法神流伝統碑碑文の大要(原漢文)


 法神流の剣法が世に伝わるも久しいが、その源は音住という人からでている。音住はどこの人かわからないが、生まれつき剣道が好きであったがある時山中で異人に会い、その秘術を教わって法神一流をあみ出した。これは右坂保重に伝え、保重は富樫政親に伝えた。富樫氏は利仁将軍の末裔で代々加賀介に任じていたが、子孫加賀に住んで政親に至った。政親は長享二年一向宗徒の乱に斃れたが、子孫は加越太守前田氏に仕え数世にして政武に至った。政武は白生と称し十五歳の時から家を辞して四方に遊歴し各地の剣客の門をたたいて技を試みたが、一つとして敵する者もなかった。ここに於て一時に名声が高くなったが、医薬のことにも通じていたので、薬を投ずれば効があり、その他小芸に多く通じていた。妻子を持たず晩年には上毛勢多郡に住んでいたが、王室の式微を慷慨して名を藤井右門と改め山県大弐や吉田玄蕃あるいは竹内式部等と交わって、将に為すあらんとしたところ、明和四年大弐が捕らえられるに及んで政武は赤城山に隠れて、楳本法神と名乗ってもっぱら剣術を教授した。門弟数千人になったが、秘術を同郡の須田為信に伝えて天保元年八月十四日に死んだ。享年百六十八、稀世の寿命というべきである。為信は房之助と称し、生まれつき人にすぐれてつよく、門弟また百を以て教える程であった。剣客山崎孫七郎という者があり、為信と技が自分より優れていることをねたんで、一夜その仲間数十人を集め、為信を途でまちぶせした。為信は刀を抜いて之に当たったが、その時門人森田与吉も之を助けて奮闘し共に死なんとした。為信が云うのに「それは無益だ。敵が目指しているのは自分だけなのだ。俺が死に、お前が死んだら、誰がこの剣法を伝えるのだ。」と叱りつけて、身をもって敵に当たった。敵は多く、周囲からとりまいて打ちかかり、ちょうど雷雨がふりかかり、真暗の中に剣の光と稲妻のひらめきと映りあってものすごかった。為信は奮闘したが最後に鉄砲にうたれて死んでしまった。与吉は多数の中に突き入ってわずかに逃れ去る事ができた。天保二年三月十一日である。与吉の諱は武信といい、初めは政武の門に入り後為信の教えを受けてその極意を得た。遭難の後に姓名を変じて勝江玄隆と称し、新田郡徳川郷士正田氏の師として迎えられ、生田氏と名乗った。そしてその秘術を根井行雄に伝えたのである。行雄は勢多郡の人、本姓は滋野弥七郎と称し、旭日将軍義仲の将根井行親の子孫である。人となり気性がしっかりしていて、落ちついており、単に武技にくわしいのみならず、一面文筆をたしなみ、神祇を崇信し、詩歌俳句を善くし門人数百、その名はすこぶる知られていた。明治十四年十二月十一日に死んだ、享年七十二才であった。
 行雄はその術を同郡深山村の須田義舒に伝えた。義舒は平八と称して(また武信の門人であった)、生まれつき温厚でまた武芸を善くしている。この碑は元来行雄が法神流の伝統と政武の事蹟を後の武技に志す者に知らせようとして果たさなかったものを子行雅が門人等と相談して木曽三柱(みよ)神社の傍らに立てたものである。


※藤井右門説・・・現在では楳本法神とは別人と考えられている。
※百六十八歳説・・・非常に高齢であったと伝えられるが、百六十八歳や百三十六歳説
    はあまりに高齢である。九十歳とか百二歳説もあり、これらの方が現実的である。
※多くの門弟の名が伝統碑の背面に刻まれているが、その中、前橋市鶴光路持田盛二
 氏の名が見える。