都内から出発する場合、目的地が群馬県である場合はもちろんであるが、目的地が新潟である場合もほぼ間違いなく群馬県を通過しなければならない。
もちろん、今の時期にそういったルートで行われる移動は、スキーもしくはスノーボードを目的としているものが大部分である。
そして、それらの移動者の多くは、上越新幹線もしくは関越自動車道を利用している。
このため、我々群馬県在住者は、そうである以上、その事実についてやはり考えておかなければならないと思われるので、ここで考えてみることにする。
私自身、電車でスキーに行くなどというのはもう10年ほどもやったことがないのだが、今考えると、あれだけの大きい荷物を持って新幹線などに乗り、スキー場に行くというのは、ほとんど奇跡である。
しかも、席が取れなくて、かつ混雑していたりしたら、その間じゅう座ることさえできないのだ。
それでも、電車であれば、乗ってしまいさえすれば、あとはほぼ予定の時間に到着できるのであるから、まあ、単に我慢をすればよいということになるので、まあこれはよいであろう。
問題になるのは車である。
そして、やはり特に問題になるのは「帰り」である。
我々も、スキー場が比較的近いとはいえ、トータル的なコストパフォーマンスなどを考えると、高速道路を使った方がよい場合もあるので、関越自動車道を利用することも少なくない。
しかし、いうまでもなく、我々は群馬県内で降りてしまうのである。
そして、多くの場合、我々が降りるインターの付近から渋滞が始まる。
渋滞に着く車は、多くが都内や神奈川県のナンバーである。
ここで降りることができてよかった、といつも思うのであるが、それ以上に、そこから数10キロの渋滞を乗り越えて、さらに都内を走って自宅まで帰らなければならない人たちは、一体何時に家にたどり着けるのだろうと、私はそれを考えると夜も眠れなくなってしまう、ということもないのだが、とりあえず、特に翌日が月曜日だった場合などはそれが心配になってしまう。
そういう人たちは、やはり、翌日の会社で襲ってくる眠気に対処するための、何らかのテクニックを持っているに違いない。
私も身につけたい。
2000年2月13日
今日は新しい発見があった。
もしかしたら、人によってはそんなことは「常識」だったりするのかもしれないのだが、少なくとも私を含めた私のまわりの何人かはそのことをよく理解していなかった。
つまり、「カツ」と「フライ」はどこが違うのかということについてである。
どちらも、パン粉をまぶして油で揚げてあるという点において変わりはなく、また、製法についても私の知り得る範囲ではそれほど差はないのである。
ひとまず、それぞれにどんなものがあるか考えてみると、「カツ」と呼ばれるものには、「トンカツ」「チキンカツ」「メンチカツ」「ハムカツ」などがあり、「フライ」と呼ばれるものには「エビフライ」「イカフライ」「アジフライ」「白身魚のフライ」などがある。
もちろん我々はこの段階で、その素材がいわゆる「肉」と呼ばれるものによって作られている場合はそれを「カツ」と呼び、それが「魚介類」によって作られている場合はそれを「フライ」と呼んでいるという点に着目することができる。
しかし、ここで考えなければならないことが出て来てしまった。
それは、「フライドチキン」である。
つまり、私は、「カツ」も「フライ」もパン粉をつけて揚げてあるもの、という仮説のもとに推論を始めていたのであるが、実は「フライ」にはパン粉がついていないものもあるということを発見してしまったのである。
もちろん、「フライドチキン」はあくまで「フライドチキン」であり、「チキンフライ」なのではなく、また、鶏肉にはこれとは別に「とりの唐揚げ」というのがあって「フライドチキン」は「とりの唐揚げ」の別称だという説もあるので、「カツ−フライ」問題とは無関係だと言ってしまうこともできるのであるが、しかし、もう少しよく考えてみると同様のものに「ポテトフライ」というものが存在することに気付くことができる。
これは、「フライドポテト」という言い方もなされるが、「ポテトフライ」でも問題なく通用する。
ただし、「ポテトフライ」に関しては、上記の分類とは別の属性を持っていることも考えなければならない。
すなわち、「ポテト」は肉でも魚でもなく、つまり、野菜類なのである。
それでは、野菜類はどのように分類されているのかということになるが、残念ながら、野菜はあまり「カツ」や「フライ」にはならないらしい。
むしろ、野菜類は「天ぷら」になる場合が多い。
「天ぷら」と「フライ」について、それを区別していない者が時々いたりするのであるが、それは論外としても、やはり野菜は「カツ」や「フライ」の分類にはあまり関係がないものなのかもしれない。
だとしたら、「フライドチキン」もあまり関係ないということになるし、そうだとすれば、「肉」が「カツ」で「魚」が「フライ」という程度の分類でも十分なのかもしれない。
ところで、これ以外に「カツ」はおおむね「平べったい」ものであるという捨てがたい仮説もあるのであるが、いずれにしても、考えてみると私はこの手の食品はあまり好きではなかったので、どうでもよいことなのであった。
2000年2月10日
今日会社帰りに、ある店に寄った。
店内をうろついていると、レジの近くで店員と客とのやりとりが耳に入ってきた。
客の質問に対して、店員は「ですから...」とその言葉を遮り、声を荒立てそうになりながら何か答えていた。
その物言いに、店内の客はちょっとそちらを振り返っていた。
店員のお客さんに対する話し方としてふさわしくなかったからである。
この店は社員教育が行き届いていないのかもしれないと思った。
店員はお客さんには丁寧に説明しなければならないのである。
しかし、本当のところはどうもそうではないらしかった。
そのやりとりはしばらくしてまた再開された。
ちゃんと聞いていたわけではないから、詳しいことは分からないが、その客はある商品が存在するということを主張しているのだった。
そして、それが本当に存在するものかどうかは私にはわからなかったが、少なくともその店には在庫がなく、そして手元にある資料では発注できるものかどうかさえ分からないということのようだった。
店員はそのことを説明しているようだったが、その客は、その商品が存在するということを確信していて、「私は、次に来るときまでにそれをここに用意しておいてほしいって言っているの。それがわからないの?」というような、一方的な要求を突きつけていた。
他の客のレジを売っている店員は一様に「やれやれ」という、同僚に対する同情の表情を浮かべていた。
閉店後に、その客についての不満が店員の間で爆発したであろうことはほぼ間違いない。
ただ、その客だけに注目して考えると、少し事情が変わってくるかもしれない。
「お客様は神様である」という言い方があるが、もしかしたらその人は、その反対に、店というものは、客の要求に対する不可能などない神様のようなものである、と考えているのかもしれないのである。
あるいは、そのとおり「お客様は神様である」と店が考えているであろう、ということを信じ切っているのかもしれない。
そう考えると、もしかしたら、その人は大変に純粋で、素朴な人物だったのかもしれないとも思えてくる。
店員が閉店後に自分に対して文句を言うなどということは夢にも思わない、店員を信じ切っている善良な人なのかもしれないのである。
ただし、もし仮にそうだったとしても、少なくとも個人としての店員のレベルでは、その客が単なる迷惑な客でしかないことには変わりはない。
2000年1月18日
今日の夜電車に乗っていると、「駅のゴミ箱は使えません」というアナウンスがあった。
各地で起こっている駅や電車での爆発物事件に対する駅側の対策である。
つまり、同様の事件が再発する可能性が予想されているのに違いない。
そして、それを防ぐために、ゴミ箱に不審物を捨てさせないようにしているのである。
もちろん、本来なら、別にただのゴミであればいくら捨てられてもかまわないはずなのであるが、しかし、ゴミを捨てたように見せかけて実は爆発物であるものをゴミ箱に放り込むというのが犯人の作戦であると当局は推理したのに違いない。
そして、「ゴミは捨ててもかまいませんが、不審物は捨てないで下さい」と言っても、そんなことに犯人が従うはずはないと考えたのである。
だったら、ひとまずゴミであろうと何であろうと、とにかく捨てられないようにしてしまうのがよかろう、ということになったのであろう。
ところで、電車を降りてみると、駅中のゴミ箱というゴミ箱がすべてビニール袋をかぶせられていて、本当に捨てられないようになっていた。
そして、当然のことであるが、駅でゴミの回収作業をしている人の姿も見あたらず、何となく、物々しい雰囲気だった。
身近でそういうのを見ると、すぐにでも事件が起きてしまいそうな気がする。
1999年12月27日