今日の郵便物(1999年11月24日)
少し前のことであるが、ある日会社が終わって夜帰宅すると、私宛に一通の封書が届いていた。
奇妙な封筒だった。
探してもこれ以上安いのは見つからないというような、中身が透けて見えてしまうくらいの、やや橙色がかった茶色の封筒。
しかも、それがヨレヨレになって、四隅の角がつぶれているのだ。
差出人は女性の名前になっていたが、聞いたこともない名前だった。
聞いたことがないというか、単に知らない名前というより、何というか、何かの書類の記入見本にあるような名前だった。
しかも、住所などは書かれておらず、名前だけが、すべてカタカナで、なぐり書きのような感じで書かれていたのである。
私はしばらく考えてみた。
私は、始め、誰かのイタズラだと考えた。
知り合いの誰かが、架空の差出人を騙り、中に思いがけないこと書いておいて、驚かせようとしているのである。
開けてみると、中に書かれていることと、その差出人の名前がつながり、それがジョークであるということがわかる、という仕掛けになっているのである。
しかし、消印を見ると、聞いたことのある地名ではあったが、そんなところから手紙を投函してくる知り合いは思い当たらなかった。
もちろん、ダイレクトメールのようなものでもなかった。
宛名も差出人の名前も、手書きなのだ。
名前だけで手紙を送ってくるような親しい知り合いでないことはもちろん明らかで、しかも、冗談で送ってくるような誰かでもなく、その上、ダイレクトメールでもないとしたら、私はそこで判断せざるを得なかった。
つまり、来てはいけない手紙が来てしまったのだ。
このところ、世の中には、明らかにおかしい事件が頻発している。
私は、そういう事件に巻き込まれつつあるのだ。
きっと中の便せんには、私に全く身に覚えのない脅迫文あるいは、私を人の道に背く世界に引きずり込もうとする文章がたくさん書かれているのである。
そして、こんなことから、私のこれからの人生はすべて台無しにされてしまうのだ。
確かにその筆跡や封筒全体から、何とも言えない暗い情念のようなものが伝わってくるのが感じられた。
今日までの、ごく平和に暮らせていた日々が懐かしく思われた。
もう明日からは、普通の人のような生活はできなくなってしまうのである。
平和な人生っていうのは、こんなに簡単に終わってしまうのだ。
...
ところで、解釈によっていろいろ差はあるのだが、通常の場合、世の中というのは、実は、平凡な人間は、なかなか大事件に巻き込まれないような仕組みになっているらしい。
その封書を開けてみると、出てきたのは、今年の夏に観に行ったある劇団からの案内状だった。
私は、時々演劇を観に行くが、アンケートを記入したりすると、後で公演の案内状が送られてくることがある。
その手紙も、その1つだったのである。
通常の団体からは、もっとまともなハガキや封筒で来るのだが、今回たまたまそうでなかったということなのかもしれない。
差出人は、その時の公演で主役をやった人の名前だった。
その劇団の公演を観にいったのは初めてで、団員の名前は認識していなかったのである。
その主役をやった人が、今度、レギュラーとしてやっている劇団の公演でなく、別の企画の公演に出演するということで、非公式な案内として、個人名で送ってきたということであるらしい。
中に入っていたチラシには、名前もちゃんと漢字で書いてあって、もしかしたら芸名なのかもしれないが、しかし、漢字で書くとちゃんとした名前であった。
というわけで、私の中での大事件騒動はあっという間に解決してしまったのであるが、しかしながら、たった1通の奇妙な封書という舞台装置だけで、しかも家にいながら、我々がこれだけの演劇的効果を味わうことができるというのを考えると、さすがはプロのなせる技であると感ずる。
もちろん、中に入っていた手紙が、B5版の便せんに書いたものを、10円で2枚ぶん取れるように、B4のサイズに2枚並べてコピーし、それを半分に切ったものだったとしても、そして、その切り口が雑で曲がっていたりしても、さらに、もしかしたら、封筒自体も、そういった効果を狙うために特殊なものを選んだのではなく、本当に安かったから、経費を削るために選んだだけだったのかもしれなくても、すなわち、たまたまそういう効果が出てしまったということだったのだとしても、そのことは差出人の実力を疑う理由にはならない。
意図していなかったにもかかわらず、演劇的な世界に我々を引き込んでしまうようなものを作ってしまっているのだとしたら、それは、もしかしたらプロ以上のレベルかもしれないのである。