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説教「うれしい知らせ」(ベティーさん)
(ルカ 2:1−7) 2009.12/20
(於・石巻栄光教会)  小鮒 實牧師

 今日はクリスマス礼拝、みなさまとご一緒にイエス様の御降誕をお祝い出来ますこと、本当にうれしく思います。

 さて、クリスマスのお話ですが、クリスマスのお話と申しますと、東の国からやって来た博士たちのお話とか、(今の聖書では「博士」ではなくて「占星術の学者」となっておりますけれども、)星に導かれてイエス様の所にやってきた、博士たち、占星術の学者たちのお話、それから、羊飼いのお話、野宿をしながら夜通し羊の番をしていた羊飼いたちのところに天使が現れ、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたというようなお話、また、天使が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と讃美したというお話。まあ、いろいろなお話がある訳であります。で、それぞれ大切なことを私たちに教えてくれるお話ですけれども、今日は「宿屋、宿屋さん」のお話をしてみたいと思います。

 マリアとヨセフは住民登録の為にガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行きました。マリアはすでにイエス様を身ごもっておりましたけれども、皇帝アウグストゥスの勅令です。仕方なくヨセフと一緒にベツレヘムへ出かけました。そしてやっとベツレヘムに到着しますけれども、もう夜になっていましたので、宿屋に泊まろうとするのですが、どこの宿屋もいっぱいでした。「トントントン、宿屋さん。どうか一晩泊めてください」。ヨセフとマリアは、宿屋の戸をたたきます。でも、どこの宿屋もいっぱいで、彼らの泊まる宿屋は見つかりません。やっと見つけたのが、馬小屋、家畜小屋。仕方なく、マリアとヨセフは馬小屋、家畜小屋に泊まることになりました。そして、その晩、イエス様が生まれたのであります。

 聖書には、イエス様は「布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされた」とあります。「飼い葉桶」それは牛や馬の「エサ箱」であります。神様から遣わされた「救い主」、神の子・イエス様がどうして「飼い葉桶」(「エサ箱」)なんかに寝かされなければならなかったのでしょうか。それは宿屋がいっぱいだったからであります。勿論、イエス様が馬小屋、家畜小屋で生まれたという、このお話を通して、どんな人でも、誰でもイエス様にお会いすることが出来るんだということを学ぶことは出来るとは思いますけれども、イエス様が馬小屋、家畜小屋で生まれ「飼い葉桶」に寝かされたという、その直接的な原因は、やはり宿屋がいっぱいだったからであります。

 イギリスのお話ですけれども、イギリスのロンドンに、ベティーさんというとても貧しいお年寄りが住んでおりました。

 ベティーさんは、お金をたくさん借りているのに、返す事ができませんでした。それでベティーさんは、いつ警官が捕まえにくるかと、いつもびくびくして暮らしておりました。そのことを知った教会のアイアンサイド牧師は、とてもかわいそうに思って、ベティーさんを助けるために、教会でお金を集めました。そして、必要なお金が集まると、アイアンサイド牧師は、ベティーさんが借りていたお金を、代わりに返してあげました。そして、その領収書を、ベティーさんに届けに行きました。

 古ぼけた長屋の小さな屋根裏部屋がベティーさんのお部屋でした。アイアンサイド先生はベティーさんの部屋のドアをノックしながら声をかけました。「ベティーさん、いらっしゃいますか?」「ベティーさん」。

 何度呼んでも返事がありません。あきらめて帰ろうとすると、近所の人が教えてくれました。「先生、ベティーさんは家にいますよ。だれも家に入れたくないから返事をしないだけなんですよ。」ベティーさんは、借金取りが来たと思って隠れていたのであります。

 アイアンサイド先生は大きな声で叫びました。「ベティーさん、教会のアイアンサイド牧師です。開けてください。いいことを知らせに来たんですよ。」ベティーさんは、そっと部屋のドアを開けました。アイアンサイド先生は、ベティーさんに領収書を渡して言いました。「この領収書をご覧なさい。あなたは、もうお金を返さなくてもいいんですよ。」

 ベティーさんはとても喜んで言いました。「ありがとうございます。ありがとうございます。先生。こんなうれしい知らせだと知っていたら、もっと早くドアを開けて先生に入っていただきましたのに。」

 イエス様がお生まれになった夜、イエス様をお泊めする宿屋はありませんでした。実際、宿屋はいっぱいだったのだと思います。でもですね、もし神の子イエス様がお生まれになる、ということが分かっていたらどうだったでしょうか。宿屋の主人は、自分は馬小屋に眠ってもいいから、マリアたちを部屋に泊めたのではないでしょうか。そうすれば、その宿屋の名前も、ご主人の名前もずーと今に至るまで語り伝えられたのではないでしょうか。確かに、宿屋はいっぱいだったのかも知れません。でも、思うんです。もし、宿屋がいっぱいでも、お泊めすることができたら、どうなっていたのかなって。

 宿屋がいっぱい。それは私たちの心の中が、この世のことでいっぱいなのに似ております。あれもしなければならない、これもしなければならない。年末ともなれば特にそうだと思います。年内にやるべきことはすべてやってしまわなければならない。

 私たちは本当に忙しいのであります。忙しいという字が「心を亡ぼす」と書くのは、よく知られていることですけれども、私たちは忙しさのあまりに、心を亡ぼしてはいないでしょうか。

 教会では「クリスマス」のことを別名「クルシミマス」と言うことがあります。クリスマスが近づきますと、いろいろな行事がありまして、その準備のために、みんなとても大忙しになります。いろいろな所で、皆様方が「クリスマス」の準備をしてくださる訳ですけれども、時には、その準備に追われ、心にゆとりがなくなって本当に「クルシミマス」になってしまうこともある。

 そうならないように、私はいつもお祈りしているわけですけれども、「クリスマス」が「クルシミマス」になってしまっては、クリスマスを祝う意味も半減してしまうのではないかと思うのでありますね。出来たら、みんなが喜んで、うれしい気持ちでクリスマスを迎えることができればと思っている訳ですが、とにかく、心にゆとりがない、心を滅ぼしている状態、それは「宿屋がいっぱい」の状態と似ているのではないでしょうか。

 心の中ががこの世のことでいっぱいですと、よい知らせが届いても、心の扉を開けることができません。せっかくの神様からのすばらしいプレゼントもいただくことが出来ません。ベティーさんのように、ビクビクしていて、ドアを開けなければ、うれしい知らせも受け取ることは出来ません。神様がイエス様を私たちにくださった、そのよい知らせ、うれしい知らせも、もし、私たちの心が閉じられたままですと、私たちの心には届きません。

 クリスマス、それは神様がその独り子イエス様を私たちに下さった日であります。それによって、神様の愛が私たちに示された日。神様はすばらしいプレゼントを、私たちに用意してくださったのであります。

 「うれしい知らせ」が今ここに届いているのであります。私たちは、宿屋さんのように「心の中のお部屋がいっぱいで受け入れられません」なんて言わないで、また、ベティーさんのように恐れないで、心の扉をいっぱいに開いて、神様からのすばらしいプレゼント、イエス様を、そして神様の愛を、喜んで受け入れるものでありたいと思います。

 繰り返しますけれども、クリスマスは神様の愛が私たちに示された日であります。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)。

 神様は私たちを愛しておられるのであります。神の独り子を私たちにお与えになったほどに、私たちを愛しておられる。クリスマスはそのことを私たちに教えているのであります。私たちはこのことを、心の扉を開いて、感謝をもって受け入れたいと思います。そして、神様が私たちを愛して下さっていることを信じて、希望を持って新しく生きて行きたいと思います。

 神様は私たちの目には見えません。ですから、いるのかいないのかよく分からないという人もおられます。でも、神様はイエス様を私たちに与えて下さり、神様の存在を明らかにされました。しかも、そればかりではありません。神様はイエス様を通して、ご自身が「愛の神」である事を私たちに示して下さったのであります。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:9-10)

 聖書は、神様が、私たち一人一人を愛し、私たちを守り導いて下さるお方である事を教えているのであります。 私たちは、心を開き、素直になって、この「うれしい知らせ」を心の中に受け入れたいと思います。

 でも、それだけではなくて、神様に愛されていることが分かったなら、今度は、その神様の愛を一人でも多くの人に伝えたいと思います。それが、クリスマスのもう一つの意味だからであります。イエス様とお会いした羊飼いたちは、イエス様のことを「人々に知らせ」ました。私たちも、イエス様のことを、そして神様の愛を人々に伝えたいと思います。

 でも、どうやって? どうやって、イエス様のこと、また、神様の愛を伝えたらいいのでしょうか。クリスマス、神の御子・イエス様がお生まれになりましたよ。神様の愛が私たちに示されましたよ、と知らせる、伝えることも大切かも知れません。でも、それだけではなくて、イエス様が教えてくださったように、私たちが「お互いに愛し合う」ことによって、神様の愛を伝えることも大切だと思います。

 イエス様は、私たちに「新しい生き方」として、このように教えられました。
 「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
 先程の第一ヨハネの4章11節以下にも、このようにあります。
 「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(1ヨハネ4:11-12)

 愛は敵意を滅ぼし、平和をもたらします。愛はすべての人の心を豊かにいたします。愛は人を裁かず、赦します。クリスマス、全ての人と愛を分かち合いたいと思います。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)

 クリスマス、神様の独り子・イエス様が私たちの住むこの世にお出でくださいました。恵みと真理に満ちていたイエス様。そこには、神様の愛が満ちあふれ、私たちに真の道へと導く「真理」が詰まっておりました。聖書の御言葉に耳を傾け、イエス様の言葉の中に「恵みと真理」を覚えて、クリスマス、みんなでお祝いしたいものであります。
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