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説教「イエス様が来られた理由」
(ルカ 5:32) 2000.12/24
(於・渋川教会)  小鮒 實牧師

 クリスマス、おめでとうございます。今日は、こんなにも大勢の方々とご一緒にクリスマスをお祝い出来ますことを、心より感謝いたします。

 さて、クリスマスと言いますと、聖書のお話のほかにも、いろいろなお話が語られます。今日は、イギリスの小説家チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens 1812.2/7-1870.6/9)という人の「クリスマス・キャロル」というお話を少しばかりしてみたいと思います。

 このお話は、今から150年位前(1843)に書かれたものですけれども、現代版の「クリスマス・キャロル」ということで「SCROOGED」(邦訳「三人のゴースト」)という映画も作られました。まあ、映画の方は、正に現代のものですけれども、内容は基本的に「クリスマス・キャロル」そのものであります。

 ということで、チャールズ・ディッケンズの「クリスマス・カロル」。この本の中には「スクルージ」という人が出てきます。彼は、石のように冷たい人間でありまして、誰からも相手にされることもなく、また、妻や子もない孤独な老人でありました。彼の関心事と言えば、お金儲けのことぐらいで、それ以外のことは、無関心、ほかのことにはほとんど目もくれず、徹底したエコノミックアニマルの道を歩んで来た人であります。

 ところで、クリスマス・イブの夜、このスクルージ、彼は、寒い部屋で震えながら働いている事務員を冷酷に見張りながら、「クリスマスなんてくだらん、馬鹿馬鹿しい」と仕事を続けていました。ですから、甥がやって来て「クリスマスあめでとう」と言って、食事に招きに来た時でも、馬鹿馬鹿しいと言って追い返してしまった。

 また、クリスマスの寄付金を集めに来た人にも、「俺は税金を払っているんだから、寄付金(募金)なんて払えん」と言って、これも追い返してしまう。

 クリスマスのキャロリングの歌声が聞こえてくると、その歌っている人たちを簿記棒で追い返し、クリスマスの有給休暇をとるたった一人の事務員にまで八つ当たりをして、自分の部屋に帰ってくる。

 まあ、このようなスクルージでしたから、クリスマスだからと言って特別にそれを意識してみんなと祝うなんて、そんな気持ちなど全くなかった訳であります。

 ところが、自分の部屋に帰ってきたスクルージ、彼は、そこで不思議な出来事に遭遇する訳であります。7年前に死んだはずの友人、以前一緒に仕事をしていたマアレイという友人の姿を見る訳であります。

 勿論、このマアレイは、既に死んでいる訳ですから、「幽霊」ということになりますが、スクルージは、この幽霊からいろいろな話を聞く。(死んだあと、こんなふうになるというお話)生きていた時に行った、その行いに応じて、身体中鎖でつながれ、苦しみの中を、休みもなく、安心もなく、悔いの心にさいなまれながら、歩まなければならない、そういう死後の世界の話。そして、マアレイ自身も今そういう苦しみの中で、鎖につながれて生前の生活を悔いている。

 そして、今、スクルージの前に幽霊として出てきたのは、「自分のようなあわれな、悲しむべき運命から逃れる」、そういうチャンスをスクルージに与えるためだと言うのであります。そして、マアレイの幽霊は、このあと更に三人の幽霊が来ることになっていると言って消えていく。

 そして、マアレイの予告通り、時間になると幽霊が出て来ました。そして、第一の幽霊は、スクルージを過去の世界に連れていきます。スクルージの子供時代、青年時代、壮年時代といった、そういう昔の、過去の世界に連れて行く。そして、昔のスクルージの姿を見せる訳です。スクルージは、そういう昔の自分の姿を見て、昔みんなから親切にされたことや、楽しかったことを思い出す。

 そのあと、今度は第二の幽霊がやってきます。第二の幽霊は、スクルージを、今クリスマスをお祝いしている人たちの所へ連れていきます。スクルージが使っている事務員の家では、スクルージが十分な給料をやらないもんですから、貧しい家庭でありました。しかし、貧しいながらも、子供たちと一緒にクリスマスを祝っている。

 甥の家では、親戚や友人たちを招いて、楽しい遊びやゲームをして、クリスマスのひとときを過ごしていた。また、いろいろな所で、いろいろな人たちが、それぞれの仕方で、クリスマスをお祝いしている、そういう光景を見て、スクルージは一人寂しがるのであります。

 そして、最後に、第三の幽霊がやってきます。第三の幽霊は、スクルージの死んでしまったあとの世界を見せる。そこにはスクルージの知っている人たちもおりましたが、みんな死んだスクルージの悪口を言っている。また、スクルージの死体は、何もかもはぎ取られ、奪われ、泣いてくれる者もいない。お墓はあれ放題、世話をしてくれる者もなく、草ぼうぼうでおっぽり出されている。

 スクルージは、このようななさけない結末を見せつけられて、心から反省し、自分の今までの生き方が間違っていたことに気が付くのであります。そして、幽霊が消え去ったあと、スクルージは、今までの自分を悔い改め、心を入れ替えて、今度は、みんなのために何か良いことをしようと決意するのであります。

 そして、スクルージの目が覚めたのが、ちょうどクリスマスの日だったものですから、彼は、喜びを持って、みんなに挨拶をし、自分の使っている事務員に給料のアップを約束したり、また七面鳥をプレゼントしたりする。また、昨日クリスマスの寄付金を頼みに来た貧民救済のために働いている人には、積極的に多額の寄付を申し出たり、また、甥の所に行って、すばらしいクリスマスの日を迎えたりするのであります。

 この「クリスマス・カロル」という物語は、勿論、物語ではありますけれども、私たちに、クリスマスというものを考えさせてくれる良いお話だと思います。

 ディケンズは、この物語の最後の所で言っています。「もし、生きている人間で、クリスマスの祝い方を知っている者があるとすれば、彼こそ、スクルージこそ、その人だといつも言われていた。私たちについても同じ事が言われますように。私たちの全ての者が、そうなりますように」。

 クリスマスは、単なるお祝いではありません。神の御子、イエス様の誕生をお祝いする日であります。2000年前、私たちの救い主として、イエス様がこの世に誕生されたのであります。

 クリスマスの祝い方、いろいろあると思いますけれども、自分のあり方、自分の今まで歩んできた生き方を反省し、悔い改めて、イエス様の誕生をお祝いする。それが、クリスマスの本当の祝い方と言ってもいいのではないでしょうか。

 スクルージが、今までの金儲けの人生、お金のことばっかりの生き方、お金さえあればいいという人生に見切りをつけて、本当に心から悔い改め、クリスマスの朝には、新しいスクルージとして生まれ変わったように、私たちもまた生まれ変われたらと思います。

 クリスマスをお祝いする心構えというようなものがあるとすれば、それは「悔い改めの心を持つこと」、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。悔い改めの心を持ってクリスマスを迎える、その時、2000年前に生まれたイエス様の誕生を心から祝うことが出来るのではないでしょうか。

 先程お読みいただいたように、イエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と語られました。

 イエス様が、この世に来られた理由は、「罪人を招いて悔い改めさせるため」なんでありますね。悔い改め、それは、方向転換であるとよく言われます。今まで、自分中心に生きて来た生き方から、神様の方に目を向けて、方向を転換して、生きて行くことであります。

 スクルージのことで言えば、お金中心の生き方から、人をおもいやるやさしさ、いたわり、慈悲の心をもって人に親切にしていく、そういう歩みへと変えられることであります。

 私たちも、悔い改めの心を持ち、神様へと目を向けることによって、人にやさしく出来る、思いやりのある新しい人生へと歩み出せればと思います。

 今日は、一人の兄弟が、これから洗礼を受けられます。洗礼は、「古い自分に死んで、新しい人生を歩み出す第一歩」、人生の方向転換の儀式であります。兄弟のこれからの新しい人生に、神様の豊かな祝福を祈ると共に、また、私たちも、思いを新たにして、ますます主に仕えるものでありたいと思います。

   クリスマスのお話より
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