黒猫荘
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63. 2003年03月01日 11時56分42秒  投稿:nanami 
ごたごたしている間に、お返事が遅くなってしまいました。
私と桐人さんの議論が、いつの間にか、みわっち。さんとTomo-sさんを巻き込んだ(?)
白熱した議論になっているようですが……
こうなると一人一人にレスを付けるのはちょっと難しいようなので、
私の意見をまとめてみましょう。

私の場合、人と話をしていて、通じないことがよくあります。
私から相手に、相手から私に、と、どちらもです。
それは語彙数の問題ではないのです。
だって、相手の話している言葉の中に私の知らない言葉なんて一つもないし、
その話を聞いている他の人(私以外の人たち)には、ちゃんと伝わっているのです。
ただ、私はよく、人の話している意味を別の意味に解釈してしまうだけなのです。
修飾語を省略されたり、指示語を使われたりすると、それはよく起こります。
他の人には、その指示語が何を表わしているのかすぐに分かるのでしょうが、
私は何の疑問も抱かないまま、別のもののことを指しているのだと勘違いしてしまうのです。
だから国語の成績が悪かったのかもしれませんが……

と、いうわけで……
言葉というものはしょせん、人から人へとメッセージを伝えるための媒体に過ぎません。
語彙が多かろうが少なかろうが、綺麗であろうが汚かろうが、
相手にちゃんと伝わりさえすれば、必要最低限の役割は全うされているのです。
もちろん、それが全てではありませんけれども。
豊富な語彙を持っている人同士が綺麗な日本語で話していても、
相手にうまく伝わっていなければ、何の意味もないのです。
言葉は綺麗であることに越したことはありませんが、
それは付加価値でしかないと私は思います。
また、豊かな表現をするためには、語彙が多いに越したことはありません。
しかしそれは表現する立場にある人(作家や評論家など)に必要なだけであって、
一般の人にはそれほど必要なことだとは思えません。
だって、小説に書いてある言葉の意味が分からなくても、その人以外誰も困りませんし、
それが嫌だったら読まなければいいだけの話です。
一般の人が、何か文章を書かなければならなくなった時には、
その時に辞書なり何なりで調べれば、それですむはずです。
書くことを職業にしているわけではないのですから。

そして小説や論文などという、多くの人に読まれるための文章については……
小説は読み手それぞれの解釈の仕方があってしかるべきですし、
そもそも思考体系が違う多くの人が、同じ解釈をすることなどあり得ないでしょう。
読む人全員に同じ解釈をしてもらおうと思ったら、
論文のような形になってきて、そこに主観は入りません。

要するに、語彙数が多いに越したことはないけれども、
全ての人に必要なわけではない、ということになるのでしょうか……
62. 2003年03月01日 10時42分38秒  投稿:みわっち。 
徹夜明けの13号室みわっち。です。

>桐人さん 

<その状況でぴったりの表現をできるようになるための十分条件は何か?

 答えは簡単ですよ。表現する人自身の満足度。表現をする人自身が、ある状況をこの言葉でちょうど上手く言い表している、と思うことができればオッケイです。それが他人に如何聞こえようと。

<一万の様々な状況を文にした例文があり、その文には一つずつ空欄があります。その空欄に、<もっとも適切な単語を埋めよ。
<こうあれば、必要条件が定まります。解答者は一万個の単語を知っている必要があります。
<しかし、たとえ十万の単語を知っている人がいても完璧に解答できるでしょうか?

 これも甚だ疑問です。言語表現はそれを発する各個々人の感性に拠って立つところが大きいはず。こういう学校のテスト的発想が自由な発想(自由な言語表現)を規制しているんじゃあないかな。

 たとえば二人の人が同じ美術品を見て、その「美」について「どんな美しさなのか」という表現は全く違うものであって好いはず。それが個性とかオリジナリティってものじゃないのかな。Aという美術品の美しさを表現するのはαという言葉で無ければいけない、なんてことはないのですから。ある人にとってはαであっても、別の人にとってはγかもしれないはず。

 もし「αという表現ができなければ美術品Aの魅力は伝えられず、γという表現は間違っている」とするならば、それは思想統制以外の何者でもないです。

 美術品とかじゃなくても、芸能人の評価でもいいですよね。ミステリ作品に対する感想でもいい。同じタレントやミステリでも見る人読む人が違えば全く違う答えが返ってきたっていいでしょう。10人が10人とも同じ答えを出さなければいけないってのは単なるテスト問題であって、本当の意味での豊かな言語表現とは180度違うことなんじゃないかな。
61. 2003年02月28日 01時44分55秒  投稿:桐人 
試験勉強しないと行けないので少しだけ。。。

大野すすむの話について。

そのときぴったりの表現をできればいい。
そのとおりなのです。
でも、そこで問題なのは、その状況でぴったりの表現をできるようになるための十分条件は何か?ということです。
単語を千個知っていれば必ずどんな事態にも対応できるでしょうか?
たとえ、単語を一億個知っていても必ずという事態は生まれません。
逆に必要条件を見てみましょう。
たとえば皆様の前に紙があります。そこには一万の様々な状況を文にした例文があり、その文には一つずつ空欄があります。その空欄に、もっとも適切な単語を埋めよ。
こうあれば、必要条件が定まります。解答者は一万個の単語を知っている必要があります。
しかし、たとえ十万の単語を知っている人がいても完璧に解答できるでしょうか?
一つでも自分の知らないものがようそうに反してそこにあればそこで終わりです。つまり、受験勉強と同じく、十分条件は定まらないのです。
文を書く人間であるならば、一生の内に何億もの文を書くでしょう。
すべてを完璧にすることは恐らく不可能です。なにせ、十分条件は存在しないのですから。
ですが、物書きたるものできるだけ多くを適切なものにすべきです。
それゆえに、語彙は必要なのです。
そう考えます。
60. 2003年02月27日 14時28分46秒  投稿:Tomo-s 
27号室Tomo-sです。ちょっとお話に便乗。

僕もいま(文学ではないですが)文章をたくさん書かなければいけない状況で、
「文章の書き方」の類いを改めて読み直しているのですが、
今ごろになって読んでいる大野晋『日本語練習帳』に、
何でもかんでも難しい言葉を覚える、というのではなく、
その時にぴたっと使える表現を覚えているかが大事だ、
類語辞書はそういうときのためのものだ、とありました。

「必要な語彙」という話になると、日常会話のレベルから専門的な学問のレベルまで、
要求水準がまったく異なるはずですから、
必要・不必要の絶対的な基準を決めることはまず無理でしょう。
(たとえば、物理の先端的な内容について論じるための語彙と、
 それを一般の人にも分かりやすく論じるための語彙は別物です)
むしろ、自分が言いたいことを的確に表せないという経験があって、
それを出発点に語彙を増やすべく辞書を引いたり本を読んだりする、
それで十分じゃないかと思いますよ。
必要だからこそ、個人個人で言葉の引き出しを増やしていく、という感じで。

「最近の若者の国語力が落ちている」という時の「国語力」というのは、
「一般的な社会生活を送るための国語力」、もっとあけすけに言ってしまえば、
「ビジネスのために必要な国語力」「受験の問題文を読むのに必要な国語力」
でしかないように思います。
それはそれで無いと困る能力ですし、実際そのレベルすら達していない人も多いのでしょうが、
この国語力が絶対というわけではないはずです。
いわゆる若者言葉とか顔文字とか2ちゃんねらー語(という言い方は正しいのだろうか)でも、
「自分の言いたいことをドンピシャで表現できる」という点では、
同等の表現力を持っていると思うので。

古典も含めてうまい文章に数多く触れることが国語力をつけるためには必要だと思いますが、
それを「学校で古典を読ませるべき」というような「べき論」に持っていったり、
「さもないと良き日本語が滅亡する」という話に持っていってしまうような、最近の国語論議の一部には、
それこそ「役に立つからと方程式を解かせる」ものではないかとちょっと疑問を持ってます。

長文失礼しました。
今度はもっと気楽な話題で参ります。(^_^)

[NAGAYA v3.13/N90201]