寛政三年(一七九〇)勢多郡赤城村大字深山の名門須田家に生まる。諱は為信と称す。須田家の遠祖は元信濃国須坂の城主と伝え部門の家柄なり、祖父治右衛門は法神流の兵法者として知られ、父玄内は医を業とし画技に長ず。幼児より祖父に兵法を、父に医術を、さらに東里鳳斎、狩野探雲に師事して画技を、書を萩原賢和に学ぶ。天賦の才あり忽ちにしてその技量師を凌駕し神童の誉れあり。長ずるや躯幹長大力量抜群にして眉毛巻き上がり眼光炯々として偉丈夫の相あり。
その頃利根、勢多方面に悠々放浪の剣仙あり。楳本法神と称す。加賀の国富樫氏の末流なり。その剣槍の秘技に至りては神技の如し。村人挙って赤城の神仙と崇め敬慕す。先生、法神翁に入門、刻苦数年その兵法の奥秘に至る。さらに赤城山に参籠、修業三年遂にその蘊奥を極め、印可相伝を承けて法神流第二世となる。法神門下千余剣技その右にに出ずる者なし。請われて前橋及び江戸に進出道場を構え教授す。その術精妙にして比肩し得る者なしと云う。名声漸く江戸に高し。天運なるかな、時に先生の盛名を嫉するの輩あり、紛争に至らん事を避けて古里に帰る。即ち星野家に婿入る。道場を開設して教授、指導懇切にして至らざるなし。剣名利根、勢多方面一円を風靡す。当時隣村薗原に神道一心流兵法の道場を開く中澤氏あり。両流競合上の争点を生ず。これこの時代に於ける兵法者の常態なり。然るに江戸浅草無頼の剣客山崎氏、中澤道場を来援するに及び、抗争遂にその頂点に達す。一夜、静寂なる山谷の春の夜空に剣撃の響き銃声轟く。惜しや一代の剣豪星野房吉先生薗原に闘死す。時に天保二年(一八三一)三月十一日享年四十二歳なり。
もしそれ天に剣神ありて、先生をして長く江戸にあらしめなば、その剣名は千葉、齋藤、桃井を凌ぎ、近世武道史上の巨星となり得たであろう事は、郷党諸士の等しく認むる所にして惜しみても余りあり。
然れども先生の剣脈は、三世森田与吉郎、四世根井行雄、五世須田平八と伝承、特に根井の門人持田盛二範士昭和四年の天覧試合に優勝するに及び、遂に法神流兵法に大輪の華を開くに至る。先生もって冥せられよ。
ここに第百六十五回の忌日に当たり、有志一同謹んで一文を草し、石に刻し、書聖萩原賢和の筆になる劉雲道奇居士の霊前に捧げ、もってその御冥福を祈るものである。
平成八年三月十一日
戸山流居合道範士 諸田政治 撰文
七代の末孫 星野俊一 建立 |