷物も片付いていません。取りあえず、寝る所と食べる所は確保しましたが、まだまだ落ち着いた生活は「これから」というところであります。
ということで、まだドタバタしておりまして、教会のご奉仕も十分出来ていないのが現状であります。でも、あせっても仕方ありませんので、ボチボチ、ゆっくりとやって行きたいと思っています。勿論、燕教会も三条教会も、それぞれいろいろな課題があるでしょうが、ご一緒に「亀になって」、ゆっくり、あわてず、でも、着実に一歩一歩前に向かって歩んで行きたいと思いますので、どうぞよろしくお願いしたいと思います。
兎がいいという人もいるかも知れませんが、最終的に勝つのは「亀」ですから、亀の歩みでもいいのではないでしょうか。
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