黒猫荘
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みわっち。の『それさえも恐らくは平穏な日々』
オーナー:みわっち。

まだまだ、勉強中ですが、とりあえず顔を出すようにしようかな、と。
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1936. 2004年02月07日 10時04分33秒  投稿:みわっち。 
うわあ。間違い。

<昭和20年代の風潮をそのまま昭和305年12月の文章に接続するのは

 正しくは「昭和35年」です。「昭和305年」って一体……(恥)。
1935. 2004年02月07日 10時00分40秒  投稿:みわっち。 
探偵講談当日です。現地でお会いする方、よろしくお願いいたします、みわっち。です。

>森下祐行さま

<トリック偏重の時代に、それだけじゃない、というためには、戦略的にも極端な言い方を

 むう。この辺は敢えて突っ込まなかったんですが、そうおっしゃられるなら仕方がないですね。問題となる『殺意の楔』の解説の日付は1960年12月ではなかったかと。奥付の日付はどうかわかりませんが、1961年の出版だったろうと想像するのは過ちではないと考えます。

 この1960年〜1961年は昭和になおせば昭和35年〜36年。いわゆる社会派ミステリ・社会派推理小説全盛の時代にあたりませんか?

 件の書き込みの<前知識>に森下祐行さまは確か「ハヤカワミステリが発足したのが昭和20年代後半で、その当時は本格にあらずばミステリにあらずみたいな風潮があった」という主旨の文章をつけられましたよね?

 昭和20年代後半はそうだったのかもしれませんが、この本の成立年代は昭和30年代半ばですから、その昭和20年代の風潮をそのまま昭和305年12月の文章に接続するのは無理があると思います。

 確かに私は「全ての歴史認識は認識するものの恣意的要素を含んでいる、故に誤った歴史認識などない」というスタンスです。

 でも、森下祐行さまは

<その文節だけとって、「本格」すべてが否定されていたというの
<は、あやまった歴史の見方だと、(あるいは一方的な見方だと)、思うのですよ。

 と、おっしゃっていますよ。これは私には誤った歴史の見方や一方的な見方を批判していると受け取れるのですが。

 一方で「誤った歴史の見方」の批判をしながら、そのもう一方では実に巧妙に「歴史の見方」をある方向へ誘導しているように受け取れるのですね。

 それはご自分の主張の信憑性を著しく貶める結果になりますよ。

<探偵小説本来の面白さを否定はしていなかったでしょう? 

 これはきっと私が食いつく事を意識的に配置された問いかけなんでしょうか(^^)。あの解説文も確かに「探偵小説本来の面白さ」は否定していなかったですが、しかし「探偵小説の面白さはトリックのみにあらず。他にはこういう要素があります。」という事は明確に言っていないんですよね。

 トリックは犯人が探偵に仕掛けるものや作者が読者に仕掛けるものも含めて、探偵小説を探偵小説たらしめている(他のジャンルとの差別化を図る)重要な要素だと思うんです。

 その一方で私は都筑道夫の言うような「トリック無用論」「トリックよりもロジック」(ここでいうトリックは犯人が探偵に仕掛けるものに限定されますよね?)にもうなずける部分がありまして。これもやはり、探偵小説を探偵小説たらしめている、重要な要素だと思うんです。

 一読者の立場からいえば、大仕掛けのトリックが鮮やかに決まるミステリも、ロジックの積み重ねの果てに犯人が明らかになるミステリも、どちらもありなんですよ。しかしどちらか一方をもって「古臭い」「ダメ」と決めつけるのはちょっとどうかな、と思うのです。

 どちらのタイプのミステリも鮮やかに成功すれば「名作」として語られるでしょうし、逆に失敗作であれば、どんなタイプのミステリであってもどんな巨匠の手になるものであっても、「駄作」「失敗作」の烙印を押されるでしょう。

 ただ、駄作・失敗作の原因として「トリックに重みを置いた小説だから」というのは違うと思うのですよね(この辺はご理解いただける範囲だと思うのですが)。

 すいません。少々脱線しました。

 そろそろ「探偵小説本来の面白さ」とはなんであるのかを明らかにしていただけないでしょうか。トリックやロジックもそれぞれ要素であって本質的なものではない、とした時に探偵小説本来のものは何が残るのか。

 もしくはロジックこそ探偵小説の本質であるとするならば、それを昔の言葉で言うのではなく「探偵小説多様性」が当たり前となっている現在の言葉で語る必要があるのではないかと思います。

1934. 2004年02月06日 18時44分26秒  投稿:森下祐行 
みわっちさま

>探偵小説におけるトリックの面白さ(もちろんそれが全てではないですよ)を完全否定して、
>より小説に近いものの方が優位(上位)にあるようなものの言い方ってのは、如何なものか
>と。なぜ「これからはAではなくてBだ」みたいな言い方しかできないんでしょうか。「A
>もBも面白い」と何故言えないんでしょうかねえ。

トリック偏重の時代に、それだけじゃない、というためには、戦略的にも極端な言い方を
しなくてはアピールしなかった、ということだと思います。
今はわたしも、みわっちさんのように思うところもありますが、当時はそれではアピール度
が低かったのではないでしょうか?

で、繰り返しになりますが、その文節だけとって、「本格」すべてが否定されていたというの
は、あやまった歴史の見方だと、(あるいは一方的な見方だと)、思うのですよ。あの解説文
でも、探偵小説本来の面白さを否定はしていなかったでしょう? これは都筑の「黄色い部屋」
の主旨と、基本的なところで、同じだと思います、

でも、とにかく探偵小説はトリックである、という人たちには、不快だったことは確かで
しょうね。

1933. 2004年02月06日 09時14分08秒  投稿:みわっち。 
お見合いまで後10日を切りましたが、何も決まっておりません、みわっち。です。

2月2日

○『頑張れ!石岡君』優木麥著 原書房刊 読了

 御手洗シリーズの名(?)脇役、石岡和己がでずっぱりの1冊。人のいい石岡君が動けばやる事為す事結果的に大成功するというお話が7つ。7作全てにおいて「なんか落語でこういうのあったような気がする」というのが私の印象。「石岡君、ラジオで相談にのる」が個人的にはお気に入り。

★★★では、1929カキコへのレスです

>森下祐行さま

<みわっちさんにメールすればよかったのですが、内容的に
<多くの人に読んでもらいたいと判断したのですが。
<みわっちさんの掲示板に迷惑がかかりそうなので、
<とりあえず、いったん削除します。

 いえいえ、あまりお気になさらずに。ネット上で掲示板運営するということは、楽しい事ばかりじゃない、という覚悟はある程度できていますから。

 しかしあの解説文は前提として、探偵小説の面白さ=トリックのみ、という共通認識がないとなりたちませんね。当時の考え方と言うのがまさにそういう部分にあったのかもしれませんが。

 確かに今の時間に生きる私の目には、いわゆる「探偵小説の多様性」が当たり前という時間に生きていますので、その当時の事を正確に想像する事は難しいのですが、それでもやはり「それはちょっとないよなあ」「なにも其処まで言い切らなくても」という表現はありましたね。

 ミステリ読みにとって「新しいトリック」こそ渇望されているものじゃないかな、と私は思うのです。もうトリックという鉱脈は掘り尽くされた、これからは「見せ方」のヴァリエーションが大事、まあ、これらの事は正論なのかもしれません。

 しかしその一方で、掘り続けなければ絶対に新しいトリックは生まれない、という事も、買わなければ絶対に宝くじは当たらない、のと同じく間違いのないことです。あの解説は掘り続ける努力を否定しているように見えるのですね。

 当たるかどうか判らない、新しいトリックを発見できるかどうか判らない、それでも模索する事は悪い事ではないと思うのですよ。それをトリックよりも小説としての面白さを狙うべきだ、そうしない事は健康的ではない(即ち不健康で不毛である)、みたいな言い方は酷いと思います。

 探偵小説におけるトリックの面白さ(もちろんそれが全てではないですよ)を完全否定して、より小説に近いものの方が優位(上位)にあるようなものの言い方ってのは、如何なものかと。なぜ「これからはAではなくてBだ」みたいな言い方しかできないんでしょうか。「AもBも面白い」と何故言えないんでしょうかねえ。 

[NAGAYA v3.13/N90201]