バブル
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、日本の経済は「バブル」と呼ばれていた。
というか、その当時は、必ずしもバブル経済という言い方がなされていたわけではない。
なぜなら、それがバブル経済であったことは、むしろバブルがはじけてから理解されたからである。
現在では、ほとんどの場合、それは「バブル崩壊後」という言い方によって、現在との対比に於いて説明されるのであるが、しかしながら、当時はそれに気付くことができなかったのである。
しかし、我々は、今でもバブルというものについて、理解していないのかもしれない。
物の値段というものは、本来は需給の関係により決まってくる。
つまり、一定量の品物に対して、それを購入したいと思う人が多ければその物の価格は上昇し、購入したいと思う人が少なければ価格は下落するのである。
同様に、一定量の購買者に対して、供給される品物が少なければその物の価格は上昇し、供給がだぶつけば価格は下落する。
これが価格決定の基本的な原理である。
もちろん、感覚的には、価格決定の要因について、材料費や製造費用などに基づき算定されていると考えることもできるのであるが、しかしながら、それも、経済の原則に照らし合わせて、それを製造販売した場合にそれにより利益が得られると企業が判断した場合のみ、商品が市場に出回るのであるから、結局は市場原理にしたがっているということになるのである。
市場で売買される物は、購入した後、消費により消滅してしまう物ばかりではない。
そして、それらの物についても、もちろん上記の経済法則に従う。
ある人が、ある品物を購入してみた。
翌日になったら、その品物を買いたいという人がなぜか前の日より増えていた。
その人は、試しに前の日の購入した価格よりも値段を上げて売ってみた。
すると、それは売れた。
前の日より高い値段で販売しすることができたのである。
つまり、市場の原理にしたがって、利益を上げたのである。
翌日、また別の人がある品物を購入したところ、やはり翌日、それを買いたいという人が増えていたのであるが、しかしその人は、その日その品物を売らなかった。
もう1日待つと、さらに価格が上がるかもしれないと考えたからである。
結果はその通りになった。
その話を聞いた人が、自分も一儲けしようとして、その品物を買うことにした。
その時点で、すでにかなり価格が上昇していたのであるが、しかし、翌日値段がさらに上がれば利幅が増えると考え、無理をして買った。
翌日、予想通り、価格は上昇した。
多くの人が、その話を伝え聞き、通常ならばとても返せないような借金をしてそれを買った。
ある人は、自分では直接それを買わず、それを買おうとしている人に、それまで貸したことのないような多額の金を高い金利をつけて貸した。
翌日には、借りた人が多額の利益を得て返しに来てくれると考えたからである。
翌日に返しに来なくても、その次の日には、さらに大きな利子を付けて返してもらえるのである。
すべてが予想通りだった。
値段が上がるという予想をした人が、すべて当たったのだ。
みんながみんな、その商品の売り買いに長けていた。
すべての人が、大きな利益を上げたのである。
そんなある日、ある人が夢を見た。
灰色の服を着た男が立っていた。
その男はその品物を売ってくれと言った。
しかし、値段を提示すると「高いからいらない」といってそのままどこかへいってしまった。
それからしばらくして、その品物の値段が下がり始めた。
もちろんそこで、その品物を売り出すわけにはいかなかった。
下がり始めた値段で売ったら、すでに巨額となっている借金を返せなくなってしまうからである。
その人は、ふたたび値段が上がるのを待った。
そして、値段がふたたび上昇することはなかった。
後には、多額の借金と、たいして役に立たない品物だけが残った。
日本の場合、それは、たとえば土地であった。
当時、土地の価格は、上がることはあっても下がることはなかったのである。
土地は、それがたとえどんなに使えない土地であっても、ちょっと「転がして」やるだけで、大きな利益になったのである。
もちろん、転がって一回りして返ってきたときには価格が桁外れに跳ね上がっているのであるが、その時はさらにもう一転がししてやれば、さらに大きな利益を手にすることができたのである。
そしてそれは、現在、インターネット関連企業の株であり、アメリカの経済である。
もちろん、インターネットは大きな成長が見込まれる分野であるが、しかし、現在の株価などは多くの部分が期待感のみで成り立っているものであり、具体的な現時点での明確な業績に基づくものではないのである。
「ネット関連株」「急成長」という甘美な言葉の響きに、盲目的にのめり込んでいる感がある。
事実、それらのインターネット関連の企業の側に、異常なまでの期待感に対する困惑さえあるのだ。
そして、アメリカ経済もそれに近い状態にある。
アメリカ経済は100ヶ月以上も成長を続けており、ニューヨーク市場のダウ工業株30種平均も10,000ドルを超えて久しいのであるが、そして、もちろんその実績は評価に値するのであるが、報道からは、アメリカでは多くの人が今後の成長維持を疑っていないという印象を受けるのである。
もちろん、インターネット株もアメリカ経済も、バブルであるという説とそうでないという説が専門家の間でも分かれているので、本当のところがどうなのかは分からないが、少なくとも、成長が永遠に続くというような錯覚に多くの人が陥っているのだとしたら、そのこと自体は間違いなくバブルだと言える。
永遠に続く成長などというものはあり得ないのである。
ただ、それがバブルだったとして、それが崩壊したとしても、今度は逆に景気が永久に下降し続けるということもないので、まあ非常に長い期間で考えれば、ちょっとした大きな波にすぎなかったということになってしまうのかもしれない。
ところで、バブルの崩壊は、いつまでも値段が上がり続けると錯覚していた多くの人が、ある日ふと我に返ってしまうところから始まる。
この品物に本当にそんな価値があるのだろうかと、あらためて考えてみてしまうところから始まるのである。
だから、もし、その錯覚を永久に維持できるようにするための技術さえ開発できれば、恒久的な景気上昇維持も可能かもしれない。
バブルのまっただ中では、実際すべてがうまくいっているのである。
崩壊さえしなければ、夢のような世界が続くのである。
はじけないようにするための方法さえ見つければ、バブルはバブルでなくなるのである。
これは、理論上不可能なことではないのだ。
もちろん、こういった考え方自体バブルであることは、言うまでもない。
人間は、意外と進歩しないのかもしれない。
2000年2月10日
ハッカー
最近、日本の中央省庁などのサーバーが不正な侵入を受け、データが破壊されるという事件が起きているらしい。
攻撃を受けたサーバーが、具体的にどのくらいのセキュリティ対策を行っていたのかということや、侵入側のの手口などについてはよくわからないので何とも言えないが、全般に日本ではセキュリティに関する意識が低いという見方が多いようである。
ところで、これらの事件について、多くの報道では「ハッカー」による侵入という風に伝えられているが、これに関してもう少し厳密な分類法を採用するとしたら、その呼び方は「ハッカー」よりもむしろ「クラッカー」であるということになる。
「クラッカー」というのは、ネットワーク上のコンピュータに不正に侵入してデータなどを破壊する行為を行う犯罪者のことをいう。
「ハッカー」も、一般的にはコンピュータに不正に侵入する者のことを表す場合もあるのだが、ただ、これは本来はコンピュータに関する高度な知識と技術を持つ者のことを指し、必ずしも犯罪者を表すものではなかった。
このため、現在でも「ハッカー」を優秀なコンピュータ技術者の呼称として使用する場合があり、正当に「ハッカー」を名乗り、その技術により逆にセキュリティに関する業務などを行っている企業さえある。
そして、犯罪者として「ハッカー」という名称を使用する場合にも、「ハッカー」と「クラッカー」の間には違いがあるとされている。
もちろんケースによって異なるが、ごく大まかにいってしまうと、「ハッカー」は、基本的に侵入の形跡を残さない。
これに対して、「クラッカー」は、明らかな形での破壊行為を行うのである。
これはどういうことかというと、「ハッカー」は、多くの場合、高度なセキュリティシステムに対してそれを破ること自体を目的としているということを示している。
いわば、腕自慢といったようなものである。
したがって、セキュリティレベルの低いコンピュータに侵入することは「ハッカー」にとって、場合によっては恥となることさえある。
また、高いセキュリティレベルのコンピュータへの侵入が成功しても、そのすごさは一般の人には分からないのであり、それはハッカー仲間にさえ知ってもらえばよいのであるから、ホームページの破壊というような世間一般に報道されるような結果を残す必要はないのである。
侵入しやすいとされている日本の省庁のホームページに対して、しかも破壊という行為を行っている以上、やはり分類としては「クラッカー」による行為であるとことになるのであろう。
これは、「ハッカー」に比べた場合の「クラッカー」の技術レベルの低さをも表している。
当然、「ハッカー」と「クラッカー」を厳密に分類することはできないが、たとえば今回の例では、ホームページが破壊されたのであり、明らかな侵入の結果は当然露呈するのであるから、不正な侵入があったことは、どんなにセキュリティ対策にうとい機関であろうとも気付かざるを得ないのである。
これが、もし高度な「ハッカー」によるものだったら、各省庁にある重要な文書を盗み出すなどとiう行為を行っても、そのことよりも、むしろ、その足跡を残さないということの方に力を注いだに違いない。
技術的には、単なる侵入や破壊よりも、その結果を残さないことの方がはるかに難しいのである。
今の時代、通常、個人情報は個人の認識しているレベル以上の範囲でネットワーク上に散在しているので、特に問題となるクレジットカードの番号や銀行口座番号などの情報が盗み出される可能性というものは、特別な危機感を持つ必要まではないと思われるが、いくらでもあり得ることであるというくらいの認識は持っておくことが必要かもしれない。
2000年2月4日
高速列車
現在、超高速列車の最有力候補として、リニアモーターカーの研究・開発が進められている。
リニアモーターカーというのは、磁力を使って車体を浮上させ、かつ通常磁力によって車体を移動させる乗り物である。
車体は浮上しているので、走行時の抵抗は空気抵抗を除いてほぼゼロになる。
また、エンジンを積んでいるわけではないので、走行音とともにエンジン音も発生しないので、大きな騒音問題が起きることもなくなる。
もしそれが実用化され、現在想定されている営業速度で走行した場合、東京−大阪間が1時間で結ばれようになるという。
ところで、これに対して、最近新しい浮上式列車が開発され始めているらしい。
これは、ある程度まで速度を上げると、浮力が発生し、それにより浮上走行が行われるというものである。
翼のようなものが付いているらしいので、航空機と同じようなものなのかもしれないが、その原理のイメージとしては、水平にした薄い紙をテーブルの上に落とすと、テーブルに接する直前に横に流れるというものに近いらしい。
まだ、実用化にはほど遠いらしいが、実用化されれば、リニアモーターカーと違い高温超伝導などというような小難しくコストのかかる技術はいらなくなるようなので、広く普及していく可能性も考えられる。
それは別にしても、リニアモーターカーの実用化には壁が出てきそうな気もする。
リニアモーターというのが強力な磁場によって車体を浮上させる以上、当然強力な磁力線がそのへんに充満するのであるし、電磁石によりそれを実現するとしたら、当然それにより電波も発生するのである。
「磁力は体に危険なのではないか」という議論が出てくるのは必至であり、もちろん、実用化推進派側ではそれに対する手は打っているとは思われるが、最近の健康への影響に関する世論はなかなか強いので、そのあたり一筋縄では行かないような気もする。
それにしても、高速化はともあれ、そういったものが開発されるということは、たくさんの人々が、高速化が必要なほど遠い地域にしょっちゅう行ったり来たりしているということであり、世の中の人というのは一体みんな何をやって暮らしているのだろうと、時々思ってしまう。
2000年1月30日
盗難防止
最近どこかのメーカーが、新しい、車の盗難防止装置を開発したらしい。
とりわけ複雑なものではない。
遠隔操作により、車の扉をロックすることができるというものである。
そして、車の中からはロックが解除できなくなるのである。
つまり、車の盗難に気づいた人がその装置を作動させると、犯人は車から出られなくなってしまうのである。
ポケベルの技術を利用しているということなので、おそらく、車を盗まれた人はそれに気づいた時点である番号に一本電話を入れるのであろう。
すると、車を盗んで逃走し、「ここまで来ればもう大丈夫」と考えて車を止め、そこで降りようとした犯人は、扉が開かなくなっていることに気づき、青くなるのである。
いささか陰湿なやり方ではあるが、しかし、痛快な感じがしないでもない。
もちろん、実際の運用でシナリオ通りに事が運ぶかどうかということについてはやや疑問も残るのであるが、おそらく商品化までにはそのあたりは解決してくるのであろう。
ところで、これは「車の」盗難防止装置であって、車内の金品の盗難を防止するためのものではない。
また、別の犯罪を犯した犯人が、逃走のためだけに車を盗むというケースを想定しているのでもない。
これは、実は、車を車として盗もうとしている者に対してのみ有効な装置なのである。
したがって、その車は、窃盗というリスクを犯してでも手に入れたいほど、転売によって利益が出る種類のものでなければならない。
一般庶民の場合、こういった装置が必要にならないということは知っておいた方がよいであろう。
2000年1月29日
ADSL
最近急速に注目されつつある通信技術に、ADSLをはじめとするxDSL(デジタル加入者回線)というのがある。
これにより、ごく近い将来の一般家庭での高速インターネット接続環境の実現が期待されている。
一般家庭のインターネットへの接続方法で現在最も普及しているのが、一般の電話回線とモデムによるダイヤルアップ接続であるが、このデータ転送速度は最大でも56Kbps程度で、日本語の文字数に換算すれば1秒間に3500文字を送れるに過ぎない。
もちろん、1秒間に3500文字であれば1分間に210000文字を送れるのであるから、文字情報だけを送るために使うのであれば十分な速度であるとも言えるが、現在WWW(World Wide Web - いわゆるホームページ)で提供される情報には多くの場合画像が使用されていおり、画像情報は文字情報と比較してはるかに大きなデータを持つので、画像情報を送るために、この伝送速度は決して速いものとは言えない。
これは、実際にダイヤルアップでインターネットに接続していればすぐに分かるものであるが、ホームページの閲覧で速度的なストレスを感じない人はほとんどいないものと思われる。
これに次いで多くの人が使用しているのがISDNによるダイヤルアップ接続で、これは現在「速い」と宣伝され販売されているものであるが、これも一般的な使用方法ではデータ転送速度は64Kbpsでしかないので、アナログ回線の56Kbpsとそれほど変わるわけではない。
ISDNの場合デジタルでデータが伝送されるので、アナログ回線に比べてノイズの影響などによる速度低下が起こりにくく、その点などから、アナログ回線よりも安定・高速であるとされているが、感覚的には際立った差は感じられない。
また、56Kbpsなどの速度は理論的な最大値であり、実際には回線状況などによりそこまでの速度は出ないのが普通であり、またインターネットでやりとりされるデータは目に見える形で出てくるものだけではないので通常はさらに速度が低下する。
それでも、静止画についてはこの程度の速度でも全く使用に耐えないというわけではないが、しかし音声のデータや動画のデータは静止画と比較してさらに大きなデータサイズになるのが普通なので、現状の通信速度では実用にはならない。
このため、ネットワーク接続の速度を高めるための技術は様々なものが考えられていて、すでにケーブルテレビ会社などによる高速接続が実現されていたり、遠い将来には一般家庭に光ファイバーケーブルが引けるようになったりすることが予想されている。
しかし、当面それらのインフラ(環境)の整備には時間がかかるので、すぐに広い地域で実現することは期待できない。
そこで、注目されたのが、xDSLという技術である(xDSLの「x」の部分はDSLの種類ごとにADSL、SDSLのように置き換えられるものであることを意味する)。
まずはADSL(非対称デジタル加入者回線)という種類が実用化され始めている。
このxDSLという技術は、簡単に言えば、電話回線などの銅線を利用し、通常の通話用の回線に影響を与えずに高速のデジタル通信を行うというものである。
電話回線はすでに全国に整備されているので、新たに大がかりな設備を整える必要がない。
また、ADSLの伝送速度は下り(データのダウンロード)が現在通常最大500〜600Kbps程度なので、64KbpsのISDNの10倍程度の速度が実現できることになる。
つまり、高速接続を実現するための最も手近な方法として最も期待されるのである。
接続するためには、ユーザーは専用のモデムのようなものを用意するだけでよい。
まだ現在は実験中の部分もあり、問題も残っていて、xDSLを接続するためにはNTTによる接続の対応と、NTTの経営方針の確定も必要になるが、高速接続の中では近いうちに急激に普及する可能性の最も高いものであるとみられている。
また、xDSLは通話用の回線に影響を与えないので、つないだままにしても通話の回線を占有することはなく、そのため、基本的に常時接続が可能となる。
このことは、通信速度とともに、現在ネックになっている通話料金の問題も解消する。
xDSLの接続には、NTTに対して接続料を支払うことになるが、それが1ヶ月数百円程度ということになりつつあるので、常時接続で1日中つないでいても、通話料に当たるものは一定で済む。
プロバイダへの接続料金を含めても月額5000円程度になることが見込まれている。
これが意味するものはかなり大きいと言えるであろう。
通信速度が上がるのも重要ではあるが、それよりも私は、比較的安い一定料金で常時接続が可能であるということに注目したい。
現在は多くの人が通話料を気にしながらインターネットに接続していると思われるが、それが、一定料金で常時接続が可能ということになれば、それまで「必要なもの」という部分でしかインターネットを利用していなかったのが、これからは「必ずしも必要でないもの」からあるいは「無駄なもの」まで使用範囲が広がっていくであろうと考えられる。
話はやや飛躍するが、私は、文化というものについて、それは、ある意味で「無駄なもの」の中から発生してくるものであると考えている。
現在、インターネットは「技術」であり、「情報」である側面が強い。
しかし、インターネットが「無駄なもの」を対象とし始めたときに、そこに思いがけないような新しい「文化」が生まれてくるのではないかと考える。
それがどんなものになるかは分からないが、数年後には全く予想していなかったようなインターネットの使い方が行われているかもしれない。
そして、少なくともその頃には、間違いなく、2000年初頭のその通信速度で我慢していた我々の我慢強さを、驚きと感激をもって振り返ることができるようになっているに違いない。
2000年1月14日