鷲は舞い降りた
THE EAGLE HAS LANDED
 
 
 
「彼以上に勇気のある男は、まずいないだろう」ヒムラーが平静な口調で言った。
「非常に頭がよくて、勇気があって、冷静で、卓越した軍人―そして、ロマンティックな愚か者だ」
著 者:ジャック・ヒギンズ
出版社:早川書房/早川文庫NV
訳 者:菊池 光
出版年:1975年(原書)
 
 それぞれに好みの違いはあっても、この作品を冒険小説の最高傑作にあげることに異論がある人はいないだろう。第二次世界大戦を舞台にした冒険小説はいくつもあるが、「鷲」ほど見事なプロットを描ききった作品はないし、「鷲」ほど魅力的なキャラクターを創り出した作品もない。
 第二次世界大戦末期、ドイツ第三帝国の敗色が日増しに濃くなりつつある時期を舞台に、描かれるのは、なんとドイツ軍落下傘部隊によるチャーチル誘拐作戦。SSの将官に反抗し、ユダヤ人の少女を助けたかどで懲罰を受けている「ロマンティックな愚か者」、クルト・シュタイナ中佐と、その愛すべき部下リッター・ノイマンたちが、この無謀な作戦を遂行する命令を受ける。彼らは、よく描かれる残虐非道なドイツ軍人などではなく、じつに立派で誇り高い男たちである。つねに心術さわやかで、優しく、このうえなく勇敢で男らしい。あ、なんか書いてて腹が立ってきた。冒険小説などを読むような男は、たいてい屈折した自我の持ち主で、心術さわやかでもなければ、勇敢でもないから、こういうヒーローにはついコンプレックスをいだいてしまうものなのだ。……もちろん、これは僕にかぎっての話だ。別にあなたがそうだと言ってるわけではない。
 そして、IRAの闘士、「愛すべき悪党」リーアム・デヴリン。ナチスからの要請を受け、作戦を補佐するために潜入したノーフォークの寒村で、いい歳こいてイギリス人の小娘と恋に落ちたあげく、自分がスパイとして少女とめぐりあってしまった運命を呪ってみたりする、少年のように純粋な心を持ったロリコン野郎だ。
 彼らは、誰一人として、この馬鹿げた作戦が成功するなどとは思っていない。成功したところで、ドイツがこの戦争に勝つ見こみが出てくるとも思っていないし、さらに言うなら、よしんばこの戦争に勝ったところで、ドイツをナチズムが支配しているかぎり、ろくな時代はやってこない、ということまで理解してしまっているのである。
 だが、彼らは出かけてゆく。彼らにはそうするだけの理由がある。シュタイナは反逆罪で投獄されている父のため、デヴリンは金のため。だが、それはあくまでおもてむきの理由にすぎない。彼らがゆくのは、これが史上最大の冒険だからである。彼らだけが、この冒険に挑戦するだけの勇気と能力とを備えた男たちだからである。
 シュタイナ以下15名の隊員たちは、英軍から鹵獲したDC−3に乗りこんで、無事イギリス本土、チャーチルが週末を過ごすために訪れる予定になっている寒村スタドリ・コンスタブルに降下した。SS本部に入った連絡用の暗号は、『鷲は舞い降りた』! どの国の歴史にもけっして残ることのない、史上最大の冒険が始まった。

 歴史的な事実を言ってしまえば、チャーチルは誘拐も暗殺もされなかった。だが、その事実を知っていたとしても、ストーリーの展開とともに、読者は思わず手に汗を握り、ハラハラしながら次のページへと読みすすんでいかざるをえない。数年まえ、日本でも歴史上の「もしも」をシミュレーションしたif小説というのがはやったが、あんなお手軽でご都合主義な「もしも」とは格がちがう。もちろん、「鷲」にしたところで所詮はデタラメ、見てきたようなウソでしかないのだが、それを「歴史の裏側で、本当に起こった事件」として読ませてしまうヒギンズの力量は、日本の凡百の作家の及ぶところではない。

 シュタイナたちがどのように作戦をすすめ、その結果がどうなるのかは、ここで紹介するわけにはいかない。だが、ネタバレを覚悟で、どうしても書いておきたい台詞がある。
 シュタイナたちドイツ落下傘部隊の正体が露見したあとで、彼らが事故から救った男の子が、シュタイナに向かって訊くのだ。
「おじさんはどうしてドイツ人なの? どうして僕たちの側につかないの?」
 それに対し、シュタイナは声たからかに笑って、男の子の母親にこう告げる。
「さっ、早く連れて行きなさい。わたしが彼の誘惑に負けないうちに」
 泣けた。胸をつかれた。なんという男だろう!
 僕も、自分の命の瀬戸際で、さりげなくこんな台詞が言えるような男になりたい。そんな想いも抱いたが、現在の自分を振りかえるに、どうやら憧れは、たんなる憧れで終わりそうである。やれやれ。


 

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