ぐんま再発見伝・太田市足尾鉱毒展示資料室開室(2015年5月27日 太田市)

太田市足尾鉱毒展示資料室の張り紙の写真 説明パネルの写真1 展示資料の写真1 資料室を訪れた人たちの写真 説明パネルの写真2

 5月27日、太田市学習文化センター2階に太田市足尾鉱毒展示資料室がオープンしたので、早速行ってきました。

 足尾鉱毒事件は、明治時代初期から栃木県群馬県渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる公害事件です。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)で、銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が著しい影響をもたらしました。栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をしたものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、21世紀となった現在でも影響が残っており、いわゆる日本の公害の原点とされています。

 太田市足尾鉱毒展示資料室のオープンにあたり、渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会の関係者や太田市清水市長も開室式典に臨み、あいさつされました。
 期成同盟会員によると、今回は「公害等調整委員会の時代」を中心にした展示だそうです。根絶運動を主導し、長く期成同盟会の会長を務めた板橋明治氏を代理人として、提訴者971名は、1972年、古河鉱業に農作物の損害賠償を求め、総理府の中央公害審査委員会(後の公害等調整委員会)に対して調停申請を行いました。それから申請を12回重ね、1974年に調停が成立、初めて古河側に責任を認めさせました。今回は、この時代の文書、写真、鉱毒被害の稲の現物並びに足尾鉱毒の図等を展示しています。

 長年鉱毒根絶運動に取り組み、昨年12月に93歳で亡くなった板橋明治氏の奥様、茂子さん(87歳)からメッセージです。
 「『苦悩継ふまじ されど史実は伝ふべし 受難百年また環らず 根絶の日ぞ何時』…これは主人の言葉ですが、主人は調停が終わってから、鉱毒に関する歴史の大切さを伝承するため三つの取り組みを考えました。一つ目が祈念鉱毒根絶碑の建立です。二つ目が鉱毒史の発刊です。そして三つ目が、集大成として今回のような鉱毒会館の設置でした。足尾鉱毒の膨大な資料を保存し、世界に向けて鉱毒根絶を呼びかける拠点となってほしいと言っておりました。今回の展示物は、調停時がメインとなっていますが、日本の環境問題の根底をなしている運動ですので、膨大な資料が順次展示されていくでしょう。できるならば、小中学生のお子さんたちに、汚れのない川の大切や、環境の大切さを伝えられることを願っております。」
 皆さんも、ぜひ一度は足尾鉱毒展示資料室に足を運んでください。あってはならない「公害の原点」を知ってほしいと願っています。


説明パネルの写真3 資料室の写真 展示資料の写真2