今日の法定速度(1999年9月12日)
先日車で走っていて、トラックの後ろについた。
そのトラックには、「全長18メートル、追い越し注意」と書かれたステッカーが貼ってあった。
私は、しばらくその意味について考えてみた。
しかし、これは、別に深い意味があるわけではなかった。
「全長18メートル」というのは、すなわち、そのトラックが長い、ということを表しているのであり、特に対向車線を使った追い越しなどをする場合、追い越しを完了するのに予想外の時間がかかりますから気を付けてください、ということを言っているのである。
つまり、「追い越しをするのはお前の自由だ。ただし、これだけは言っておくが、俺は...ちょと長いよ...」というわけである。
ところで、トラックの後ろにはこれ以外にも、いろいろなことが書かれたステッカーが貼ってあったりするが、最近よく見かけるのは、「法定速度遵守車」というものである。
そもそも、「法定速度遵守車」などというのもおかしな話なのであるが、我々はそれを見るたびに、それとは別のところで、ほんのわずかではあるが衝撃を受ける。
この衝撃は、一般に、当然のことをなぜあえて表示して見せているのかということに対して感じる違和感であると説明されているのであるが、そうではない。
つまり、我々は「なぜそんな当たり前のことが書いてあるのだろう?」とは考えず、「本当だろうか?」と考えてしまうのである。
そんなことを宣言してしまって本当に実行できるのだろうかという疑問がわき起こり、しかし、もしそれを実行できるとしたら、それはもしかしたらすごいことなのかもしれない、ということで衝撃を受けるのである。
この考え方が正しいのかどうかということは別にして、我々の「本当だろうか?」という疑問に対して、そういった車はかなりの確率で期待を裏切ってくれる。
そういったステッカーは、その車を保有する会社の対外的な企業イメージを向上させるために、会社が発行し貼り付けさせているだけで、ドライバーのレベルでは実際にはそんなものは守っていないのだろうとつい思ってしまうのであるが、少なくとも私が見た限りにおいては、そういったステッカーが貼ってある車はほぼ法定速度を守っている。
私はそのことに少しばかり感銘を受けて、自分自身でも、法定速度を守るというのがどういうことかというのを確かめてみることにした。
私は、かつて自分で車を運転し、なにがしかの距離を走り、そして目的にたどり着くという行為を行うに置いて、法定速度を守りきったという日は一日もないのだ。
さっそく試してみたのであるが、結論から言ってしまうと、法定速度を守るというのは、かなり感動的なことであった。
やってみればわかることなので、ぜひやってみることをおすすめするが、法定速度ぴったりで走っていると、何とも言えない陶酔感を味わうことができるのである。
はじめに、車窓を流れる景色がなめらかになり、そして、車は軽く振動しているだけで停止しているような感覚が起こり、やがて、自分は停止したまままわりの景色だけが静かに流れていくような感覚が起こる。
それは、ほとんど「幸福感」といってもいいくらいのものであった。
自分と車と世界との一体感が味わえるのである。
もちろん、これをやってみるに当たっては、注意しなければならないことがある。
第一に、渋滞や混雑により、法定速度を超えることが物理的に不可能な場合には、うまくいかないということである。
そして、混雑していなかったとしても、後ろに着いた車にプレッシャーを受けながら法定速度で走るというのも、おすすめできない。
これらは、どちらも法定速度を守っていることにはなるが、しかしながら、私はこの場合に陶酔感を味わうことはできなかったのである。
つまり、法定速度を超えることも、それ以下で走ることも全く可能な場合に、しかし、法定速度ぴったりで走るというのを行うことにより、初めてうまくいくのである。
ところで、私は、このことを試しているうちに、あることに気がついた。
法定速度は当然道路ごとに異なるのであるが、しかし、その速度の絶対値にかかわらず、条件さえ整えば、どの道でも、それが30km/hであろうが50km/hであろうが、ほぼ同じ感覚を味わえるということがわかったのである。
すなわち、この感覚は、車の絶対速度に依存しているのではないのである。
ここから推測されるのは、道路の道路としての容量と、適切な法定速度の間にはある一定の関係が存在するということである。
そして、そのバランスは、かなり微妙なものであるに違いない。
法定速度を2〜3km/h超えるだけで、その陶酔感がなくなってしまうのである。
このバランスはどうやってとっているのだろう。
法定速度の決定システムに関して私は詳しくはないが、もしかしたら、警視庁や各道府県警ごとに法定速度設定の名人というような人がいて、新しい道ができるたびに出かけていって、その天才的な感覚をもとにして適切な法定速度を割り出すということをしているのかもしれない。
それが本当かどうかということは別として、少なくとも、私はその陶酔感に、誰かの人為的でしかし芸術的な感性の結果である何かを感じ、法定速度というものの中に、その決定者が我々にぜひ受け取ってもらいたいと考え発信したメッセージのようなものを感じたのである。
もちろん、だからといって、この法定速度を守ることについて全く問題がないかというと、そうでもない。
車の運転というものには、常に冷静な状況判断と、的確な情報収集とが要求されるのである。
運転中の陶酔感というものは、それとは正反対の位置にあると言っていい。
私は、法定速度を守る実験をしている間に、何度も後ろの車にあおられた。
おそらく、公道でそんな実験をしているやつがいたら、私だってあおることになるに違いない。
そうなのである。
私は、法定速度で走ってみて、人が何故そうしてしまうのかよくわかったのだ。
つまり、危険なのである。
人間は、正常な人の場合、精神的にある一線を越えてしまうことがないように、精神的な暴走を防ぐべく、ある程度のところで、無意識がブレーキをかけるということをしている。
法定速度による運転中に私が感じた陶酔感は、ある一線を超える少し前の段階だったに違いないのだ。
世の中のドライバーはそのことをよく知っているのであろう。
つまり、車を法定速度で運転することが、自己の精神構造を崩壊に導く危険性をはらんでいることを、意識的ではないにしても、よく理解していて、そして、それを回避するために、多くの人がやむを得ず法定速度を超える速度を出してしまっているのに違いないのだ。