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亀澄初代社長を偲んで___小野里亀澄追悼録より

片倉久登氏(前橋商工会議所会頭)
・・・亀澄さんは、使用人に対しては、相当無理を言う人でした。しかしその反面、非常に同情心が
強くて、その人の面倒はよく見ました。だから下の者がよくなついて、皆永続きして勤めていま
す。この精神が、亀澄さんの成功する大きな原動力になったと、つくづく考えさせられます。・・・

関口志行氏(前橋市長)
・・・昭和5年の選挙の時の選挙事務長をしてくれたのが我が小野里亀澄君であったのである。
同君は当時、前橋でも一流の土木建築業者であったので、各方面に種々の縁故を持っており、
また子分子方も数多くあった。これらを総動員したことは勿論、物質的にも多大の犠牲を払って
の大活躍であった。貧乏なる私の力では、とうてい成功の望みはなかったが、小野里君のこの大
勢力が加わったために、初めて当選が出来た次第である。大恩人と言わざるを得ない。・・・故人
には別に学問らしいものはなかったが、所謂かつて盤根錯節にあたって試み来るで、世故の百
事を対象として、これを究め、これを学んで心的工夫を遂げた、立派な修士であった。私は同君
を批評して、社会大学の卒業生である、といったことがある。・・・

小口義郎氏(上毎印刷社長)
・・・丁度そのとき、家内が二男(高志)出産のため琴平町に厄介になっていました。と言うのは、
当時大変百日咳が流行っていまして、上の子供達がそれを患っており、もし赤ん坊にうつるよう
なことがあってはと、小野里さんが心配されて妊婦を引き取って下さったと言うわけなのです。・・・
物資も極度に欠乏していた真最中でありましたにも拘らず、約1カ月間、自宅におっては中々口
にすることもむづかしかった「白米」「鶏卵」それに種々な栄養物などを三度々々の食事に出して
下され、洗濯物なども現在の「まるみや」の奥さんや、社長の奥さんが一切引受けてお世話下さ
っていたのであります。私はこのことを見、・・・全く感涙にむせんだ次第です。私は厚く小野里さ
んにお礼申上げたところ、「これもお国のためだ。決してあとのことは心配するな」と励まされ、そ
の温情に勇希百倍何んら後顧の憂なく出征したのであります。・・・

藤枝泉介氏(衆議院議員)
・・・前橋の政界で、実業界で、皆が食い散した後片附を黙々としてやっておられた小野里さんの
姿は、正に前橋の名物の一つではなかったろうか。お若い時には斗酒尚辞せずといわれた由だ
が、私が親しくおつき合い願った頃には、ご養生もあって大分加減されておられたようである
が、・・・ついに一滴も口にされなくなり、ご同席願っているのが心苦しい位であったが、それでも
機嫌よくおつき合い下さった有様が印象的である。・・・

小林武四郎氏(前橋土建社長)
・・・折角出来上った勝山工場の大煙突も恐らく煙も出ないであろう、などと噂さえ耳にしている。
斯様の時こそ上棟式を豪勢にやり、勝山健在なり、と誇示すべき絶好の機会にあると勧告した
のである。物判りの早い氏は、"ヨシ己れも男だ、万事君達に任せるから立派にやってくれ"という
ことになり、そこで故人が中心となって龍柱を始め、五色の旗36本、伊丹樽2本に1斗の鏡餅を
台八車にのせ、揃いの絆纏105人で、皆幣束を担ぎ提灯を持って、鳶のキヤリを先頭に街の中
を練り歩いたので、道行く人も沿道の人達も驚いたと言う一大痛快事であった。後半勝山氏は君
等のためで一生一代の想出であったと述懐されていたが、すべて故人の勘の鋭さと相俟って機
を見るの敏であって、今では古い夢物語りの逸話である。・・・

北村直次郎氏(元前橋署長)
・・・若い頃は頼まれて引受けると熱を入れすぎて損得を弁えず、ずい分損していることも知って
いる。それでも後になって恩にもしなければ、こぼしたこともない。また使用人のことは自分の家
族同様に些細のことまでも良く面倒を見ていた。・・・前橋も爆撃され2人とも罹災者になって只1
軒新宅(現社長宅)が残ったので、そこに3・4ヶ月厄介になり、毎晩ローソクの下で夕飯を喰べな
がら語り合って元気を付けなぐさめ合った。・・・

齊藤雄吉氏(斉藤工業所社長)
・・・料亭「文楽」で例の如く斗酒を酌み交わしてたが、如何なる経緯からか、記憶もないが、話が
相撲のことに及んで激論となったらしい。私は柔道の技で投げると申せば、同君は相撲は相撲
の投げでと、持論は譲れず、遂に実験とばかり取組みはじめ、・・・建物が揺れて料亭の女どもの
心胆を寒からしめた様に思う。・・・その他小野里君の想い出は30年近くの交際に、同君と飲み
明かした回数を覚えぬほど数々あるが、今や、その友を失い、転々、愛惜の感に堪えない思い
です。・・・

大屋恭一氏(元三中教頭、現嶺小学校長)
・・・浩澄君が三中に在学中であるのを幸いとして、再びPTAは新制中学校の基礎を確立するた
めに、またPTAが新に一致協力して活動出来る会長さんは小野里さんでなければというの
で、・・・お引受け願い他校から大物会長として羨まれたものである。・・・市内新設中学校の育成
強化に献身的な努力を傾けられたのである。現在の三中の隆盛の基をつくられたのは実にこの
時代である。・・・

小野里光明(小野里工業社長)
・・・子供達に対して愛情が深かった証拠には万一、悪いことでもあれば徹底的に制裁を加えた。
兄弟中でい、一番やられたのは私であろう。殴ぐる、蹴るは勿論、縮こまって、部屋の隅に逃げ
まわると、上から踏ん付ける。逃げなければ危い、と思いながらも精神的な圧迫感で、どうしても
逃げ切れない。あとで考えると、やっぱり自分が悪いのだから仕方がないと思う。・・・満5年振り
で、南方の捕虜生活から、一尺位の顎ひげを生やして帰国すると、早速そのひげを平田平八氏
に剃らせられて仕舞った。一寸淋しいような気がしたが、父の命令なので仕方がない。そして父
は、大喜びで、「お前の好きなビールは用意してあるからな・・・」と物置の奥に苦心して貯め込ん
であった、麦藁の蔽ぶっている瓶を取り出して見せてくれた時は全く涙が込み上げてきた。・・・生
前口ぐせのようにこんなことを言っていた。「俺が死んでも、石灰で固めたおがくづの饅頭だけは
よしてくれ・・・」戦時中死んだ人達には、おかぐづ饅頭があったのだろう。私はみたこともない。

小野里善雄(三男)
・・・その頃は小学校対抗野球試合のはなやかな頃で、私も選手になりたくて学校から帰ると、す
ぐ遊びに出かけて友達とキャッチボールをやるのに夢中で家の手伝いをせず飛び出してしまっ
た。
 たまたまそれを父に見つかりお勝手の床の上にすわらされてげんこでなぐられた。そのときの
痛さは今も尚忘れず、またそのときが父になぐられた最後でもあった。
 小学野球が盛んになり、5年生のときから敷島校のレギュラーになったが、選手よりも父兄の
方が熱心で、父が応援会長となり、大会前には米を俵で学校へ届けておいて、それを女の先生
が炊出しをして選手達全員に食べさせて猛練習をしたことを覚えている。
 また前中4年のとき北関東大会が浦和高等学校であり(この時は埼玉、栃木、群馬3県で北関
東大会)いよいよ決勝に桐生中学と県内同士の対戦となり応援団も皆夢中になってやっていた
が、父は一人ぽつねんとセンターの後ろの外野席で人に見られないように最後まで見物して帰橋
したそうだが、私が家に帰ったら『おいどうした。負けたようだが、また来年もあるんだからしっか
りやれよ』と云われただけで、見物に行ったことなど全然云わなかった。今考えて見ると、この当
時の父は、仕事の方面にも、また家庭的にも多忙を極めていたのによく埼玉まで試合を見に来
てくれたと感謝せずにはいられない。・・・

杉山 璋(女婿)
 昭和15年私等が結婚して横浜に新居をかまえ、私は鶴見の工場へ通っていた頃だったが、父
はよくひょっこりあらわれて、私たちがまだ熟睡している時分に起きて街を一廻りして来るのだ
が、その時はきまって早起きの店が開店準備をしている店を見て来て、「あの店は大したもの
だ。きっと繁盛する。商売の意気込みがちがう。」と云ってぶらさげた包みをあけて買って来た皿
や茶碗を出して見せた。「人が来た時には皿が要る。」「人が家に来た時に茶碗が要る。」といっ
ては気をもんで呉れた。何せ新世帯の安サラリーマンのことで、人を呼ぶ事など滅多にないのだ
が、大規模な人呼びになれた父には心配でたまらなかったらしい。
 ある時私が会社から帰って着物に着替え、妻に父はと聞けば「そとでまきわりですよ。」と云う。
なるほど音がするので外へ出て見ると、毛糸の腹巻きにぴったりしたパンツ、上は裸といういでた
ちで、それこそ頭から湯気を出してのまきわりの最中、まきわりもない家庭で父はこれも心配して
もって来てくれたのだろう。見れば古い木箱をこわした材料で石炭置場もつくられ屋根もかけてあ
る。「あの重い身体で小屋に上っていたんですよ。」と妻は云う。
 私は手伝う風もなく「もうあがりませんか。」と呑気そうに云って夕飯の膳にさそったが、風呂か
ら上った父はさも満足した顔つきで盃を傾け、なれぬ手つきで塀につづいたう屋根に丸い身体を
のばせるだけのばして、釘を打つ様のおかしさを妻が話して笑いころげたが、「前橋でこんな事を
すれば大変なさわぎだ」といって、例の爆発的な笑いをとばした。・・・

小野里善一(四男)
・・・私が学校を卒業してジャワ島へ征くとき、ずい分気も弱くなって東京まで送ってくれて、出発の
前日有楽町のグリルでささやかな送別の宴をして下さったけれど、出発当時は父だけが私を見
送ってはくれなかった。否、見送ることが出来なかったのを私だけはよく知っていた。
 なおまた、それから数年たった、晩年の父はお話にならない程淋しがりやになってしまった。私
が浦和支店へ出張するのにも「お前がジャワ島へ発ったときよりどうゆうわけか淋しくって心配で
ならない」とよく云っていましたが、どうしてそんな風になったのか可笑しいようだった。
 人をとても恋しがって私達から仕事の話や世間のことどもをきくのが唯一の楽しみのようだ。私
も、父のところへ足を運んでゆくり話をする積りではいたけれど、中々暇の時でもないと無沙汰が
ちだった。
 亡くなった当日も、もっと話をすればよかったと後悔したけれど、私が外出前父のところで一寸
話しただけで、それが永久(なが)の別離(わかれ)になってしまった。幼い時から心配ばかりかけ
っ放しで、なぐさめる言葉すら満足に云えなかった時分を不孝者だとつくづく思う。

打越志郎(五男)
・・・昭和5年3月、父が選挙事務長で、関口志行先生が衆議院議員に当選した直後、「松し満」
で飲んでいた時、そこえ私が生まれたという知らせがあり、一杯機嫌の父が「よし、それではここ
のうつにやろう」と言い出したのが、私を松し満の養子にしたきっかけとなった。翌日、酔の醒め
た父に母や兄弟が反対したが、松し満の養母(はは)と固く約束をしてしまったので、後にひけなく
なって、私の打越家行きが実現したということである。
 5歳の時、盛大な養子披露の宴会をやって貰ったことを子供心にも憶えているが、実家と養家
を行ったり来たりしているうちに自然に来てしまったので、よくあの養子の不自然さを全く感じない
で済んだ。
 松し満の帳場で御機嫌の父が眼を細めて、「どうだ志郎、小野里と松し満はどっちがいい」など
と言いながら私を?えて可愛がってくれたことがよくあった。
 若い頃は相当無茶をやったときくが、私の頭の残っている父は酔ってもほがらかに騒ぐくらいで
あった。一度も叱られたという記憶がないので、こわい父という感じは少しもなかったのは、やは
り末子の特権であったのだろう。


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小野里工業株式会社  群馬県前橋市下小出町1−1−12