黒猫荘
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みわっち。の『それさえも恐らくは平穏な日々』
オーナー:みわっち。

まだまだ、勉強中ですが、とりあえず顔を出すようにしようかな、と。
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1871. 2003年10月15日 12時48分45秒  投稿:砂時計 
みわっち。さま
お誕生日おめでとうございます。

さて、自分も例えば、鯨統一郎『ミステリアス学園』の第1話で「松本清張の登場で本格ミステリは駆逐され、日本の推理小説のほとんどが社会派推理になってしまった。だが、社会派ばかりではつまらない。そこへ出現したのが綾辻行人……」といった内容の記述に出くわして、まともに読む気が失せてしまった経験があったりするので、このところのやり取りは興味深く読ませていただきました。

ですが、今回お邪魔したのは別の事が気になったからでありまして……。

>都筑が提唱したモダン・ディティクティブも判るのですが、
>実際の作品だと私にとっては華がないというか、魅力的に
>写らないんですよ。

この部分が自分には理解できないのです。
都筑がモダーン・ディテクティブ・ストーリーの例として取り上げた横溝正史『獄門島』にしても、実践ともいえる『七十五羽の烏』や『最長不倒距離』にしても、みわっち。さまの「華がない」「魅力的に映らない」という言葉で想起されるイメージとは結びつかないのですが。

ここでこんな事にこだわるのは、二階堂黎人『名探偵の肖像』に収録されている「地上最大のカー問答」及びカー作品解説の『プレーグ・コートの殺人』の項での都筑論批判、『僧正の積木唄』巻末のインタビューや光文社文庫の都筑本巻末での山田正紀発言、先に挙げた『ミステリアス学園』での都筑論の要約の仕方(トリックなど必要ない。緻密な論理さえあればいい)などを読むにつけ、どうも都筑論の内容が誤解されているように思えてならないからなのです。

都筑が提唱したのは「古い革に新しい酒を」という事なのに、まるで都筑が「古い革」を否定しているかのような捉え方が目についてしまうんですよね。
1870. 2003年10月15日 02時53分10秒  投稿:みわっち。 
え〜。めでたくひとつ年を取りました、みわっち。です。

>ないとーさま

<「古い本格」のことですが、「謎解き重視のあまりに人間性が歪められたり
<して不自然な本格」のことであって、決して発表された年代が古いから、
<「古い本格」というわけではないと思うのですが。

 「古い本格」という言葉の意味を何処に置くか、という問題ですね。私の1868番の文章はその前の森下さまの書き込みにある「黄金時代の本格と同じようなもの」の総称として使いましたが、本来的な意味合いはないとーさまのおっしゃる通りかもしれません。

 それでも私は人間性が歪められようが、それゆえ少々不自然さが目立とうが、重視した謎解きそのものが面白ければOK!というスタンスなので、余計に始末が悪いですね(爆)。

<都筑の言葉でいえば「昨日の本格」ですね。

 それは、わかります。しかし、もうここから先は嗜好の問題になって来る気がいたします。都筑が提唱したモダン・ディティクティブも判るのですが、実際の作品だと私にとっては華がないというか、魅力的に写らないんですよ。ホントにその辺は単なる好き嫌いの次元になってしまうのですが。

 現代性も踏まえつつ「昨日の本格」の魅力をも兼ね備えたネオ・クラッシックともいうべき作品、80年代後半に生まれた「新本格」に私はその萌芽を感じているというのは良くいい過ぎかしらん。

 まあ、嗜好の問題というところで卑近な例を出せば、冷やし中華が好きな人とラーメンが好きな人の差みたいな感じといいましょうか。冷やし中華が好きな人が「なんで冷やし中華がメニューから外れたんだ!1年中冷やし中華を食べさせろ!」というのに対し、ラーメンが好きな人が「消えていくメニューもあれば新しく増えるメニューもある。それは当然の事だ。冷やし中華が消えたのは誰の陰謀でもない。私は消えて行ったメニューにも愛着はあるが、新しいメニューも増えたんだから文句をいわず我慢すべきだ」といっているような(爆)。

読了本です。

○10月8日

 『迷路』フィリップ・マクドナルド著 ハヤカワ・ミステリ刊 読了

 序文にある「推理の練習問題」という言葉に偽り為しの作品でした。事件の関係者の証言記録と書簡だけによる、安楽椅子探偵ものの傑作といえるでしょう。その点についてはとても楽しめました。

 しかしながら、これは解説の中か他の部分で断り書きをするべき作品ではないかと思います。マンガ作品であれば、例えば昔の手塚治虫の作品を現在復刊するにあたっても「現在の感覚では差別表現にあたる描き方もありますが〜云々」的な文章は必ずといっていいほど入ります。
 この『迷路』が発表された1932年当時であれば、何も問題がなかったかもしれませんが、現代の日本でこの作品を出版する(2000年2月15日初版発行)のであれば、マンガにだってついている時代背景の差から来る表現の違いに関する注意書きくらいつけてもよさそうなのに。そんな非常にデリケートな問題を含んでいるにもかかわらず「人間心理の内奥に迫るようなテーマを背負っている」なんて無神経にもいってのけてしまう長谷部史親って一体……。

○10月13日

 『血みどろ砂絵』都筑道夫著 角川文庫刊 読了

 いやあ。やっぱりいつ読んでも都筑道夫はいいねえ。マメゾーの男泣きに涙腺を刺激された「三番倉」とどんでん返しの妙が上手い「いのしし屋敷」が私にとってはベスト。ということで、これから来年の8月までかけて砂絵シリーズを月に1冊ずつ読んでいく事を決めました。

○10月14日

 『完全犯罪に猫は何匹必要か?』東川篤哉著 カッパ・ノベルス刊

 だんだん上手くなってきてるのが良くわかる猫づくしの作品。前2作ほど冗談部分も鼻につかなくなってきてます。愉快なバカミスであると同時に優れたな本格ミステリです。戸村流平じゃないですけれど、アノ事は私も知りませんでした。なるほどねえ。

1869. 2003年10月14日 09時58分00秒  投稿:ないとー 
ないとー@44号室です。
少し気になったので、ちょっとだけ。

「古い本格」のことですが、「謎解き重視のあまりに人間性が歪められたり
して不自然な本格」のことであって、決して発表された年代が古いから、
「古い本格」というわけではないと思うのですが。
都筑の言葉でいえば「昨日の本格」ですね。
1868. 2003年10月14日 01時51分57秒  投稿:みわっち。 
独り者で、フラフラしている生活の所為か、気が付けば30代半ば。
もう決して若くはないトシだよなあなどと、誕生日を前にして物思う、みわっち。です。

>紅さま

<さて,例のアレ,立ち読みしてきました.相当構えて読みに行ったのですが,
<内容は「そんなに目くじらたてて騒ぐほどのことでも・・・」というスルー
<状態でありました(笑).

 まあ。言ってる事はいつもと変わりませんから。私なりの解釈でいえば、例のアノ文章というのは、ポケミス50周年を迎えた今、いわゆる「古い本格」にも理解を示してきているようにみえるだけに、それを一過性の単なるブームにして欲しくないが為の、ああいう言い回しではないかと思うのです。

<怪しげな集団(笑)で怪気炎を上げているうちはいい
<けれど,いろんな人が読む中に書くときは気をつけなくちゃね,

 う〜ん。まあ、一度商業出版物(もしくはウェブ上などの、公共性のある媒体)に載っかってしまった文章は、読み手側にどんな解釈をされても仕方がない、という運命を背負っていますから(苦笑)。

 極端な話、芦辺拓以外の作家のエッセイにしたって、ケチをつけようと思えば如何様にもケチをつけられますから、その辺は読み手次第って事になってしまいます。

>森下祐行さま

<まあ、いつもの芦辺氏の言動ですから、いまさらめくじらたてた
<わたしがいけないんですけどね。

<でも、誤解されるといやなので、一言だけ言わせてください。

<わたしは「本格ミステリ」が好きなのです。
<で、わたしの実感として「本格、死ね、死ね」っていわれた
<時期ってなかったのです。芦部氏はことあるごとに、そういわれて
<いたとおっしゃってますけどね。

<ただ、「古い本格」はもういいよ、と言われてはいました。これは
<わたしも同感です。いまさら黄金時代の本格と同じようなものを
<書いてもしょうがないでしょう。
<「本格」が古くて駄目なのではなく、「古い本格」が駄目なのです。
<新しいタイプの本格をハヤカワ・ミステリはいっぱい紹介してくれた
<のになあ、と無闇にわたしは腹をたてたのでした

 その辺、何をもってして「本格」とするのか、という微妙な問題をはらんでいるので、コメントも難しいのですが、私の実感で言わせていただけると、80年代後半、島田荘司推薦デビュウから始まるいわゆる「新本格」作家が、そのデビュウ後にバッシングされていたその内容を見ると、作品内容に関する点で言えば大きく「人間が書けてない」「古くさい」というこの二つがありました。

 これはあくまでも私の記憶によるもので、出典を明らかにしろ、と言われてしまうと困ってしまうのですが(汗)。

 ここで注目していただきたいのは、「新本格」作品に対する批判で「古くさい」というものがあった、ということです。ちょっとややこしくなってきますが、島田荘司推薦デビュウから始まるいわゆる「新本格」作品は「新本格」というくくりになっていますが、森下さまおっしゃるところの「新しいタイプの本格」ではありません。どちらかといえば駄目といわれた「古い本格」に属する作品が多かったはずです。だからこそ「古くさい」という批判が成り立ったわけです。

 ここで、最初に述べたように何をもってして「本格」とするのかという問題が立ちはだかるわけです。芦辺拓は森下さまおっしゃるところの「古い本格」をもってして「本格」と例のエッセイの中で言っているのであって、芦辺拓の言う「本格」と森下さまのおっしゃる「本格」では同じ言葉は使っていてもその意味するところは全く違うわけです。

 ここではこれ以降、便宜的に「古い本格」という言葉を使っていきたいと思います。

 また芦辺拓はいろんな場所で「自分が読みたい作品がなかったから自分で書くしかなかった」という意味合いの事も言っています。ということは少なくとも芦辺拓のしたかった事というのは当時駄目といわれていた「古い本格」の復興に他ならないといえるでしょう。

 当然「新本格」作家の全てが、「古い本格」の復興を目指していた訳ではないでしょう。しかし、作者の意図はどうあれ「古くさい」という批判を浴びた「新本格」の作品群が結果的に、「新しいタイプの本格」では満足できなかった読者を捉える事ができたからこそ、現在に至るまでの商業的成功に繋がったのは紛れもない事実ではないでしょうか。

 当時の感覚では駄目なはずの「古い本格」も売り方ひとつで、成功するわけです。ならば、翻訳権の取得という、他の出版社が仮に「古い本格」を出版したくても出版できない独占的な商売をできる立場にいるのにもかかわらず、それらをいたずらに絶版にしてしまう企業努力の不足さ具合は、「新しいタイプの本格」では満足できなかった人間、そして自らの実作で曲がりなりにも「古い本格」の復興に成功している人間から、如何様に責められても仕方がないものではないでしょうか。 

[NAGAYA v3.13/N90201]