今日の一日一善(1999年9月18日)

先日、道を歩いていると、少し前を歩いている人が何かを落とした。

落とし物である。
しかし、その人は落としたことに全く気づかずに歩いていく。
私は、これはいけないと思い、小走りに追いかけた。

すべての場合がそうであるとは限らないが、落とし物は、多くの場合それまで持続してきた動作から別の動作に移るときによく発生すると言われている。
たとえば、電車で席を立った瞬間とか、ただ歩いているときでも、たとえば鞄を肩にかけ直したときとか、そういうときである。

もちろん、私もその考え方に対して異論はない。むしろ、その考え方は、落とし物のセオリーをごく無難に押さえているものとして、比較的お勧めできるものであると言える。

ところが、そのときはそうではなかった。
私はその人を注視していたわけではないが、その人がそれを落とした瞬間は見ていた。
しかし、落とした瞬間のその人の動作に、それまでの動作の流れと異なるものは全くなかった。
ただ歩いていただけなのだ。
ただ歩いていて、そして、落ちたのである。

もちろん、だからといってそれが必ずしも不審であるということにはならない。
少なくとも、歩いているのであるからそれなりに振動は加わるはずで、もしかしたらずっと落ちそうになったまま歩き続けてなんとか落ちずに済んでいたのが、たまたまその瞬間限界を超えて落ちてしまっただけだったのかもしれないからである。

ただ、ともかく、本人は全く気づいていなかったので、もしその人が落とし物の理論に詳しくない人だったとしたら、たぶん、後で気づいてあれこれ考えてみても、落とした可能性のある場所としてその場所を思いつくことさえできないに違いないと思ったので、慌てて追いかけたのであった。

私はその落とし物を拾ってすぐに追いつき、無事渡すことができた。

「どうもありがとうございます。せめてお名前だけでも...」
「いやいや、名乗るほどのものではございません...」

そこでこのような会話が交わされたかどうかは別にしても、やはり、良いことをした後というのは気分が良いものである。

しかし、良いことをしたのであるから、堂々としていればよさそうなものであるが、そういうとき、つい不自然に早足になってそこを立ち去ろうとしてしまい、寄るはずだったコンビニも素通りしてしまったりするのはちょっと何とかしなければならないことであり、これが次回の課題である。


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