黒猫荘
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みわっち。の『それさえも恐らくは平穏な日々』
オーナー:みわっち。

まだまだ、勉強中ですが、とりあえず顔を出すようにしようかな、と。
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1881. 2003年10月27日 08時41分39秒  投稿:みわっち。 
結局、昨日(10/26)のうちに『黄色い部屋はいかに改装されたか?』読了しました、みわっち。です。

引き続き『死体を無事に消すまで』を読もうかちょっと一冊間に挟もうか迷い中。

例によって例のごとく今日も朝帰り(爆)、締め切りが無事済むまではゆっくりできませんね〜。

って言うわけで、森下祐行さまへの本格的なレスは早くても10月29日以降に(汗)。

>森下祐行さま

<しかし、よく読むと、わたしの上記の文章はたしかにちょっとおかしいですね。
<「一般的にわれわれが」といいながら、「わたしは発言しています」と
<主語が入り乱れている。
<ここになんらかの深層心理が隠されているのだろうか??
<上記の文章は
<「わたしがイメージする「黄金時代の本格」というのは、
<都筑道夫の言う「昨日の本格」ということばに代表されるものです。そう
<いう主旨でわたしは発言しています。」
<と修正します。

 あ。ありがとうございます。私が引っかかったのもその点で、修正前の文章だと、森下さまの個人的な意見をあたかもミステリファンの大半がそう総認識しているかのようにとれるので、そういう「すり替え」は困ってしまうなあ、と思っていたのです。

 議論をする前に共通項の確認は私も必要だと思うのですが「会った事のあるミステリ・ファンの多くがこうだったから、ミステリ・ファン全体もこうだろう」という捉え方は、厳密性という観点に立てば、やはりまずいのではないかと思います。

 なにぶん、リアルタイムでどんな人が見るか判らないネット上でのやりとりですから、いつ何時「ミステリ・ファンが皆おまえ達二人が思っているような奴らではないぞ!」という場外乱闘が勃発するかわかりません。せっかくエンターテイメント性のある議論ができかけているというのに、それを収拾するのに追われ、結局試合そのものはノーコンテストってことになるのはつまらないですから。

 ちなみに「黄金時代の本格」という言葉から私が捕らえるイメージは、森下さまの言う「過去の輝かしい業績」は近いものがあります。しかし単純に「古めかしい」というイメージとはちょっと違うかなあ。同じ「古めかしい」でも私にとっては「年代モノのワインのような」という言葉が前につく「古めかしさ」です。

……ってなところで、そろそろまたお仕事の支度をしなくてはなりません。でわ、また。
1880. 2003年10月26日 10時45分51秒  投稿:森下祐行 
><一般的にわれわれがイメージする「黄金時代の本格」というの
><は、都筑道夫の言う「昨日の本格」ということばに代表されるものとし
><て、わたしは発言しています。
> ここでおっしゃっている「われわれ」とは一体どんな人達を指してい
>るのでしょう?その前段に「一般的に」という言葉がかかっていますが、
>その「われわれ」はミステリ好きな人間の中で過半数以上を占めていらっ
>しゃるのでしょうか?

この「われわれ」はみわっち。さんも含めたミステリ・ファンという意味で
もちいています。つまり、この部分にはだれも(というのはミステリ・ファン
のほとんどということですが)異論はないだろう、と思っていたのです。
みわっち。さんの前の発言を読んで、みわっち。さんも同じような考えなんだ
な、と思いこんでいました。

議論をする場合、どこかに共通点を見いだして、そこから話をつなげるしか
ないので、そうしたつもりです。

「黄金時代の本格」という言葉には「過去の輝かしい業績」というイメージ
がある一方で、「古めかしい」というイメージもある。そのイメージに対して
「実はそうではなく、本質は新しい」と論を展開するか、または「イメージ通り
に古めかしい」と論を展開するか、それは別れるとして、イメージそのもの
には変わりはないだろう、と、そう思っておりました。

それが違うよ、というのなら、「黄金時代の本格」という言葉にどういう
イメージをおもちでしょうか?

しかし、よく読むと、わたしの上記の文章はたしかにちょっとおかしいですね。
「一般的にわれわれが」といいながら、「わたしは発言しています」と
主語が入り乱れている。
ここになんらかの深層心理が隠されているのだろうか??
上記の文章は
「わたしがイメージする「黄金時代の本格」というのは、
都筑道夫の言う「昨日の本格」ということばに代表されるものです。そう
いう主旨でわたしは発言しています。」
と修正します。


> 「考えてみると、戦前は怪奇小説、異常小説が主流で、戦後にやっと本
>格が主流になったと思ったら、犯罪小説に追われてしまったのですから、
>日本の推理小説はあわれなものです。(P137)」
> と、あります。この言葉こそ非常に端的に、芦辺氏の言う(と、森下さ
>まがおっしゃる)「本格冬の時代」があった、証拠に他ならないのではな
>いでしょうか?

きましたね! ここを引用してくるのでは、とじつは怖れて(笑)いたのです。
これについては、ちょっと長くなるので、別の場所でまとめて、なんらかの
かたちで返答します。


>ちなみに、件の総解説目録のエッセイの中で芦辺拓は「本格冬の時代」
>といういう言葉は何処にも使ってはおりません。

ごめんなさい。前に言った理由で「件の総解説目録」を購入してないので
記憶でものをいっております。駄目じゃん。でも「本格冬の時代」という
言い方はどこかでしていたでしょう? 文意は間違ってないと思うのですが。


>文庫で『九尾の猫』が出版されてしまったのはどういう訳でしょう?

再評価をしようとしたためでしょう。違います?
その器としてポケミスよりも文庫の方がいいと、早川書房が判断したのでしょう。
そこまでははっきりとはわかりません。それに早川書房の営業方針に全面的に
賛成しているわけでもありません。
で、そこそこ商売になれば継続して版を重ねるでしょうが、駄目ならまた絶版です。
クイーンはよかったけど、カーはやっぱりそれほどは売れないとしか、たびたび絶
版になることの、論理的矛盾が生じない理由が思い浮かびません。

わたしが言いたいのは、本が絶版になったり再刊されたりするのは、「陰謀」では
ない、ということにすぎません。
それと「ある種の本格」だけを特別視する考えが嫌なのです。

またしても長いです。すいません。
忙しいのに相手して下さって感謝しています。

1879. 2003年10月26日 04時12分25秒  投稿:みわっち。 
え〜っと。あまりにも仕事に追われていたのでなかなか登場できませんでした、みわっち。です。

『伯林−一八八八』は10月21日に読み終わり、その後『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を読んでいます。表題エッセイは読み終わり今は「私の推理小説作法」の途中です。

>森下祐行さま

 …てな訳でレスが遅くなっておりますがどうかご容赦ください。と、まあ、これだけでまた潜行してしまうのも如何なものかと思うので、簡易バージョンのレスを。

< たびたびの反論をお許し下さい。わたしは議論好き人間ですので、こう
<いうことが楽しくて仕方がないのです。(^_^) 

 いえいえ。私も実は議論好きな人間でございまして(^^)。非常に楽しいのですが、いかんせんなかなか時間が作れません(爆)。できれば長い目で見ていただけると助かります。

<一般的にわれわれがイメージする「黄金時代の本格」というの
<は、都筑道夫の言う「昨日の本格」ということばに代表されるものとし
<て、わたしは発言しています。

 ここでおっしゃっている「われわれ」とは一体どんな人達を指しているのでしょう?その前段に「一般的に」という言葉がかかっていますが、その「われわれ」はミステリ好きな人間の中で過半数以上を占めていらっしゃるのでしょうか?

 揚げ足取り的なレスで申し訳ないのですが、この部分はもし意識的におっしゃっているとすれば非常に巧妙な「すり替え」が行われている気がするものですから。

で、簡易バージョンのエレスの為、中略です。

< つまり海外ミステリ・ファンの一部には「本格は古くさいもの」という
<風潮はあったのですが、日本での創作はあいかわらず「古い本格」が大量
<に書かれていたのです。芦辺氏の言う「本格冬の時代」というのは、どこ
<をいうのでしょうか?

 じゃあ、私も都筑道夫の言葉を借りて応えましょう。

 これはエッセイ「黄色い部屋はいかに改装されたか?」の結論の直前部分ですが、

 「考えてみると、戦前は怪奇小説、異常小説が主流で、戦後にやっと本格が主流になったと思ったら、犯罪小説に追われてしまったのですから、日本の推理小説はあわれなものです。(P137)」

 と、あります。この言葉こそ非常に端的に、芦辺氏の言う(と、森下さまがおっしゃる)「本格冬の時代」があった、証拠に他ならないのではないでしょうか?

 ちなみに、件の総解説目録のエッセイの中で芦辺拓は「本格冬の時代」といういう言葉は何処にも使ってはおりません。

< 芦辺氏はクイーンの『九尾の猫』が日本で評価されてないのは、本が絶
<版だったからに過ぎない、と奇妙な論理を持ち出していますが、人気があ
<れば本は出ています。

 ってことは文庫で『九尾の猫』が出版されてしまったのはどういう訳でしょう?

 ポケミスでは人気がなくて絶版にしたというのに、人気がない(ってことは売れない、ということでしょうか?)作品をワザワザリスク丸抱え、赤字覚悟で文庫で出版してしまった、その理由は?

 何か別な作品の出版で大もうけして、その節税対策として利益をワザと減らす為に、人気がない本を出したのでしょうか?

 私は「そうではない」と思うのですが、森下さまの言葉どおりだとすると、私には節税対策しか論理的矛盾が生じない理由が思い浮かばないのです。如何なものでしょう?
1878. 2003年10月18日 16時12分19秒  投稿:森下祐行 
みわっち。さま

 たびたびの反論をお許し下さい。わたしは議論好き人間ですので、こう
いうことが楽しくて仕方がないのです。(^_^) 悪意はないつもりですか
ら、かんべんしてください。

 「古い本格」とわたしがいったのは、御指摘の通り「黄金時代そのまま
の本格」という意味にとっていただいてさしつかえありません。それはま
た、ないとーさんの御指摘のとおり、「謎解き重視のあまりに人間性が歪
められたりして不自然な本格」という意味でもあります。
 もちろん、いわゆる黄金時代にも、あたらしいタイプの本格もあったで
しょうが、一般的にわれわれがイメージする「黄金時代の本格」というの
は、都筑道夫の言う「昨日の本格」ということばに代表されるものとし
て、わたしは発言しています。わたしが「古い本格」といったとき、頭の
中にはあきらかに都筑道夫の『黄色い部屋――』のことがありました。

 都筑道夫は同書の中でモダーン・ディテクティヴ・ストーリイをこう説
明しています。

「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイを、あっさり新しい本格と解釈
されると、ちょっと困るのです。古い皮ぶくろに新しい酒を盛る、という
言葉がありますけれど、パズラーの場合は盛った新しい酒が、古い皮ぶく
ろを損ねてしまうことがある。しばしば、それがあるのです。
 だから、くどくなっても、伝統の道すじをたどった上で、現代人を満足
させうる本格、と解釈していただきたい。考えてみれば、現代人という表
現も大ざっぱで、なかにはアクションもスリラーも大きらい、複雑な怪事
件が解決されれば満足で、必然性なんてうるさいことはいわないよ、と
おっしゃる方もあるでしょう。それはまあ、遠慮なく論理の推理小説が好
きなんじゃなくて、人形芝居ふうの犯罪メロドラマが好きな方なんだ、と
断定させていただきます。(P70-71)」

 わたしは都筑のいうモダーン・ディテクティヴ・ストーリイが好きな人
間でしたから、綾辻行人らの作品は「人形芝居ふうの犯罪メロドラマ」と
しか思えませんでした。したがって、わたしは初期新本格の作家たちの作
品を「古くさい」「人間が描けてない」と思いました。

 「人間が描けてない」というと拒否反応を示す人が多いようですが、わ
たしの言っているのは文学的なものではありません。娯楽小説には娯楽小
説の人間の描き方があるべきで、たとえばクリスティは類型的な人間しか
描きませんが、類型的な人間がとても魅力的です。反対に、人間を描こう
と努力したらしい後期クイーンの作品の登場人物にはまるで魅力を感じれ
れません。(これはまあ、わたしだけの感想ですが)

>人間性を何処までも重視し追求していけば、それはもうミステリである必
>要さえなくなっていくのではないかと。

 と、みわっち。さんはおっしゃいましたが、わたしはなにも人間性を追
求しろといっているわけではないのです。「人間性を無視している」とい
うのは、常識で考えて普通の人はこんな行動をとらないだろう、という程
度の感想です。

 ミステリというのは、常識はずれの謎が、合理的に(=論理的に)解決
される過程を楽しむものと思っていますから、登場人物の非常識な行動を
もとにして解決されると、非常に不満が残ります。狂人の犯行と思われた
ものが、やっぱり(別種の)狂人の犯行だった、みたいな。(もちろん、
チェスタトンや泡坂妻夫のように、狂人の論理をちゃんと描いてくれれば
いいのです。でもそれは論理のいきつくさきの狂気であって、論理無視の
意味不明の行動をとる「狂人」であっては、本格ミステリとはいえません
ですよね)

 ところで、都筑の『黄色い部屋――』が書かれたのは1970年から71年に
かけてです。島田荘司が登場(1981年)する十年前、綾辻行人のデヴュー
(1987年)より16〜17年前です。

 この当時の日本の本格推理小説の状況について、『黄色い部屋――』の
中で都筑はこう述べています。

「最近の日本の本格推理小説は、黄金時代そのままといったものが多いの
で――(P35)」

「だから、アリバイつくりや密室構成にばかり、うき身をやつして、必然
性もなければ、推理のおもしろさもない作品が、横行するんじゃないか、
と思います。(中略)
 最近に発表された日本の新進作家諸氏のパズラー、森村誠一の「高層の
死角」「新幹線殺人事件」、大谷羊太郎の「殺意の演奏」、斎藤栄の「奥
の細道殺人事件」なぞに、マニアのひとりとしての私を含めた海外推理
ファンが感じる不満も、そういった点にあるようです。(中略)
 どうせ絵空事のお話なんだから、トリックさえ奇抜ならいいじゃない
か、というのでは、逆行でしかありません。(P52-53)」

「EQMM日本語版が発足したころ(引用者注:1956年)、ファンの関心は本
格ものに集中していて、平家にあらざれば人にあらず、といったような状
況でした。(中略)
 (その後、翻訳で)さまざまな傾向の短篇群が受入れられ、日本も本格
一辺倒ではなくなりました。それどころか、本格は古くさいもの、という
考えかたさえ、ひろがってきたようです。
 いっぽう日本がわの創作も、風俗小説化が英米以上の急ピッチで進ん
で、その反動として、また本格物に光があてられるようになりました。け
れども、私の見るところでは、どうも清張以前に逆もどりしただけの気が
して、しかたがない。(P69-70)」

 これが1970年頃の状況です。

 つまり海外ミステリ・ファンの一部には「本格は古くさいもの」という
風潮はあったのですが、日本での創作はあいかわらず「古い本格」が大量
に書かれていたのです。芦辺氏の言う「本格冬の時代」というのは、どこ
をいうのでしょうか?

 もっとも、ここで都筑があげた作品は、すべて名探偵が出てきません
し、登場人物はほとんど企業人です。孤島や館はいっさい出てきません。

 でもね、孤島ものや館ものが本格のコードって、新本格が出てくるま
で、あまり言われてなかったですよ。たいいち、新本格以前は、日本だけ
でなく海外を含めても、孤島ものってジャンルが構成できるほど作例がな
いでしょう?(52号室でアシェさんに言われて読んだ『十角館の殺人』の
鮎川哲也による文庫解説でも、作例の貧弱さが目に付きませんか?)

 だから、芦辺氏が読みたかったタイプの本格って、本格のなかでもすご
い狭いジャンルのものとしか思えません。

>冷やし中華が消えたのは誰の陰謀でもない。私は消えて行ったメニューに
>も愛着はあるが、新しいメニューも増えたんだから文句をいわず我慢すべ
>きだ」といっているような(爆)。

 冷やし中華が冬にメニューから消えるのはユダヤの陰謀というのは公然
の事実ですが、古い作品が消えていくのは単に人気がなくなったからで
す。
 芦辺氏はクイーンの『九尾の猫』が日本で評価されてないのは、本が絶
版だったからに過ぎない、と奇妙な論理を持ち出していますが、人気があ
れば本は出ています。現に『Yの悲劇』や国名シリーズはいつでも手に入
ります。反対にアメリカではレーン四部作や国名シリーズがアンケートに
登場することは、ここ20年以上、ありません。

 あまりにも長くなりました。申し訳ありませんです。

[NAGAYA v3.13/N90201]