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感染症研究と反官学医学(1)
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明治大正時代の日本は,腸チフスと赤痢が四季を通じ全国でまん延し,毎年真夏にはコレラ,冬には天然痘が流行し,時にはペストや発疹チフスの襲来,そして大正7年にはスペイン風邪の大流行で公称26万人が死亡するなど,あらゆる感染症が流行った。
さらに6,000万人同朋を苦しめていた回虫,十二指腸虫(鉤虫)に対する予防と撲滅も最重要課題だった。
明治初期から始まった近代科学の移入は東京帝大を通じておこなわれた。
外人教師の多くが東京帝大の教師であり,帝大卒業生は留学生として欧州におもむき,帰国してはその最新の知識を全国に広めていった。
この意味では近代文化史上に演じた東京帝国大の役割はきわめて大きかった。
医学においても,東京帝大医学部は教育において最高かつ中心的な機関であり,その卒業生が明治期の医学教育・医学研究および臨床の各方面で最高位を占め,日本医学の発展を指導していった。
明治中期までに全国には公立および私立の医学教育機関が設置されたが,純然たる研究機関は東京帝大だけだった。
東京帝大に匹敵する業績を挙げていたのは北里柴三郎所長が率いる私立伝染病研究所(=現,北里研究所付属病院:港区白金)だけだった。
この研究所は感染症研究でも大きな役割を果たすとともに,反官学医学の中心としても非常に大きな役割を演じ,以後も官学に対抗する医学の動きはすべて北里研究所を中心に展開されていった。
なぜ,北里研究所が反官学医学の中心となったのか?
北里柴三郎は東京帝大卒業後,公衆衛生を志して内務省に入り,医学部の緒方正規について細菌学を学んだ。
その後,当時の世界的細菌学者であるドイツのコッホの元に留学した。
彼はコッホとともに,破傷風菌の純粋培養,血清療法の発見に成功し,明治25年(1892)に帰国した当時は世界的な細菌学者になっていた。
だが,コッホの元でおこなった研究で東京帝大の恩師である緒方正規の「脚気菌」説を否定した事実,および明治23年(1890),コッホによって結核の診断薬であるツベルクリンが発表されたとき,東京帝大からは佐々木政吉,宇野明,山極勝三郎の3名がコッホの元に派遣されたが,コッホが北里だけで十分であるとその3人を門下に加えることを拒絶した事実から,帰国した北里と東京帝大との間に大きな反目関係をつくりだしていた。
さらに,内務省から留学派遣されていた北里は文部省管轄の東京帝大に所属できないでいた。すでに世界的な学者であった帰国後の北里には,国家からは研究する機会も場所も与えられなかったのである。
そこで,内務省衛生局長だった長与専斎が尽力し,北里のために私立伝染病研究所(伝研)が建てられた。
その原資は慶応義塾の創始者である福沢諭吉の私財によってなされた。
私立伝研は明治25年11月30日に東京・芝区に創設された。
この研究所は小規模であったが,いろいろな伝染病が猖獗(しょうけつ)をきわめていたため,長谷川秦以下十数名の衆議院議員の建議により,研究所の経費が国家補助されることになり,翌26年には,芝区愛宕町(現,芝郵便局付近)に新しい研究所が建設されて移転し,その事業は大いに進展した。
その翌年の明治27年には北里柴三郎が香港でペスト菌を発見した。この北里の大発見に対して,北里に同行した東京帝大教授の青山胤通はペストに感染して九死に一生の憂き目にあっている。
明治30年には志賀 潔が東京で赤痢菌を発見した。
その後,明治32年に伝研は内務省所管となった。これにより国家経費を自由に使うことのできた伝研は,その後の事業がますます隆盛を極め,既設の内務省所管の痘苗製造所と血清薬院を併合し,明治38年,芝区白金町(現,東大医科学研究所)に大規模な研究所を建てて移転した。
明治40年には秦 佐八朗がエーリッヒとともにドイツで梅毒治療薬サルバルサンを創薬した。
秦らによる新薬の発見は,当時のヨーロッパ人口の50%が梅毒患者で,その死亡率は高く,さらに産まれてくる子供まで感染していたので,その業績は高く評価された。
これらの業績によって伝研の設備はさらに拡充され,細菌学の急速の発展とともにさらに伝研の重要性は高まり,ドイツのコッホ研究所,フランス・パスツール研究所とならんで世界的研究所の一つと賞せられるようになった。
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感染症研究と反官学医学(2)
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大正3年(1914年),政府は文政統一および行政整理を名目に,所長である北里に一言も計ることなく,内務省所管の伝研を文部省に移管して東京帝大の下に置くことを突如決定し公布した。
東京帝大移管によって研究体制が各講座に分割され総合的研究態勢が破壊されるという理由で反対していた北里の意見をまったく無視したもので,重要な研究施設はすべて国家の統制下に置くとする国家主義のあらわれだった。
さらに,伝研の業績を東京帝大のものとしようとした医学部長青山の野望もこれに拍車をかけた。
陰では,北里のペスト菌発見に対する東京帝大教授青山胤通の報復だったとも噂されている。
この移管に対して所長北里以下全所員が伝研を辞職して抗議したのも当然だった。
翌大正4年に,北里は新たに私立北里研究所(現,北里研究所付属病院)を設立し,研究を継続したが,移管をめぐる北里研究所と東京帝国大との対立は,帝国大学の二雄として東京帝大と対立関係にあった京都帝大との結びつきを強めていった。
北里派の学位論文の大部分が京都帝大に提出されて,学位がだされた。
アメリカ在住の世界的細菌学者だった野口英世でさえ,東京帝大出身者でない(私塾である済生学舎出身)ために京都帝大に学位申請せざるえないという東大至上主義が災いした面もある。
北里研究所と東京帝国大との対立は,大正9年(1934年),慶応義塾に医学部が創設された際には,北里が初代医学部長に,その教授陣の多くが北里研究所と京都帝大から参加したことからも,この間の事情を指し示している。
かくして,私立伝研発足以来の北里と福沢の結合は,国家統制を受けない反官学(反権威)医学となって,初の私立総合大学の医学部の創設となって結実したのである。
北里と福沢との結びつきは,単に北里と東京帝大との対立という狭い関係にとどまらず,後の医学の母体となっていった意味では重要な契機だった。
明治19年の大学令によって国家統制された日本教育や明治22年の帝国憲法発布によって圧殺された
自由民権運動は,片や北里柴三朗,片や福沢諭吉という2巨人によって,この私立北里研の中に反官学という形で受け継がれ,北里研の発展とともに広がっていった。
自由民権運動の思想的支柱であり民間学府の第一人者であった福沢の在野精神が,思想的背景をもたない北里の反官学闘争のバックボーンだったのである。
結局,この反官学医学は北里研を中心とする感染症の研究で華開いた。
いっぽう,東京帝大に属した伝研は以後,国家の世界戦略のための研究を積極的に担い,第2次世界大戦では細菌戦をおこなう七三一部隊(陸軍防疫給水部)の中核となっていった。
戦線の拡大にともなった熾烈な国家主義にもとづく思想統制の結果,京都帝大や慶応義塾の研究者もやむなく細菌戦のための研究にかりだされる状況になっていった。
ノーベル賞に輝いた日本人科学者は現在までに7人いる。
しかし,自然科学者では江崎玲於奈以外は東京帝大や東大出身者でない。
物理学者はすべて京都帝大出身者である。
京都帝大や京大あるいは慶応義塾では,発想や経緯を重視した教育や研究をおこなっている。
医学をふくむ科学は国家に統制されない自由な発想でなされるべきで,感染症分野でも私学の一層の展開が求められている。
(むしの無視できないむしのはなし 完)
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