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令和4年2月

 今年のNHK大河ドラマでは北条義時を主役とした「鎌倉殿の13人」が放送されています。これまでも頼朝や義経を中心に鎌倉時代は何度か放送されてきましたが、三谷幸喜氏の脚本では現代語を多用し、よりトレンディな時代劇風に描かれていきそうです。
 歴史的に見てもそれまでの貴族社会を中心とした時代と異なり、東国武士を軸に日本史上初めて武家政権が樹立された鎌倉期は、登場する人物の生き生きとした群像やその地域性の身近さもあって楽しめます。ドラマにも少し出てきていますが、武蔵国の畠山重忠や比企能員、三浦義村、斎藤実盛、熊谷直実など近隣出身の武将がその荒っぽい性格と実直さをもって活躍していきます。
 このころの東国武士というのは武士とはいってもその実態は農家を営む農場主であったと云われています。土地の奪い合いや自ら開墾した田畑を文字通り「一所懸命」に守り抜き、地主として生計を立てていくというその自作農の励みがこの時代の文化や宗教をよりリアリズムのあるものにしていきました。建築や彫刻に写実性が増し、禅や念仏に代表される鎌倉新仏教などに人間復興-ルネサンスのようなものを感じるようになります。
 この時代の鎌倉武士の特徴に「潔(いさぎよ)さ」が挙げられるといいます。実直さゆえ、いざというときには自らの腹や首も差し出すという「命の軽さ」があったがため相手に対してもそれを求める血なまぐささが付きまとうのも事実で、生き死にを簡単に決めてしまう危うさもこの時代の特徴です。そんな彼らにとって死は怖くなかったのでしょうか。
 武家政権の誕生には平家の滅亡が必要条件でしたが、その立役者・義経の活躍した一ノ谷の合戦で捕らえられた平氏のなかに平重衡がいました。清盛の五男で、源平合戦のさなか平氏に反抗的だった南都と呼ばれる奈良大和の社寺勢力を叩くべく、南都焼き討ちの挙に及んだその最高責任者として有名です。この焼き討ちで東大寺を始め興福寺などの大寺伽藍が悉く灰燼に帰し、大仏殿も天平創建のものを失いました。捕らわれた重衡は都に送られ、さらに頼朝の意向で関東に送られることになりました。
 重衡の死への道どりは「平家物語」を構成する説話群の中でもかなり重要なものとして一篇の中に点綴されています。それによると関東送りが決まったと知った重衡は警護の土肥実平に出家の希望を伝えたが頼朝に対面するまでは許されず、さらにもう一度、「年来教えを受けている聖に今一度対面して後世のことを語り合いたいのだがどうか」と申し出ました。実平がその聖というのは誰のことかと尋ねたが、法然であると聞くとただちに申し出を認めてやったとあります。やがて迎えられた法然は涙ながらに語る重衡の繰り言を聞いてしばし言葉もなかったが、ややあって静かに語ります。「極楽浄土に生まれるための道はさまざまでしょうが、今のような末法のときには阿弥陀如来の御名を唱えるのが最もすぐれた道です。それはどんな人にもできるのです。罪深いからといって卑下なさることはいけません。十悪五逆のものでも信仰を得れば往生をとげることができます。・・・往生できるかどうかは信心によります。ただ浄土の教えを深く信じて、寝ても覚めても、時と所、身のあり方を問わず、いつも念仏を唱えることをお忘れにならなければ、命を終わるときには、この世から完全に脱して極楽浄土に往生なさることに何の疑いもありません。」と説きます。
 この法然の教導によって、重衡は心の迷いが拭い去られるような喜びを感じ、法然に頼んで授戒して貰ったといわれます。この後、東に下り頼朝との対面を終わった重衡は南都の大衆に引き渡され極悪無道の仏敵として斬られることになります。最後の願いで近辺から探して迎えられた阿弥陀如来の像を前にして、重衡は念仏を高らかに唱えつつ斬首されたと伝わります。(石井進著:鎌倉幕府より抜粋)
 現在の浄土宗の開祖として知られ、鎌倉新仏教を生み出した最初の聖・法然上人。
 岡山県津山市に近いところで生を受け、幼くして父母を夜襲で失い出家、源平の内乱の中で新しい救いを模索すること40数年。比叡山の天台教での修業に物足りなさを感じ、黒谷の叡空の元に投じてのち「選択集」を著し、称名念仏のみを選択する境地に到達したとされます。深い知識に支えられた、包容力のある法然の人柄は多くの追随者を集め、九条兼実などの貴族から熊谷直実などの東国武士まで、法然の教えの中に救いを求めるようになっていきました。潔さを持った鎌倉武士たちもその死が怖くなかったわけではなく、その間際には心の安らぎを求めたことが察せられます。
 平安時代末の叡山で、長い年月をかけて準備されていた法然の教えは、鎌倉時代の第一の時代に歴史の舞台に登場してきました。それが叡山で行われていた貴族的な仏教を民衆に解放したという点で、また知識として学ばれ、国家に奉仕するものでしかなかったそれまでの仏教を、日本人自身の主体的な宗教に転換させたという点で、日本の歴史の上で劃期的なことであったと、さきの石井氏は書いています。
 南都焼き討ちで焼失した大仏殿はその後頼朝や重源らの尽力で再建されますが、 この鎌倉再建のものも戦国期松永久秀の乱により焼失し、現在のものは元禄期に大仏様にて桁行11間を7間に小さくして再々建されたものです。興福寺の中金堂も長い間基礎のままでしたが、一昨年享保以来の再建を見、盛大に落慶法要が営まれたのは記憶に新しいところです。








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