3月14日(土)、箕輪城語り部の会・箕郷公民館共催の「日本百名城 箕輪城を歩こう(早春の城跡散策)」に参加しました。
高崎市箕郷町ふれあい公園入り口には、事前に申し込んだ約30名の参加者が集まりました。4班に分かれて、語り部の会会員と箕郷公民館員各2〜3名がついて箕輪城跡を案内します。筆者は3班の後ろについて簡単な説明役をしました。3班では、先頭リーダーの生方さんが主に説明を担当しました。
午前10時〜12時30分まで、コース案内として、ふれあい公園をスタートし城跡内を巡ります。ふれあい公園は、昔は中之島といわれていたそうです。大手門や虎とう門を巡って、木俣について、第一家老の木俣守勝の屋敷があったこと、木俣守勝は井伊直政の見張り役として、徳川家康の命令で付け家老になり、子孫は男爵になったことなどの説明がありました。さらに二の丸や本丸などを案内し、ふれあい公園に戻ってきました。生方さんの説明は多種多様にわたるものでした。
参加者は、初めて箕輪城へ訪れる方や何度も来ている方などさまざまで、中には全国の自治体主催の山城サミットに何度か参加した歴史通の方もいました。参加者からは、なぜ史跡の中に私有地があるのですかという素朴な質問など、多様な質問がありました。
中世の城である箕輪城跡は、1987(昭和62)年に国史跡に指定されています。地域のシンボル、地域づくりの核として位置づけられており、太田市の 国史跡金山城跡と共に、群馬県を代表する城郭です。また箕輪城は、2005(平成17)年に「日本百名城(日本城郭協会認定)」に選定されました。全国的に有名な国宝松本城や彦根城、また今話題の「天空の城」と言われている竹田城や、桜の名所としても有名で筆者の好きな長野県の高遠城も、同じ日本百名城の一つです。
箕輪城の築城は1500年頃のことで、中世の豪族である長野氏によるものと言われています。その後は、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏と主が替わりましたが、最後の城主は井伊直政で、1598(慶長3)年に城を高崎に移したことにより、廃城となりました。現在の箕輪城跡は長野氏時代の城とかなり異なっていて、最後の井伊直政在城当時のものとされています。
長い荒廃の時期はあったものの、現在も大規模な石垣や空堀、土塁、馬出し、井戸が良好に残っており、当時の歴史的景観がしのばれます。国史跡に選ばれてもおかしくないような地域資源があっても、理解をしめさない地域もありますし、手つかずのままに無理に観光化しないで自然のままがいいという考えもありますが、箕輪城は地域住民の方の理解や熱意で、国指定史跡に至るまでになったのです。これは素晴らしいことだと思います。
高崎市は平成10年から史跡整備の発掘調査を進めています。特に堀の規模と虎口(こぐち・出入り口)周囲の残りのよさが特徴であり、このような特徴を活かした史跡の遺構整備を平成23年度から行っています。
箕輪城語り部の会では、岡田豊治会長を中心に、月一回、古文書、文献から歴史を学んだり、発掘調査について調べたり、学習会を継続しています。毎月第2土曜および第4土曜の午後1時から3時は定例のガイド日で、自由に参加できます。平日は一週間前に箕輪城語り部の会事務局(027-371-3899)へお電話いただければ対応しますとのことです。少人数でも構いませんので興味のある方はぜひお越しください。