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焼け野原からの出発

 空襲で廃墟となった地に小野里工業が再興されようとしていた20年10月1日
に小野里善雄が復員した。15年8月、海軍の技術徴用で軍属としてマーシャル
群島のタロア島に派遣され、飛行場の建設をして16年9月に帰国、そのまま海
軍に残って技術将校となり、海軍施設本部に勤務、終戦は伊豆の伊東で迎え
た。
 株式会社小野里組を小野里工業株式会社に改称したのは、昭和20年12月、
太平洋戦争が終了した年で、社長は小野里亀澄である。
 小野里工業の発足とともに、製材工場を小野里木工株式会社、資材部を小野
里商事株式会社とした。
 終戦の僅か10日前に焼野原と化した前橋市の有様は悲惨としかいいようのな
い光景であったが、市民はその日から住む家をつくらなければならなかった。応
急の措置として焼け残った木材や板切れを打ちつけたバラックが建ったが、早急
に住宅を建設する必要があった。
 官公庁施設、学校の普及、戦災者住宅の建設などなかなかいそがしく、社長の
亀澄が先頭に立って指揮する毎日であった。海外からの引揚者、復員者により、
人手にはゆとりが出るようになったが、資材が思うように入手できないことと、イン
フレによる物価の急騰に悩まされた。
 幸いであったことは、早くから山林を保有し、あるていど木材が自給できたこと
である。戦災により8割を焼失した前橋市の住民は、まず生活の本拠となる住宅
の建設に追われており、建築需要は盛んであった。しかし通貨の増発と物資不
足によるインフレが進行し、建設業者にとっては、資材の手当が大へんで、ちょっ
と間違うと赤字を出す心配もあった。
 前橋戦災者住宅建設要領は、終戦後の8月19日に区長会議によって決定し、
戸数、規模、資材配給、労務などの具体的な事項も決めて、早急にこれを実行に
移すことになった。建設戸数は前橋市で扱うもの7,500戸、住宅営団で扱うもの
800戸の計8,300戸、1戸当りの規模は6坪2合5勺であった。
 この戦災住宅のほかに、民間の自力建設による店舗、工場、事務所、住宅建
設があり、急速な勢いで復興がすすめられた。前橋市の家屋統計によると、20
年12月末から翌21年12月末までに約5,000戸の住宅、店舗、工場などが建
ち、いちじるしい復興ぶりをみせている。


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小野里工業株式会社  群馬県前橋市下小出町1−1−12