黒猫荘
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みわっち。の『それさえも恐らくは平穏な日々』
オーナー:みわっち。

まだまだ、勉強中ですが、とりあえず顔を出すようにしようかな、と。
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1932. 2004年02月01日 12時35分25秒  投稿:みわっち。 
積読本はたくさんあるんですが「次に何を読むか」迷い中の、みわっち。です。

2月1日

○『日本国大崩壊』明石散人著 講談社文庫刊

 IN★POCKET連載の時事ネタエッセイ(?)。こういうスタイルって一番難しいと思います。なかなか「ちょっと前」の事って覚えているようで忘れているもので、今読んでみて面白かったです。

★★★では、1921番カキコへのレスです。

>えりさま

<また新年になりましたー。お知り合いになって何年目でしょうね?
<今年もよろしくお願いしますね。去年はなかなか会う機会も無かったですし。残念。

 そうですねー。またひとつ新しい年を迎えまして。今年もよろしくです。ぺこり。

 はじめてオフラインで出っくわしたのは「大会議室」1周年徹カラオフではなかったかと(^^)。

 するってえと、もう随分経つようですが今年5の月で丸4年ですね。あ、いや、30代の4年と20代の4年では時間のボリュームが随分違うか。あはは。

 そうですねー。結局去年は一度もお会いせずに過ぎたんじゃないでしょうか。最期にお会いしたのは一昨年の夏ですかね?むう……。

 私はすっかりいい年のオジサンですが、また機会があれば遊んでやってくださいまし。

<お正月、西澤氏の『依存』を読んでいます。

 ああ、面白いですよ。私の面白がり方は(たぶん)片寄っているので、普通のひととはポイントがずれているかもしれませんけれど(汗)。

★★★1922番カキコへのレスです。

>室長飛鳥さま

<ご無沙汰しております。

 私の方こそご無沙汰いたしております。昨年夏の浜松オフ以後余り顔もだしませんで、失礼致しました。ぺこり。

<廉価版ミステリ

 送りましたメールにも書きましたが、私は本の値段はもっと高くてもいい、と思っている人間ですから。

 例えば、最近の動向は知らないのですが、音楽CDに比べて本の安い事安い事。アルバムで3000円、シングルで1000円、これと同じボリュームの本を考えてください。3000円の本って、結構分厚いですよね。具体的な書名を出すと本文779ページの『後巷説百物語』でも2000円ですよ。まあ、本の場合一概に分厚さ=金額が高いという訳じゃあありませんけれど。でもイカに音楽CDなどと比べて本が安い設定になっているか判りますよね。

 もっともその音楽CDも以前と比べてなかなか売れないと聞いてますから単純に本と比べるのも難しいのでしょうが、何故だか私の中では音楽CDと本っていうのは比較対象になるんですよねー。

 また、これもメールにも書きましたが、現実に古本屋(新古書店?)にいけば100円からの値段で買えてしまうわけですから、あまり意味がないかな、と思うのです。

 あと島田荘司も『本格ミステリー館』だったか『本格ミステリー宣言』だったかで80年代半ばの頃の話として「今売れる本というのは値段が700円程度で流し読みができて毎月出る雑誌のような本(意訳)」てな指摘を既にしてまして、これはノベルスという形態を踏まえた発言だったかと思うのですが、新作と旧作の違いはあれど、私にとっては「廉価版ミステリ」「月間ミステリ」ってのはそう目新しい発想ではなかったなあ、と(いや、だから何って事は何もないんですよ。要らん事言いの病気みたいなものです)。 

 国内版、海外版、ともにラインナップはとても楽しく拝見しました。

 結果発表が楽しみです。
1931. 2004年01月31日 10時37分28秒  投稿:みわっち。 
今月の〆切もなんとか無事(?)乗り切る事ができました、みわっち。です。

1月後半の読了本報告から。

1月22日

○『後巷説百物語』京極夏彦著 角川書店刊

 世間的には直木賞受賞、なんですねぇ。前2作が表と裏の関係なら、これはそれらを俯瞰する立場とでもいいましょうか。上手く言えませんが作法に則った三部作って感じがします。

1月25日

○『月とスッポンと日本語』明石散人著 講談社刊

 サブタイトルに「究極の薀蓄語録」とありますが、今のトリビアをはじめとする薀蓄ブームのネタ本みたいな本。200年ではなく去年くらいに時流に乗っかる形で売りに出せば、きっと凄く売れたんじゃないかな。

1月27日

○『無法地帯』大倉崇裕著 双葉社刊

 おお、ハードボイルドの世界だ。平成の世の中でハードボイルドにリアリティを持たそうとすればもはやオタクの世界にしか見出せない、という作者一流のジョークなのかもしれません。

★★★え〜、今更ながらですが、リアリティとアクチュアリティがらみのレスを3連発で。

★まずは1914番のカキコから。

>砂時計さま

<『黄色い部屋はいかに改装されたか?』の中にも「リアリティは必要だがアクチュアリティは必要ではない」という内容の文章があったかと

 うへえ。私の読み方がイカに浅いものであるか、イカに読み流しているものか、が証明されてしまいますねー。ちゃんと再読したんですがねぇ……。正直、そんな箇所があったかやぁ(名古屋弁)、とビックリです(う〜ん、恥ずかしい事です)。

★続いて1915番カキコへのレス

>森下祐行さま

<この現実の世界とのかかわりから小説の「リアルさ」を演出することをアクチュアリティによりかかっている

 非常に分かりやすい説明ありがとうございます。ぺこり。

 すると1902番カキコで砂時計さまがおっしゃられた

<「謎解きの面白さ」と「アクチュアリティを重視した作風」のハイブリッド

 という(その当時の)森村誠一作品の特徴というのは、現実世界の風物などを積極的に取り入れ、現実世界と地続きである事を強調しながらも、謎解きはしっかり面白い、ということになるのでしょうか。

 こういう部分だけ見ると、それはもしかしたら芦辺拓がいうところ(意訳 バーチャルな世界にとどまらない本格ミステリ)に近いのかもしれないとか思うのですが、現実世界のどういう部分と地続きであるのか、接続しているのか、というところがまた微妙であり、極論すれば其処の差が社会派という括りになるのかどうかの分かれ目になるのじゃないかな、と考えます。

 現実世界の汚職とか政治疑惑とかいう社会問題的な部分に細かく接続していってしまえば、社会派ミステリ。

 現実世界の条件をクリアした(これはもちろん、それらしく見えればOK)「館」とかに細かく接続していってしまうのが、芦辺拓が実作で表現しようとしている、バーチャルな世界にとどまらない本格ミステリ。

 現実世界の裏づけが無く「其処に館がありました」的な、イキナリなんでも登場させてしまってOKなのが、芦辺拓が著作の後書きなどで時折懸念している、バーチャルな本格ミステリ。

 こうやって並べてみると、なんとなく見えてきますね。

 トリックのためのトリックに陥ってしまったり、東京の一頭地にイキナリ巨大な館があったり、本邦の本格ミステリが進んで行ってしまった方向。本来ならばその「有り得なさ」だけを修正しなければならなかったハズなのに、本格ミステリそのものが「有り得なさ」と等号で結び付けられてしまった騙りのカラクリ。

 清張自身は、それまでの本格ミステリの「有り得なさ」を捨て去り「現実にありそうなこと」と結びつける事で、本格ミステリの延命・多様化を図ったのかもしれませんね。

 しかし、あるひとつの方向が商業的な成功を爆発的に収めてしまうと、誰もが高い収入を得たいが為に、その方向に走ってしまう。結果的に多様性や弾力性が失われていってしまう。しかも最初はリアリティを求めていたのにもかかわらず、リアリティを求めすぎる結果、主客転倒して単なるアクチュアリティに走ってしまう。

 そんな中でも本格ミステリは書き綴られていたのでしょうが、決してメインのスポットライトは当てられなかったんじゃないでしょうか。

 ええっと、何が言いたいのかといいますと、芦辺拓は過去の二の舞を避けるために、本格ミステリがバーチャルな世界に閉じたものばかりではなく(もちろんバーチャルな世界の本格ミステリの面白さは否定してません)、現実世界と接続しながら、しかし社会派ではない本格ミステリを模索しているんだなあ、と。

★ちょっと脱線気味になりましたが、1916番カキコへのレス

>紅さま

<『黄色い部屋は
<いかに改装されたか?』中にその文面を発見しました.「ミスディ
<レクションについて」あたりですね.

 確かに。「リアリティは必要でもアクチュアリティは必要ではない」という趣旨の事が書かれていますね。なんとなく捉えて通りすぎていました。恥ずかしい限りです。

<アクチュアリティとリアリティがわたしの中で区別化されておらず,
<どちらのケースに対してもリアリティという単語を適用していた

 きっとこれは私も同じです。1920番カキコにも記したのですが、確認の為もう一度記します。

<○リアリティ…作品内に限定して真実味のあること。作品内部の世界の自己完結性。
<
<○アクチュアリティ…作品内部の真実味を保証する為に、実際の現実世界に頼っている事。

 ……という理解でこの掲示板ではこれらの単語を使っております。この単語の解釈の責任は全て私、みわっち。の独断と偏見によるものです。「そうじゃない。もっと判り易くて端的で的確な解釈はこうだ!」という方がおられましたら、御一報ください。私が納得すればいつでも考えを改めます。

★★★そしてようやく1917番カキコへのレスです(爆)。

>桐生未月さま

<新年会は無理ですけれど、また時間が空いたら遊んでやって下さいな。

 うあああああ。すいません、すいません。なんぼなんでも、レス遅すぎですよね(汗)。1月も終わりになって、最早新年会がどうとか言うレヴェルを遥かに過ぎてますもの。

 はい。またオフしましょう。予定では3月のMYSCONの翌週でございますね。名古屋徹カラ(?)オフ。アニソンはちゃんと封印しますんで、ひとつお手柔らかにお願いいたします。

 アイドル限定の「石岡くんカラオケ」なんてのもありかな、と(爆)。

★★★そして1919番カキコへのレス

>砂時計さま

<横溝、高木、鮎川、都筑。
<この四人が自分にとっての国内謎解き小説の四巨星でした。

 私は横溝、�睫攤酩覆�ミステリに接する最初期にあたります。何故か長い間鮎川作品と接する機会が欠落していまして。鮎川死去の報道に接した時もそのせいなのか、正直な話、寂しさはあっても涙は流れませんでした。

 ところが、都筑道夫の時は違ったんです。上手く表現できないのですが、しばらく凹んでおりました。いや、もしかしたら今もきっと凹んでいるのかもしれません。

★★★てな訳で、ようやく昨年分のレスが終了しました。今年も非常に遅いペースになるとは思いますが(爆)、必ずレスはつけていきますので皆様、見捨てずに今後もかまってやってくださいまし。ぺこり。
1930. 2004年01月25日 13時23分02秒  投稿:みわっち。 
現在、明石散人の『月とスッポンと日本語』を読んでいます、みわっち。です。

★★★でわ、遅くなりましたが、1911番カキコのレスをば(汗)。

>ないとーさま

<真意が分かってない訳じゃないと思いますよ。あくまで、それを踏まえた上で、あの表現はいただけないと言っているはずです

 これも判断が難しいことのひとつだと思うんですよ。「ある人がどんな意図でその文章を書いたのか」って問題は、今回の芦辺拓のエッセイに限らず、やっぱり書いた本人にしか分からない事だと思うんですよね。

 例えば、人がその心のうちで何を考えているのかは他人に計り知れないのと同じく、問題は「何処で(その人のことを)信じるか」という受け取り手にあると思うんですよ。

 今回の話に戻せば、正味の話、あのエッセイの真意は書いた芦辺拓本人にしか判らないことであり、私などの第三者が「芦辺拓の文章の真意は○○にあるのでは」というのは実は読み取る側の問題意識や考え方、レヴェルなどが、その作品を媒介してさらけ出されていると思うのです。

 それは二次的、三次的文章についても同じ事が言えるわけで。

 真意がわかった上での発言なのか、そうではないのか、その本当のところは発言された森下祐行さま以外、分からない事です。全ての理屈は後づけになってしまいますから、解釈の問題は本当に藪の中へ行ってしまうと思うのですよ。

 こんな事は敢えて文章にする事ではないのかもしれませんが、理解しやすさを考えて、無粋を承知で以下のセンテンスを書きますね(ごめんなさい)。

 例えば、森下祐行さまが後から「ないとーさまの発言の通り、真意は判っていたのだけれどあの表現は無いんじゃないか、と思ったんだよ」とおっしゃったとしても、それは本当にそうなのかどうかは、第三者には判断がつかないんです。素直に受け取ればその通りなんですが、穿った見方をすれば「おいおい、ただ単に尻馬乗っかっただけじゃないの?」という可能性はあるわけで。やっぱり「何処かで信じる」という行為をしなくては、話は先に進まないのですよ。で、何処で他人を信じるのか信じないのかって事は、私は信じる(もしくは信じない)その人本人のレヴェルや性根を映し出す鏡(さっきは媒介という表現を使いましたが)みたいなものではないかな、と。

 そういった事を踏まえて考えていくと、他人と論議を尽くすというのは、その人をある程度理解もしくは把握することができてとても面白い(嬉しい)ことだなあ、と私は思います。

<芦辺がどうゆう物言いをするか分かってない人からあれを見た場合、どこまで本気で、どこから冗談かは分からないと思いますね。そのまま鵜呑みにしてしまう可能性だって充分あると思います。そこを「もうちょっと考えろよ」ってことじゃないですか?

 それはやはり受け取り手のレヴェルの問題ではないかな、と思うのですよ。

 私は『ハヤカワ・ミステリ総解説目録』の他の作家のエッセイを読んで、原りょう(変換できず)の人となりを知りません(どういう物言いをするか分かってません)が、「ポケミスのタイトルを繋ぎ合わせただけの盗作野郎」とは思いませんし、同じく東直己の人となりを知りませんが、「下品なギャグマンガとポケミスを同列に並べて論じた破廉恥漢」などとは思いません。

 どんな物言いをする人か知らない人だったら鵜呑みにしてしまうかも知れない、というならば、今二人の作家を具体的に例を出したような捉え方をしてもかまわない。むしろ作家側はそう捉えられないような表現の仕方をもうちょっと考えろってことになってしまいますよ。それは違うと思うんですよ。

 あのエッセイを読んで原りょうを「盗作野郎」と言ってしまう人ってのは、そんなレヴェルでしかモノを見る事ができない人間だって事を自分自身で公言しているのです。その是非はともかく、捻じ曲がった解釈はどんなものにでもできてしまうのですよ、ということです。蛇足を承知で書けば、原りょう、東直己だけではなく、あの本にエッセイが乗った作家全てこき下ろす事は可能です。その伝でいけば、若竹七海は「ポケミス昔のミスをあげつらう卑怯、卑劣漢」ですし、山田正紀は「ポケミスのポケットの意味を履き違えている馬鹿」になるじゃないですか。

 こんな捉え方をするのは捉える方に問題があるのであって、そう捉えられないようにできなかった作家側の努力不足ではないってことが、私の言いたい事でございまして。

 繰り返しますが、商業出版物に載っかってしまった文章が、読者にどんな捻じ曲がって捉えられ方をするのかは防ぎようがないじゃないですか。それを作家側に「もうちょっと考えろ」って事はできない相談だと思うのですね。

<“本格ミステリ冬の時代”というのならば、本格の一部の作品だけではなく、全体的に絶版が非常に多いという事実がなければならないわけで

 これもモノの考え方の相違による問題ですね。全体でモノを捕らえようとすると非常に焦点がぼやけてしまいませんか?

 焦点がぼやけてしまうから、生まれて160年以上たっても未だに「本格ミステリの定義」など存在しない(いや、できない)んですよね。どれだけ言葉を尽くしたとしても誰から見ても普遍的な事実をすくいだすことができていない。

 なぜなら時代や個人でのタームによる「限界」が如何してもあるわけです(まあ、その意見の違いがこうした論議には欠かせない、という裏返しの事実もあるんですが)。

 ならば、各個人それぞれの「本格ミステリ」があっていいということになりませんか?芦辺拓が言及する「本格ミステリ」とは、森下祐行さま達のいう「古い本格」だという事は以前にも指摘しましたが、要はそこなんですよね。

 ないとーさまのご指摘通り、確かに私の場合は、今の視点から見れば「竹本ファン冬の時代」でしょう。しかしその当時の私の視点で言えば、やっぱり「本格ミステリ冬の時代」なんです。

 それこそ、京極夏彦の妖怪シリーズじゃないですが、「本格ミステリ」って妖怪みたいなものだと思うのです。部分部分では確かに「本格ミステリ」の共通認識ってのはできると思うのです。ところが、それら個々をひっくるめて全体像を捉えようとすると、途端にすり抜けてしまう。食い違う、行き違う、同じ色に見えていたものが違う色になってくる……。

 芦辺拓が何処で何をもって「本格ミステリ冬の時代」といおうと、それはどんな言い方をしていようが、芦辺拓が言っているのだから芦辺拓にとっての「本格ミステリ冬の時代」であるわけですよ。
 
 記憶や歴史なんてモノは都合のいいように作りかえられるものだってことは、それこそ森下祐行さまが心配されているような若いミステリファンは、そういうミステリを日常的に読んでいるのだから分かっていなくてはならないはず(具体的な作品名を挙げられればいいのですが、それをするとまたネタバレ云々といわれかねないので敢えて挙げません)。

 それを分からずただ単に活字になっているから鵜呑みにしてしまう、というのではあまりにもお粗末としかいいようがないです。繰り返しになってしまいますが、鵜呑みにしてしまうのは鵜呑みにしてしまう側に問題があるのであって、決して言葉を発している側に問題があるわけではない、と思うのですよ(あ、もちろん、新聞などの嘘ニュースは困りますけどね)。
1929. 2004年01月24日 21時43分26秒  投稿:森下祐行 
みわっちさま、MCAさま

『殺意の楔』の解説文アップ、確かにいささか勇み足の部分も
あったようです。
みわっちさんにメールすればよかったのですが、内容的に
多くの人に読んでもらいたいと判断したのですが。
みわっちさんの掲示板に迷惑がかかりそうなので、
とりあえず、いったん削除します。

みわっちさんへ。
もし解説文が必要なら、私宛にメールください。

[NAGAYA v3.13/N90201]