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日本住血吸虫症撲滅の記録 その5
 
 杉山仲54歳。女性の身で生前に病因解明のために自ら解剖を志願した勇気と崇高な心情に,頭がさがる思いがする。
しかし,その文章は一般人が書いたとは思えないほどの達筆名文であり,はたして仲自身がこの願い書を認めたか疑問が残る。

文面から県病院(山梨中央病院)に対するいくつかの配慮が感じとれる。
地元医師たちが診察してもわからなかった病名が,県病院で診察してもらったらすぐに水腫病と判明したと県病院に華をもたせた。
仲の主治医吉岡順作は甲府各地にこの病気があり,地元春日井村での県の調査結果などを当然知っていたはずである。
県病院の解剖であれば,県から特別許可されるという背景を吉岡が配慮したのかもしれない。

おそらく吉岡が仲を説得し,死を覚悟した仲がそれを承諾し,吉岡が書いた下書きを家族の誰かが代筆したのであろう。
しかし,経過がどうであれ,誰かの助言があったにしろ,死後解剖については本人の意思がもとになっており,「死体解剖御願書」は仲の壮絶な覚悟を表現しているものであることに他ならない。

 杉山仲の解剖がなされた明治30年は,三神三郎は若干24才の青年で大鎌田村大里で内科を開業していた。
現在の大鎌田村は甲府市に編入され同市大里となっているが,甲府の旧市街から南へおよそ5キロほど離れた甲府盆地のほぼ中央部に位置し,当時は米作中心の一般的な農村だった。

ここは甲府盆地の中央を南流する荒川の洪積地帯である。
荒川の上流に は武田信玄が洪水防止のためにつくった信玄堤がある。
大鎌田村の周囲でも水腫病が濃厚にまん延していたため,三郎は多くの患者を診察して,若くても豊富な経験をもっていた。

 三郎の出生地は西山梨郡石和村(石和市)広瀬で,旧姓を川手といった。
祖父の川手五郎衛門は,横浜開港(1859年)で生糸貿易で財をなした実業家だった。
幼少より性格が温厚で利発であった三郎は,長じて済生学舎で医学を学んだ。
その後,代々医業をおこない,子供がいなかった大鎌田村大里の三神家に請われてその養子となった。

仲の解剖がおこな われた明治30年,三郎はかなり精力的に医業に励んでいたらしい。
「地方病で蔵を3つも建てた」といわれる地元医師が多いなかで,生活困窮の患者からは金を取らず,「医は仁術」を生涯つらぬいた人物としても知られている。
結婚式前日,飲めない酒を飲んで橋から落ち,列席の同僚医師の手当を受け包帯姿で三々九度をしたという憎めない一面もあった。

 彼の診療所では老衰以外の患者の死因はいつも水腫病だった。
当然,三郎も水腫病の原因について知りたかった。
先輩医師たちに聞いても,この病気が府中(甲府)全域にあることがわかっただけだった。
三郎は患者の最後を看とるたびに,「なにが原因ではらっぱりが起きるのか」と考え,自分と医学の非力を感じていた。

そんな中,県病院に勤める内科医員から,水腫病の原因が十二指腸虫(鉤虫)だと聞いた。
それは県病院長らが春日井村でおこなった14年も昔の糞便検査の結果だった。
何事も調べなければ気が済まない性格の三郎は,診療の合間に,鉤虫症に関する書物を読み文献を探しまくった。
しかし,鉤虫による多数感染では,貧血がおきるが肝臓が肥大して腹水が溜まるという症状はどこにも書いていなかった。
多数が感染すれば,高度の貧血のために爪が反り返るが,水腫病の患者ではそのようなことはない。

 三郎は同郷の吉岡順作に「はらっぱり」について質問した。杉山仲の特志解剖がなされる1年前である。
「私のところでもはらっぱりで死ぬものが多いのです。もし先生がその原因 について何かご存じでしたら,お教え頂きたいのですが‥」と切り出した。

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日本住血吸虫症撲滅の記録 その6

 
 水腫病に関する三神三郎の質問を受けた吉岡順作は,
「はらっぱりはレバー(肝臓)が石のように硬変し腹水が溜まって起きる。だが,硬変する原因はわからない。こっちが教えて貰いたいくらいだ」とぶっきらぼうに答えた。

「春日井村では十二指腸虫(鉤虫)が関与していると結果がでていますが,十二指腸虫の症状とはらっぱりの症状はぜんぜん違うとおもいますが‥」 吉岡はこの質問で,若い三郎が水腫病について勉強していると感じた。

「そうだ。府中(甲府)のはらっぱりは何か別の原因がある」 やはり,吉岡も十二指腸虫(鉤虫)のことが気になって調べていたのだ。
「その原因とはいったい何でしょう」
「わからん。東京医(学会雑)誌には,見慣れない虫卵が肝臓内からみつかったと報告しているドクトル(医者)がいる。クランケ(患者)は山梨生まれだ。気になる。偶然かもしれんが‥」
そして最後に,
「はらっぱりの原因を探るには,腑分けして調べるしかない」といった。

吉岡は解剖を腑(ふ)分けとふるい言葉でいった。
三郎も死後解剖して患者の死因を調べる必要性を感じていたので,吉岡の意見に賛成だった。
しかし,三郎が患者遺族に死後解剖を懇願してもだれも認めてくれなかった。
そうして1年があっという間に過ぎ去った。
この質問を機に,吉岡は三郎を弟子のように可愛がった。

 明治30年6月初め,三郎が諸用で県医師会に行くと,室内は杉山仲が死後解剖願いをだしたという話題で一杯だった。
吉岡が三郎のところに来た。
「君もアウトプシ(解剖)に立ち会い給え。執刀医は県病院長の下平用彩先生だ。村上庄太先生が介添えをする予定だ。クランケ(患者)はこの数日でステルベンする(死ぬ)だろう。遺志で病原をみつけてくれといっておる」

 これを聞いた三郎は「やったぁ」とおもった。
それは解剖を望んでいた吉岡が「やった」という意味でもあり,求めていた水腫病の原因究明を自分たちの手で「やれる」という意味でもあった。
吉岡の予言どおり,杉山仲は解剖願いを書いた6日後の6月5日に亡くなった。

 解剖がおこなわれる明治30年6月6日朝,三郎は人力車で玉緒村向(甲府市向町)の盛岩寺に向かった。
道途中で人力車でくる医師たち数人と出会った。
その日は晴れている蒸し暑い日だった。
道途中,暑苦しい蝉の鳴き声を聞いていても,三郎はこの日ばかりは背筋が寒かった。
「これで水腫病の病原がわかる」という医学的興味とそれに参加できるという緊張感が入り交じって,腰ひもに挟んだ手拭いでしきりに顔の汗を拭った。

 三郎が盛岩寺の古びた簡素な門前に着くと,すでに到着した医師の人力車が数台あった。
粗末な山門に入っていく足取りがおぼつかない。
境内(けいだい)はかなり広いが囲いも堀もない。
本堂裏の墓地中央に,荒むしろで囲まれた臨時の解剖台が設けら れているのがみえた。
村の人たちもただならぬ出来事で目を見張り,好奇心からか遠まきに集まって来ている。
中には本堂の屋根に登って固唾をのんでいる村人もいる。

 三郎は先輩医師たちに黙礼した。
黙礼を返す先輩医師たちもみな無言だった。
白衣マスク姿の執刀者下平用彩と介添え役の村上庄太が,吉岡と連れ立って本堂脇の庫裏(くり)からでてきた。



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日本住血吸虫症撲滅の記録 その7

 
 本堂から白装束の杉山仲の遺体が運ばれてきた。
仲の死顔は安らかだったが,下腹が妊婦のように膨らんでいた。
導師読経の後,40人の医師全員が遺体に向かって一礼した。

執刀者下平用彩が腹部上部から縦一線にメスを入れ,解剖がはじまった。
腹水がほとばしりでた。
仲の体は暑さのためにすでに腐乱が始まっており,魚が腐ったような強烈な異臭が周囲に広がった。

三郎はあまりの強烈な臭いに思わず嘔吐しそうになった。
手拭いを口にあて嗚咽と涙を抑えながら先輩たちの肩越しに,肥大した肝臓の表面に白いツブツブが点在していているのをみた。
遺体から肝臓,胆管,脾臓,腸の一部が摘出され,アルコール漬けにされた。
切開部が丁寧に縫合わされて解剖が終了した。
全員が遺体に向かって黙祷した。
三郎は手を合わせながら,心のなかでつぶやいた。
「貴女の遺志は無駄にしない。必ず病原をみつける。成仏してくれ。ありがとう」

 余談であるが,杉山仲は解剖がおこなわれた盛岩寺(甲府市向町)の墓地中央に日本住血吸虫症に殉じた献彰碑とともにいまでも眠っている。

 野外解剖の興奮がさめやらない先輩医師たちは甲府市街の料亭で一席囲むことになっ た。
三郎はその誘いを丁重に断り,大鎌田村へと帰る人力車のなかで解剖の一部始終を思い出していた。
通常の肝硬変とことなって,白色を帯びた繊維様のものが肝表面に点在していた。
腸から肝臓に血液を送る門脈は膨大して,多数の結塞部位があった。
また,脾臓も肥大していた。

 三郎は杉山仲の病理診断結果を早く知りたかった。
半年後,県病院の病理技師にそれとなく聞くと,肝臓には変性した虫卵の塊を中心とする多数の結節ができており, そのような虫卵塊と結節は腸粘膜にも認められ,虫卵の大きさは鉤虫よりあきらかに大きいとのことだった。
その病理技師は「下平先生には御内密に」ともつけ加えた。
もし,この技師のいう病理結果が本当であるならば,水腫病にはやはり寄生虫が関与することになる。

 三郎は顕微鏡を購入することにした。
当時の顕微鏡はドイツからの輸入品で,値段は三郎の4か月分の収入と同じだった。
水腫病に鉤虫が関係するかしないかが分かれば安い道楽だとおもった。

 1年後の明治31年春,待ちに待った顕微鏡が到着した。
三郎は診察室の陽がよくあたる場所に据え付けた。
居宅から済生学舎時代の病理学の実習書をとりだしてきた。
最初に自分と家族と使用人の便を検査してみた。
全員から回虫卵か鉤虫卵がみつかった。

 三郎は水腫病患者宅に往診するたびに,新しい大きなマッチ箱を置いて,患者の便をとり診療所にもってくるように家族にいい含めた。
当時はマッチは貴重だった。
家族は新しいマッチ箱をしまい,代わりに小さな空箱に患者の便を少量入れて,翌日,三郎の診療所にもってきた。
マッチ箱作戦の効果は絶大で,26人の患者の便が1週間で集まった。

 三郎は水腫病患者の便のなかの寄生虫卵を調べた。
いくつかの患者の便から,見覚えのない大型の虫卵がみつかった。
その虫卵は十二指腸虫(鉤虫)卵より大きく,楕円形で長径70〜100ミクロン(1ミクロンは1000分の1ミリ:0.07〜0.1ミリ),短 径50〜70ミクロンで,鉤虫卵が白黒のコントラストをしめすのに対して,この虫卵は淡黄色で,蓋がなく,ときには卵の側面に鉤虫卵にはない小突起があった。

内部はよく観察できなかったが,虫卵の形や内容は鉤虫卵とはあきらかにちがっていた。
三郎はこの黄金色に輝く虫卵をみて「きれいだ」と思った。
この虫卵が恐ろしい水腫病の息子ではないかと直感した。



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日本住血吸虫症撲滅の記録 その8

 
 杉山仲の特志解剖があった9年前の明治21年に,馬島永徳は出生地不明の肝硬変患者を解剖し,肝臓組織に一種の大型の虫卵をみいだし,「虫卵に起因する肝硬変の一奇症」として東京医(学会雑)誌に報告していた。

また,東大病理学の山極勝三郎も明治22年に,山梨県出身の肝硬変患者の死後剖検をおこなった。
肝臓内より虫卵が見いだされたが,山極はこの変形した虫卵を肺に寄生する肺ジストマ卵として同誌に報告していた。
この誤認は,日本住血吸虫症がまだ知られていない当時ではいたしかたないことであったが,山極は虫卵による肝内結節など貴重な病理学的研究成果を残している。

杉山仲の特志解剖の翌年の明治31年には,金森辰次郎はぐうぜん東京で解剖した山梨生まれの農婦の直腸壁と肝臓内に虫卵を見いだし,「一新寄生虫卵に就て」の題で東京医誌に報告し,新しい寄生虫の虫卵であると主張した。

 三郎は,自分が水腫病患者の糞便からみつけた虫卵が,馬島と山極あるいは金森が報告した虫卵と非常に似ていることを文献によって確認した。
と同時に,佐賀で栗本東明が新寄生虫卵と報告したものとほぼ同一物であることがわかった。
とすると,馬島と金森と栗本の報告に従えば,この虫卵は新しい寄生虫の虫卵であることになる。

 三郎は吉岡順作に水腫病患者の糞便検査の結果をしめし,見解を質した。

「十二指腸虫(鉤虫)卵とことなる虫卵が便中にみつかった?君ぃ,早く論文にまとめたまえ。そのために,医師会報を新しくつくったのだ」

「しかし,私は一介の地方医ですから」

「何を馬鹿を言う。事実は事実として報告すべきなのだ。君は若いのによくやっている。論文は大学の先生だけが出すものでない」と言われ,
三郎は内容をまとめて「肝臓脾臓肥大に就て」の題で明治33年発行の山梨県医師会報に報告した。
本論は非常な卓越した見解であり病原体決定に数歩近づけるもので,かつ患者と密に接している現場の医師でしかできえないものだった。

 はからずも,この山梨県医師会報の第3号には,下平用彩が杉山仲の病理結果の詳細を,三郎と同題の「肝臓脾臓の肥大に就て」で報告し,また,軍医石井良斎も「山梨県壮丁の肝臓肥大症」の題で報告し,山梨県在住の医師たちの奇病を解明しようとする意気込みがしめされている。

 三郎や下平ならびに石井の報告が載った山梨県医師会報の第3号が刺激となって,県医学会内に水腫病の原因を解明しようとする気運がうまれ,がぜん水腫病は県医学会の重要研究課題となった。
この動きの背景には,杉山仲の特志解剖後,東八代郡医師会長から甲府市医師会長さらに県連合医師会長になった吉岡順作の影響もあった。
いや,むしろ学究肌の吉岡がそれを積極的に主導したともいってもよいだろう。

 明治35年4月,山梨県医学会は県内外の研究者を招き,山梨県病院(山梨中央病院)で「山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て」の討論会を開催した。
出席者は,向山軍二郎,栗本東明,村上庄太,山極勝三郎,新妻由五郎などで,当時この問題に取り組み,それぞれの分野で著名な業績をあげている人たちだった。
長崎医専教授の栗本は佐賀県下・筑後川沿岸の水腫病の研究をおこない,肝臓内に新しい寄生虫卵をみいだした者である。
三郎は水腫病患者の糞便に見つかる新しい寄生虫卵の発表をおこなったが,体の中の肝臓にみつかる虫卵と体外の腸管にみつかった虫卵との同一性を追及され,「両者を関連づける直接証拠をもたず」と答えざるを得なかった。討論会の出席者のなかに桂田富士郎もふくまれていた。


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