本を手に取り、ページを開く。「けえかほおこく1―3がつ3日」という書き出しに始まって、ほとんどひらがなばかり、それも間違いだらけの文章が、たどたどしくつづられていく。最初は、その幼稚な文章そのままの、白痴にちかい青年だった主人公チャーリイ・ゴードンが、脳外科手術を受け、知能が増大するにしたがって、文章のほうもしだいに整然と、知性に満ちたものになっていくのだが、なんといってもその変化の過程がこの小説のキモであり、じつに感動的なのである。
これにまずやられた。それまでの僕は、意味をはっきり伝える上手な文章で、自分の書きたいことを表現するのがいい小説だと思っていた。この『アルジャーノン』のように、文章そのものが、一冊まるごと通してひとつの表現になってしまっている小説など、一度も読んだことがなかったのだ。まいった。たんに行間を読ませるとかいう問題ではない。すぐれた表現のまえには、ルール違反もくそもないのだということを、ほとんど物理的なショックすらともなって、僕は思い知らされたのである。
もちろん、表現だけでなく、小説としてのプロットもすばらしい。表題の「アルジャーノン」は、主人公の前に、実験動物としておなじ手術をほどこされたネズミの名前であるが、チャーリイは、大学の実験室で、アルジャーノンと迷路をつかって競争をする。手術を受けるまえはまったくかなわなかったチャーリイが、手術後にはじめてアルジャーノンを負かした時の歓喜が、赤裸々に日記につづられる。それがあまりに無心な喜び方なので、人間のエゴや傲慢さをまったく感じさせない。小学生がかけっこでいくらやっても勝てなかった友だちにはじめて勝ったときのように、打算のない喜びが伝わってくる。
そして、それとは対照的に、大学の教授や世間の人々が、チャーリイとアルジャーノンを、現代の科学の成果であり、実験の産物としてしか見ていない事に彼が気づいたとき、ほんらい白痴にも動物にもひとしくあるはずの生命の尊厳を踏みにじって平気な顔をしている人間たちへの怒りが、読者の胸にまでこみあげてくるのだ。そしてチャーリイは反攻に出る。アルジャーノンを胸のポケットに“かくまい”、研究発表の会場から逃げ出すのである。
人為的に天才となった人間とネズミ、この一人と一匹のこころの交流が、ある意味ではもっとも残酷な悲劇であるこの小説に、どこかあたたかいぬくもりを与えているのだ。読み終えたあと、心をいっぱいに満たしてくる、なんともいえない気持ちは、きっとそんなところからきているのだろう。
僕は、この小説は、あくまでSFであり、極上のエンターテイメントだと思っている。たしかに感動もしたが、「愛と感動の名作」などという陳腐なコピーでくくってしまえるほど、安っぽいシロモノではない。この本から、安易に教訓や人生論をひきだしたくもないし、わかったようなテーマをかってに書きのべて、この本の良さを台なしにしたくもない。そんなふうにして「文学的な価値のある作品」なんぞにまつり上げてしまったら、せっかくの『アルジャーノン』は死んでしまうではないか。本を開いているあいだはひたすら楽しく、夢中で読みふけってしまうSF小説でいいのだ。
そして、読みおえたあとで、こころのなかが、なんだか言葉にできないものでいっぱいになる。僕の場合は、空を見上げて胸いっぱいに息を吸い込みたくなるような、泣きたいような、それでいてものすごくあったかい気持ちだった。こういう気持ちは、言葉なんかではうまく説明できないし、その必要もない。この気持ちよくもやもやした感じを、もやもやした感じのままで、ずっと大切に持ちつづけていればそれで良い。
人は死ぬまえにそれまでの人生を走馬燈のように思い出すというが、それなら僕は、『アルジャーノン』を読んだことを思い出して、ずいぶん満ち足りた思いで死んでゆけるだろうと思う。この本一冊読むためだけにでも、生まれてきた甲斐があったと、心の底から思うのだ。
読みなさい。
本当は買って読むのが一番いいのだが、人から借りようが、図書館で探そうがかまわない。立ち読みだっていい。とにかく読みなさい。それで後悔するようなら、もう僕の言うことは信じてくれなくてもかまわない。