大阪圭吉ファン頁 同時代の批評

2001年11月25日更新


このページでは、大阪圭吉は「同時代にはどう評価されていたのか」を紹介して行きます。
徐々に追加して行きますので、また訪れて下さい。
まずは、サンプルから…。

◆ 「感想三つ」 水谷準
◆ 「シュピオ」作品月評(中島親)より
◆ 「シュピオ」移植毒草園(秋野菊作)より
◆ 「圭吉氏と批評」 蓑虫
◆ 「らくがき」 鴉黒平
◆ 「大阪圭吉氏の会」 柳 櫻楓up

感想三つ   水谷準
「貨物船興安嶺号」住岡信義著(海洋文化社五〇銭)、「灯台の四季」横澤千秋著(佃書房一円三〇銭)、 「海底諜報局」大阪圭吉著(熊谷書房一円六〇銭)
 最近この三冊を読んだ。それぞれ特色があって、海洋に関する作品が種々窮屈な制約のある出版界の中で、健全な生育をしつつあることが如実に感じられ、まずは重畳である。
 住岡氏の作品は、その題名から何となく物々しい時局的な匂いを感じたのだが、内容はそうしたものではなく、支那沿岸の航行を専門とする老朽貨物船内の生活を小説化したもので、実際経験者の生活記録であるだけに我々には材料的に珍しく、而もナイーブな表現と作品の底を流れているふっくらした人間味とでもいうべきものが、読み手の共感を誘って愛すべき作品となっている。
 海洋文化社は、自分達の生活を直視して、そこからより高いものを生みだして行こうとする「海に生きる人々」に機会を与えて、これからどしどし優秀な作を出して行こうと跋文にも書いているが、大いにやって貰いたい。
 陸上生活の作家から、直ちに海洋文学が生れる筈はなく、作家が海のあらゆるものを経験して作品を生むのは大分将来のことに属する。して見れば、一番手取早いのは海洋生活者の中から新しい作家を作ることだ。住岡氏がその作家の一人であるか否かは軽々に断ぜられぬが、願わくは七つの海を圧する程の空想力と天を焦すほどの情熱とで快作を物し、また同志を煽って貰いたいものである。
 次の「灯台の四季」は月並な題名なので、灯台案内記の程度のものと予想して読み進んだが、以外にも興趣万斛、最近こんなに面白く読了した書物はない程興奮した。
 内容はなるほど「その折々の灯台生活記録」にすぎないが、灯台に関する我々の旧い概念がこの書によって一応精算され、新しい愛着と認識を持たねばならぬように周到な用意がなされてあり、その上この一冊全体の首尾を整えて、小説的な効果も得られるよう心憎い考慮が払われてあるなど手際は立派なものだ。
 この書の灯台は東北地方と北千島と、共に北方の二灯台が主となっているが、そこに生まれる無数の挿話に接して、私は何度か読みつつ眼頭の熱くなるのを感じた。それは作者の淡々飾らざる筆の力であり、また注意深い観察の行届いた整理にあると思う。
 灯台国としては海国日本も甚だ貧弱であるという。而も今や南海を圧して東亜の盟主たらんには、何より先ず世界第一の灯台国でなければならぬ。国民はこの書によってその方面への情熱を充分培われるであろうと思う。
 「海底諜報局」は題名から受ける通りの冒険小説である。この作者独特の「楽天的な空想」とでもいうべきものが、海洋を背景にのびのびと展開されていて、若い人々には面白い読物であることは間違いない。
 ただ私はここで蛇足的な希望を述べて置く。それはまず第一に、スパイ小説というものが小説の範疇内ではどうにもならぬマンネリズムに陥っていて、読者にとってはホテルの定食みたいに思われていることである。実際の防諜は恐らくもっともっと深いところに進んでいる筈で、そこまで書けるかどうかが作者の悩みだと思うが、併しどうせ書くなら一つドンと変った型をださぬと防諜物は袋小説に追いつめられてしまう危険がある。第二に、折角海洋を背景としたのだから、存分に新鮮な潮の香を漲らして貰いたい。嘘八百でも結構作者が次の時代を約束せられている人だけに私は敢てそういう注文をつけたいのである。
(「くろがね」第1巻第3号)


シュピオ「作品月評」 中島親
 大阪圭吉の「寒の夜晴れ」は連続短編のラスト・コースであるせいか作者の疲労がかなり目立って、此の作者のものとしては更に素材的迫力の弱い作品であった。いつも素材に新進らしい真剣な創意を示す彼がここには全く見られない。期待外れがしたようで呆気ない気もするが、それだけに此の一篇には探偵小説特有の稚気と無理がないので、あと味が淡々としている。寒の夜晴れの寒々として凄愴な雰囲気だけが、読後妙に頭にこびりついて、探偵小説としての面白味は少しも印象に残らなかった。「燈台鬼」でもそうだったように、彼は雰囲気描写に時折いい腕を見せるようだ。
(「シュピオ」昭和12年1月号)


シュピオ「移植毒草園」 秋野菊作(西田政治)
 酒井嘉七の「京鹿子娘道成寺」では衆人環視の歌舞伎の舞台での密室殺人を、大阪圭吉の「水族館異変」では同じく衆人環視のパノラマ館の水中殺人を取扱っている。これは、どちらも新進作家としては野心満々たる試みだが、「京鹿子娘道成寺」の場合は本格的に真っ正面取り組んでかかっただけに、中々息苦しいところがある。それに反して、本格派の大阪圭吉は、この「水族館異変」ではいつもとちがって変格の道をたどって見ちがえるように、悠々としている。
 作家の力量の相違か、本格探偵小説と変格探偵小説との本質的な相違か――酒井嘉七の「京鹿子娘道成寺」は折角の力作ながら、どこかまだ、混然とせずあと口の悪いところがあるが、大阪圭吉の「水族館異変」はスッキリとした佳い味をだしている。
(「シュピオ」昭和12年7月号)


「圭吉氏と批評」 蓑虫
 大阪圭吉氏の新青年の連続短編に対する批評(活字になった)は甚しく不評であった。
 然し、大阪氏が本格ものに精進し、ドイル直系などといわれている為に、氏自身もそれを目指し、又批評家連もそれを目指し乍ら出来上った作品は固いだの、つまらぬだの悪評を放っているが、それは大体無理な話であって、大阪氏のものはトリックもいいし、よく考えていて、文章もしっかりしていると思う。
 一体、ドイルそのものが、今日現われたって、そう面白いものではあるまい――、とは大下宇陀児氏の話。
 ……して見ると、最早いまの探偵小説は、「謎」一天張りではいけなくなったらしい。
(「シュピオ」昭和12年1月号)


「らくがき 大阪圭吉」 鴉黒平
 大阪圭吉は、今、ようやっと新青年の連続短編を終了して、ほっと一息、というトコロじゃろう――と想像するが、ことほど左様にあの連続短編は気息エンエンの態と観測したがどうじゃ?
 どうやら評判もあまりよろしくなかった様子じゃが、大阪圭吉にして、あれが重荷に過ぎたとでも申すのじゃろうか。それにしても、大阪圭吉には、既に中堅作家のレッテルが貼られとる。してまた、そう呼ばれてよいだけの仕事は、過去にして来ておる筈であるのに、あの連続短編は、どうもハヤ、頂戴仕りかねた。余輩は前から大阪ファンで、相当彼を買っとったし、それだけに、一層残念でならぬ。どう贔屓目にみても、あれでは些か困るのである。「三狂人」から「白妖」「あやつり裁判」と段々に下落し、「銀座幽霊」に至っては収拾致し難い観があった。「動かぬ鯨群」でやや見直したのはセメテもの幸い。が、ちと情ない。この連続短編は、いわば探偵作家としての名題披露であって、その成功の是非は即ちその作家の将来の運命を決する分岐点ともなるべきもんで、この意味からして、大阪圭吉はちと不用意であった。彼はこの恵まれた機会に、全力を発揮してモットモット大きな野心的な仕事を致すべきじゃった。期待をしていただけに、甚だ遺憾である。
 一体、彼の作風は、ドイルの流れを汲む正統派探偵小説、と御大乱歩が折紙つけとる。その素材に対しての着眼点のよろしさその綿密な構成力にも、相当みるべきものがある。一方に、「なかうど名探偵」や「案山子探偵」など、ユーモアものにもかなり器用なところを見せておる。その彼にしてこの度の失敗は何としても合点が参らん。まあ、桧舞台で固くなりすぎたためじゃろう、と好意的に大目にみて、今後に期待をかけよう。
 元来、大阪圭吉は対人的にも非常に温厚で控え目な君子であるようじゃが、この性格的な弱さが作品にも反映しとる。もっと大胆であってよろしい。いや、大胆であるべきじゃ!
 本格正統派の陣営に寥々寂々として人無く、秋風ぞ吹く折柄、新鋭大阪圭吉の存在は頼もしい限りであり、期待もかけておる。彼の一作一作への態度は、非常に慎重であり真剣であって、これは何よりよろしいことであるが、欲を申せばいま少し捨身な野心的気迫が望ましい。小さい殻は、破らねばならん。そこに、進歩がある。云わずや、身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあり、と。
 だいぶ、いらぬ憎まれ口を叩いたが、こんな憎まれ口なんぞ蹴飛ばして、奮起一番、斯界をして瞠若たらしむる態の野心作を、一つ拝見したいもんじゃ。「死の快速船」「とむらい機関車」「灯台鬼」等々の作者、好漢大阪圭吉にしてそれのできぬ筈はあるまい。
(「探偵春秋」昭和12年1月号)


「探偵小説春秋」 柳 櫻楓
大阪圭吉氏の会
プロフイル社の主催で、大阪圭吉氏処女出版の記念会が「Aワン」であった。会するもの約三十名。夢野久作氏の追悼会よりは、その人数三分の一に充たぬけれども、和気藹々たる会であった。大阪圭吉氏にとっては産婆役、甲賀三郎氏が司会で、先ず大下宇陀児氏が、もっと大衆向きに低級に書くことを大阪氏のために奨励し、水谷準氏が、大阪氏がいよいよ新青年誌上で連続短篇を始めたことを吹聴し、さて、海野、木々、江戸川、橋本氏等が激励をのべた。この四人の激励が二派にわかれたのが面白い。海野、橋本両氏は、探偵文壇と言うところは、心臓を強くしなくてはいけない、それが第一だと激励した。ところが木々氏は唯心臓の強いばかりではいけない、気に入らぬことを言うのへは撃滅するつもりで食ってかかるだけの意気を持てと言いだした。江戸川氏は、自分の好きな道をどんどんゆけと激励した。表面に現われたところでは、海野、橋本両氏は気が弱くて、木々、江戸川両氏は気が強いようだが、ほんとうは、或いはその反対であるかもしれない。とも角もこの会に、純文学壇の人も二三見えていたが、あとで述懐して曰く「はじめて出た会でしたが、純文学の会では、気取りと、取引的社交辞令と、敵視、とでいつも不愉快になりますのに、あの夜の会の空気というものは大変羨ましいものでした」とある。探偵文壇は垣内のものにとっては、まことに不満足なところもあるが、この点だけは永続し度いものだ。
(月刊探偵 昭和11年7月号)


小林文庫
(C)小林文庫
メール
E-mail