黒猫荘
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みわっち。の『それさえも恐らくは平穏な日々』
オーナー:みわっち。

まだまだ、勉強中ですが、とりあえず顔を出すようにしようかな、と。
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1915. 2003年12月09日 12時33分25秒  投稿:森下祐行 
砂時計さんに加えて。

わたしの使用法も、砂時計さんとほとんど同じだと思います。

ちょっと加えると、リアリティ=真実味、アクチュアリティ=現実味というイメージ
で用いています。たとえばファンタジーにもその作品のなかのリアリティは必要だが
アクチュアリティはなくていい、というような。

小説を読んで、きちんと作品の中で自己完結的にその世界が描ききられていれば、
「リアリティがある」というふうに、私は発言しています。反対に、この現実の世界
とのかかわりから小説の「リアルさ」を演出することをアクチュアリティによりかかって
いる、というふうに言うこともある。どちらかというと否定的な意味合いでもちいられる
リアリズム(クソ・リアリズム)に近いでしょうか。もっとも、アクチュアリティ自体に
は否定的な意味合いはありません。

紅さんの意見とは逆のかんじもしますので、ますます混乱してしまいますか?


1914. 2003年12月08日 15時05分30秒  投稿:砂時計 
>みわっち。さま

>アクチュアリティ

あああ、悩ませてしまったようですみません。
自分は、「現実性」に近いニュアンスで使っています。
小説についてこの言葉が使われる場合に(「作中のリアリティ」と区別して)そのような意味で使用した文章を昔から見かけるもので、割と一般的な言葉という認識がありました(『黄色い部屋はいかに改装されたか?』の中にも「リアリティは必要だがアクチュアリティは必要ではない」という内容の文章があったかと思います)。
自分の使い方が間違っているとしたら申し訳ないんですが、いずれにしろ、あの書きこみの中で自分は「作中のリアリティ」とは別の「現実性」の意味で使っています。
あるいは「リアリズム」という言葉のほうがニュアンスは伝わり易いかもしれません。

竹本健治のゲーム三部作が創元推理文庫に入るというニュースに喜んでいる砂時計でした。
1913. 2003年12月08日 01時36分37秒  投稿:みわっち。 
実は「アクチュアリティ」って未だにどんな意味なのかよく理解できていません、みわっち。です。

ネットで調べても「対象化され個別化された存在的自己(リアリティ)と、絶えず進行形として自己を成立せしめている対象化以前の存在論的自己(アクチュアリティ)」とか「リアルは対自的、アクチュアルは即自的」とかが出てくるだけで、よくわからんです。

「我思う故に我あり」の「我思う」がアクチュアリティで、「我あり」がリアリティなのかしら、とか「半分死んだ猫の状態」がアクチュアリティで、「死んでいるのか生きているのか確定した状態」がリアリティなのかしら、等とチャットでぼやいていたら32号室の紅さまから大きなサジェスチョンをいただきました。

�〆酩覆�作品内部で「現実的」であるだけなのがアクチュアリティ、「実際の現実」と「作品中の現実っぽいもの」比べてしまうとリアリティ。

�∈酩米睇瑤函じ充�(外部)を対立させてしまうと,リアリティ.外部の存在がない状態がアクチュアリティ。

こんな理解でいきたいと思います。と、長めの予告編(?)を入れておきます。

★★★では1899番カキコへのレスを。

>SAMANAさま

<佐野洋VS都筑道夫の「名探偵論争」は、確かに佐野洋の
<エッセイ集となる『推理日記』におさめられています。
<手持ちの本でいえば、『推理日記2』(講談社文庫)の
<11〜14にあたります。

 ありがとうございます。ぺこり。とりあえず文庫を気長に探していきたいと思います。もしかして佐野洋の著作を探すってのは、私の人生の中で初めての体験かもしれません。う〜ん、片寄ってるなあ(爆)。

 きっとどちらのファンも読みたいものなんだから、都筑側の著作にも収められてもいいのになぁ……(ボソッ)。

< 光文社文庫の「都筑道夫コレクション」11月新刊の『魔界
<風雲録』。併作の短編が気になったので、やっぱり買っちゃい
<ました(笑)。

 私もしっかり買っています。あの収録作は文庫初ではないでしょうか。とても楽しみです。しかしながら、SAMANAさんのように「購入の順番に読む」なんていうキメはないのですが、それでも『都筑道夫コレクション』シリーズを読むのは大分先のことになりそうです(苦笑)。

 ハヤカワのアガサ・クリスティー文庫みたいに、都筑道夫文庫みたいなのが出たら絶対全巻買うんですけれど(爆)。読み終わるのがいつになるかは判りませんが(爆×2)。

★★★では1900番カキコへのレスです〜。

>ないとーさま

<ポケミスが何点か現役です。なぜか、ブラウンはまとめて買う人が多いような。
<「我が青春のブラウン」ということなんでしょうか^^

 会社の近くの古本屋でもポケミスのブラウンはたくさんあります。私の個人的な感覚ではポケミスのブラウンって、無い時は全然ないのですが、出まわる時は結構まとめて何作か古本屋に出まわるようなイメージがあります(^^)。

★★★続いて、1901番カキコへのレスです。

>森下祐行さま

<C・ブラウンは読むと癖になるので、まとめ買いも分かる気がします。

 そうなんですか〜。実は1〜2作持っているのですが、読むと癖になってハマってしまいますかね。う〜ん。そうやって言われてしまうと、読んでみたいような。でも、読むのが怖いような、複雑な心境です(^^)。

★★★と、まあ、今日はこの辺で。
1912. 2003年12月07日 15時42分36秒  投稿:みわっち。 
12月7日『黒の貴婦人』読了、『おさかな棺』読み始め、みわっち。です。

★★★では1898番カキコのレスから

>森下祐行さま

<この部分は、一般的なミステリファンにとっては、クリスティだろうが
<カーだろうがカーター・ブラウンだろうが、代表作が読めれば、それでい
<いんじゃないの、という意味で言ったつもりです。 

 そうでしたか。いやあ、この一事をもってしてもなかなか人の発言の意を汲み取るというのはいかに難しいことかよくわかります。少なくとも私にはそのようには受け取る事ができませんでした。失礼いたしました。

<あえて全作読もうとするのは
<酔狂な人間のすることで、そういう輩は青春を棒にふっても当然です。
<わたしの文章は、それを誰かのせいにしてないでしょう?
<そこは認めて下さいな。

 なるほど。まあ、全作読むことに比重を置かずとも、出版社が絶版にしてしまっている本を読もうとするのは酔狂な人間のする事だ、ということですね?

 時代、時代で出版社がどんな作品を絶版にしているのかは違うにせよ、その流れに逆らって敢えて絶版の本を読もうとするのは苦労して当たり前だよ、と。

 そして絶版の本を読もうとしても読めないのは当たり前であって、その作品を絶版にした出版社へ文句のひとつも言いたくなる、のは即ち「誰かのせいにしている」のであって、それはいけないことだ、という理解の仕方でよろしかったでしょうか?

 う〜ん。なんかズレがあるというか微妙に噛み合っていない気がいたします。

 あのエッセイにおいても芦辺拓が問題にしているのは、どうやら海外の本格(森下さまの言葉で言えば古い本格)ミステリ作品の事であり、なかでも具体的に作家名を挙げればカー、クリスティ、クイーンという、ちょっとミステリ読みの世界に足を踏み入れれば(例えば「新本格」からミステリを読み出したという人であっても)実際に作品を読んだ事はなくても名前くらいは耳にした事があるのではないか(と私は思うのですが)超メジャーな人達です。

 で、私が更に突っ込んで問題を表面化したいのは、それくらいの人達であれば絶版にしたのなら翻訳権さえ手放せば、買い手が何処の出版社からも挙がらないということはなかったのではないか、ならば、「読みたくても読めない」ということは、(当時の「古い本格派もういいよ」という流れを差し引いても)なかったのではないか、ってことなんですよね。

 これは商業作家の立場ではいくら心に思っていても明文化できない範疇ではないか、と思うのです。商業作家という立場上、そこまで踏み込んでハッキリといえないが、ギリギリの部分でブラックユーモア的オブラートに包んだもののいい方をすれば、芦辺拓のような表現にならざるを得ないのではないか、と思うのですが、その辺は如何なものでしょう?

 その辺りを明確にしないまま、一方で「営業方針に全面的に賛成しているわけではありません」といいながら、一方では「陰謀史観」「誰かのせいにしている」というのは、それはちょっとないよなあ、と思ってしまうのです。

 で。それに微妙にリンクしている部分なのですが、芦辺拓は件のエッセイで、ポケミス600番エド・マクベインの『殺意の楔』に付された編集後記を例に出して、(芦辺拓のいうところの)本格ミステリが如何に迫害されていたのかの傍証としています。

 その部分が実際はどういう文脈で語られていたのか、自分の目で確認するまではなんともいえないなあ、というのが私のスタンスだったのですが、これが文庫なら苦もなく本屋で見かけることができるのですが、ポケミスとなるとなかなか見つける事ができません。

 そこで、仮定の上で話を進めさせていただきますが、このポケミス600番『殺意の楔』の編集後記の芦辺拓が件のエッセイで抜き出した部分が、その全文を読んでも芦辺拓が部分的に抜き出したような意図で語られているなら、やはり「本格ミステリは迫害されていた」と認めるしかない、と考えます。

 この部分、実際に自分の目で確かめないと、実は芦辺拓が恣意的に扇情的な部分だけを抜き出しているのか、そうではないのか、の判断がつかないので今までは言及しなかったのですが、判断を下す決定的なところでもあるので、そろそろ指摘だけはしておこうと思い、言及してみました。

 てな訳で私は今、ポケミス600番『殺意の楔』エド・マクベインを探しております。

 どこそこの古本屋には置いてあるよ、とか、既に持っている方で「貸してやってもいい」とか「譲ってやってもいい」とおっしゃる奇特な方がおられましたら、ぜひぜひご連絡くださいまし。よろしくお願いいたします。ぺこり。

[NAGAYA v3.13/N90201]