黒猫荘
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みわっち。の『それさえも恐らくは平穏な日々』
オーナー:みわっち。
まだまだ、勉強中ですが、とりあえず顔を出すようにしようかな、と。
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1893. 2003年11月13日 12時28分12秒
投稿:森下祐行
うううう、反論しない、といながら、どうしてもこれだけは言っておきたいですうう。
>こんな事を言わざるを得ないのも、活字に影響されやすい、極端から極端に走る人が
>きっといるんじゃあないかな、と思うからです。
>なぜ自分の頭でしっかりと考え、活字になっている文章でも歴史的な部分については
>鵜呑みにせず「本当にそうだったのかな?」と思うことができないのか。
わたしのいいたいことは、みわっち。さんの書かれた、まさにこのことです。
わたしの文章がそうでない、というのなら、未熟を恥じるしかないですが、
「本格冬の時代」なんかなかった、という意見もあるのだということは、
ぜひ心にとめておいてください。そして、本格を書くことができなかった
という時代はなかった、というのは、実際に本格が書かれていた事実をみれば
否定するしかないと思います。
すいません。またよろしく。
1892. 2003年11月13日 09時24分04秒
投稿:みわっち。
11月12日『Mr.サイレント4心象世界の幸せな景色』読了しました、みわっち。です。
それにしても「電子盗作事件」の「愛知一本行く」はちょっと強引だよなあ、と思います(苦笑)。中日→愛知っていう想像はなかなかできないのではないかと。昔、北海道から「名古屋県名古屋市」という宛名書きの郵便物が届いた事もあり、その時愛知県が如何にメジャーじゃないか思い知らされました。
「1890」の自分の書き込み、改めて見なおすと誤字だらけ。うへぇ、すいません、すいません(汗)。
では、あらためてレスをさせていただきます。まずは「1882」カキコから。
>花井圭太さま
<どちらが正しいという結論が出るようなはなしではなく、ミステリに対する趣味の違いが
<結局は底に有るような気がしますが。。
<だもんで、華やかにやっていただければ、ノーコンテスト(?)で十分ぢゃないでしょうか。
ああっ。それは禁断のお言葉。まあ、ぶっちゃけてしまえばそうなんですよね。まあ、どこまでエンターテイメント性(他人の目)を意識しながら面白く論を戦わす事ができるか、ってのもひとつのキモみたいなところがありますからね〜。
<しかし、いったいいつから森村誠一が社会派にイメージされるようになったのだ。
この前古本屋へ行ったとき見かけた森村誠一の『魔痕』(徳間書店)の帯には「社会派の雄」みたいなアオリ文句がありました。出版社自体が2002年2月に出したこの本でそういう帯の文句を採用しているということは、いつからそういうイメージが定着したのかはともかく、現在はやはり森村誠一=社会派という捉え方でいいのではないかと。
あとやはり『悪魔の飽食』『人間の証明』『高層の死角』『腐食の構造』なんていう作品群のタイトルその他からどうしても「社会派」なイメージがついて回るのではないかと推測します。
<日本に限ってだろうか、
<みんな名探偵を出さないんだよね、これが。あの頃は。
なるほど〜。これは都筑が『黄色い部屋はいかに改装されたか?』でいっている
「いま日本の推理小説は、手近なところへ戻りかけているようになりません。しかも、犯罪小説の衣装を着たままで。
平凡人が事件を起こし、平凡人が解決する、そのくせ事件は普遍を忘れた特殊犯罪、ということです。その結果は、犯人のがわを見れば、なんでこんな平凡人の集まりを向うにまわして、頭のなかでのひとり相撲をしたあげく、ひと殺しの大仕事をしたんだろう、ばかばかしい、という思いが先に立ち、探偵役の人物を見れば、なんでこんあやつにこれだけの謎がとけたんだろう、信じられない、ということになる。」(P138)
部分に当てはまりそうですね(^^)。
★★★こんな感じで、次は「1883」書き込みへのレスです。
>森下祐行さま
<「本格ミステリ冬の時代」はあったのか
<という小文を、上記のサイトにアップしました。
読みました、読みました。簡単に感想を言わせていただければ、Aという本にこう書いてある、だから実際もそうだったんだ、という歴史観は非常に危険ではないかな、と。何故ならば、Aという本に書いてあることが、間違いなく正しいという客観的な証明が為されていないからです。
加えて言えば(これも以前に言いましたが)、一度公共性の高い媒体に活字として発表されてしまった文章は、受け取る個人個人にどのように解釈されても、仕方がない(受け取り手は真意を汲み取る自由もあれば、誤解してしまう自由もある)ってことです。
またα(今回の場合だと「多くの本格ミステリ作家」ということになるでしょうか)という結果から(その結果を表す別の言葉として)Zと言うのは不適切である(今回の場合は「本格冬の時代」ですね)、という理屈も成り立ちません。なぜならZ(本格冬の時代)でなければα(多くの本格ミステリ作家)という結果ではなかったかも(さらにもっと多くの作家やもっと多くの本格ミステリが生まれていたかも)しれません。
その辺の考証をおざなりにしていては、読ませていただきましたあの文章の妥当性は「かなり低い」と言わざるを得ない、と私個人は考えます。
こんな事を言わざるを得ないのも、活字に影響されやすい、極端から極端に走る人がきっといるんじゃあないかな、と思うからです。なぜなら私は「新本格誕生以前は本格ミステリは皆無だった」的な意見にも、「古い本格はもういい、これからは新しい本格が必要」的な意見にも、諸手を挙げて賛成はできないからです。
なぜ自分の頭でしっかりと考え、活字になっている文章でも歴史的な部分については鵜呑みにせず「本当にそうだったのかな?」と思うことができないのか。
★★その辺を語るのはまたこの次の機会に、ということで。今日はこれまで。★★
1891. 2003年11月12日 23時04分19秒
投稿:森下祐行
みわっち。さま
詳細なご返事、うれしいのですが、これにさらに反論しようと
すると、わたしのほうも、かなりな長文になります。
みわっち。さんの掲示板で、あまりこういう事ばかりして
いいのか、いささか迷っています。
それに、わたし自身はこういうロンソーが好きなのですが、
みわっち。さんやこの掲示板をご覧になる方がみんなそうと
は限らない。掲示板の雰囲気がかわって、「掲示板あらし」
になるのも、気がとがめます。
もし、再反論するなら、みわっち。さんから一言、
許可をいただいてからにしようか、と思います。
(ただしかなり長文になりそうです)
みわっち。さんとは、またお会いしたときに、楽しいミステリ話を
したいと思っています。とりあえず、今日はこれで。
1890. 2003年11月12日 09時25分57秒
投稿:みわっち。
11月11日『くらやみ砂絵』読了しました、みわっち。です。
第三席の「やれ突けそれ突け」の枕の部分、私には「記ちさんしぬ」としか読めないのが心残り。
>森下祐行さま
結局なんだかんだで1ヶ月近く過ぎてレスにかかっていたりしますが、ご容赦ください。
それでは「1878」書き込みのレスからです。
< 都筑道夫は同書の中でモダーン・ディテクティヴ・ストーリイをこう説
<明しています。
<
<「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイを、あっさり新しい本格と解釈
<されると、ちょっと困るのです。古い皮ぶくろに新しい酒を盛る、という
<言葉がありますけれど、パズラーの場合は盛った新しい酒が、古い皮ぶく
<ろを損ねてしまうことがある。しばしば、それがあるのです。
< だから、くどくなっても、伝統の道すじをたどった上で、現代人を満足
<させうる本格、と解釈していただきたい。考えてみれば、現代人という表
<現も大ざっぱで、なかにはアクションもスリラーも大きらい、複雑な怪事
<件が解決されれば満足で、必然性なんてうるさいことはいわないよ、と
<おっしゃる方もあるでしょう。それはまあ、遠慮なく論理の推理小説が好
<きなんじゃなくて、人形芝居ふうの犯罪メロドラマが好きな方なんだ、と
<断定させていただきます。(P70-71)」
<
<わたしは都筑のいうモダーン・ディテクティヴ・ストーリイが好きな人
<間でしたから、綾辻行人らの作品は「人形芝居ふうの犯罪メロドラマ」と
<しか思えませんでした。したがって、わたしは初期新本格の作家たちの作
<品を「古くさい」「人間が描けてない」と思いました。
<
< 「人間が描けてない」というと拒否反応を示す人が多いようですが、わ
<たしの言っているのは文学的なものではありません。娯楽小説には娯楽小
<説の人間の描き方があるべきで、たとえばクリスティは類型的な人間しか
<描きませんが、類型的な人間がとても魅力的です。反対に、人間を描こう
<と努力したらしい後期クイーンの作品の登場人物にはまるで魅力を感じれ
<れません。(これはまあ、わたしだけの感想ですが)
綾辻行人の作品の根底にあるのは、同じ都筑道夫の『黄色い部屋は如何に改装されたか?』の言葉で言うところの「登場人物の(つまりは読者の)錯覚を、作者がたくみに利用して、あとでアッといわせるところを、私は「論理のアクロバット」と呼んでいます」(P62)この「論理のアクロバット」そのものではないかなあ、と思うのです。
綾辻作品っていうのは乱暴を承知で言えば、その全ては読者をアッといわせるために組み立てられた文章であり、その為に不必要なものはぎりぎりまで削り取り、最低限の必然性から成り立っていると思います。それをして「人間味が足りない」という批判をするのはパズラーに対する「単なるパズルを何も小説のかたちに書くことはない」という否定論同様、ちょっと的外れかなあとも思うのです。
また登場人物の人間性を俎上にあげるとしても、綾辻作品のある作品の犯行動機は「愛するものを失ったその復讐」だったりするわけで、この犯行動機は類型的といえば非常に類型的でしょうが、「愛するものを失ったその復讐」というテーマは(私の勝手な想像ですが)かなり普遍性の高いものではないかと思うのです。それこそハードボイルド作品にもありそうなテーマではないでしょうか。
綾辻以外の初期新本格作品に登場する名探偵たちを考えても、非常に個性的なメンバーばかりであり、決して単なる推理機会などではないそれぞれの個性(キャラクター)ともいうべきものを私は読んでいて感じました。例えば法月綸太郎と火村助教授、メルカトル鮎、この3人の名探偵を比べてそれぞれのキャラクターの違いが感じられない、同じに見える、というのであれば、それは読み手側の読解能力に問題があるのではないか、とも思います。
< もっとも、ここで都筑があげた作品は、すべて名探偵が出てきません
<し、登場人物はほとんど企業人です。孤島や館はいっさい出てきません。
<
< でもね、孤島ものや館ものが本格のコードって、新本格が出てくるま
<で、あまり言われてなかったですよ。たいいち、新本格以前は、日本だけ
<でなく海外を含めても、孤島ものってジャンルが構成できるほど作例がな
<いでしょう?(52号室でアシェさんに言われて読んだ『十角館の殺人』の
<鮎川哲也による文庫解説でも、作例の貧弱さが目に付きませんか?)
<
<だから、芦辺氏が読みたかったタイプの本格って、本格のなかでもすご
<い狭いジャンルのものとしか思えません。
ここでも微妙な(巧妙な)すり替えが行われているような気がするんですよね。芦辺拓がいつどこで「孤島もの、館ものこそ私が読みたかった『本格』なんだ!」という趣旨の発言をしているのでしょうか?少なくとも件の総解説目録のエッセイの中で芦辺拓はそんな発現は一言もしておりません。
本格のコード云々の話と芦辺拓が読みたかったタイプの話は全然別の話であって「だから」で繋がってしまうような話じゃない、と私は思うのですが。
それを踏まえた上で、芦部拓はどんな本格が読みたかったのかを想像するには、それこそ件の総解説目録のエッセイを読めば分かる事なんじゃないかなあ、と考えます。また、そのエッセイには何時が読めなかった時期にあたるのかって事も大雑把ながらわかるような年代の表記も「手元に千九七三年九月当時の「早川書房出版目録」があるのですが、」(『ハヤカワ・ミステリ総解説目録』P21上段)、「虎頭史夫さんが、HMM七五年六月号に投稿した漫画「ジョン・ディクスン・カーを読みそこなった男」は、」(同P21下段)と、ちゃんとあります。じゃあ、一体何時から何時までの事なんだ!厳密に区切れ!、といわれてしまうと困りますが、私と同レヴェルの読解力の持ち主なら「ははあ、その当時は海外ミステリの本格ものはなかなか読むのに困難だったんだな」という程度の理解はできるはずです。
ふう、ちょっとまとまりに欠けますが、こんなところでしょうか。そして次は「1880」書き込みのレスの補遺です。
<>文庫で『九尾の猫』が出版されてしまったのはどういう訳でしょう?
<
<再評価をしようとしたためでしょう。違います?
<その器としてポケミスよりも文庫の方がいいと、早川書房が判断したのでしょう。
<そこまでははっきりとはわかりません。それに早川書房の営業方針に全面的に
<賛成しているわけでもありません。
<で、そこそこ商売になれば継続して版を重ねるでしょうが、駄目ならまた絶版です。
<クイーンはよかったけど、カーはやっぱりそれほどは売れないとしか、たびたび絶
<版になることの、論理的矛盾が生じない理由が思い浮かびません。
<
<わたしが言いたいのは、本が絶版になったり再刊されたりするのは、「陰謀」では
<ない、ということにすぎません。
<それと「ある種の本格」だけを特別視する考えが嫌なのです。
ただ単純に「再評価しよう!」てことだけでリスク丸抱えで新しい形態(今回の場合は文庫)で出版する事は有り得ないのではないか、と思います。売れないから絶版になったものであればなおさらではないでしょうか。出版業は文化事業的側面もあるとはいえ、損益分岐点はかならず存在します。「絶版」という選択肢を一度とったということは、その本は損益分岐点に達しなかったということであり、全くの赤字ってことになるんですよね。
赤字の本を(文化的側面から)再評価しようとするのであれば、まず同じ版形ではないでしょうか。それを、ポケミスなら再販しても駄目だろうけれど、文庫ならそこそこ商売になるんじゃないか、という判断はちょっと不可解な謎です。
加えて言えば以前にも言ったかもしれませんが、海外のミステリは「翻訳権独占」状態であれば、その期間中は他の出版社はその作品を出したくても出せません。当たり前の事ですね。その当たり前の事が問題なんです。翻訳権を独占してしまっている為、その出版社が該当作品を絶版にしてしまったのなら、読者がその街頭作品を読むことは非常に困難になります。
じゃあ、翻訳権を独占して出版しては、次から次へとその本たちを絶版にしていけば、なまなかなことではそれらの本を読むことはできなくなります。絶版にする事は商業上しょうがないとしても、その度に独占していた翻訳権を手放す事だってできたはずです。もし絶版にした作品の翻訳権を手放していれば、いろんな出版社がそれらの作品を出版したかもしれません。
そうすれば「芦辺拓が読みたいときに読めなかった本格」もその当時から「ちょっとミステリに興味を持った人も気軽に読める本格」になったかもしれないのです。それを絶版にするは翻訳権を手放さないでは、読者としてはほとほと困ってしまいます。
芦辺拓が件のエッセイで「陰謀」という言葉を使い茶化しているのもその点ではないかと推測いたします。
★★★え〜っと、今回はとりあえずこの辺で。遅くなっても必ずレスはいたしますので、美奈さんご容赦ください(ぺこり)。★★★
[NAGAYA v3.13/N90201]