新田義貞公顕彰会研修『西上野(高崎市)の新田一族「里見氏」と「山名氏」の史跡を訪ねる』(2014年10月4日 太田市)

写真:「西上野(高崎市)の新田氏一族「里見氏」と「山名氏」の史跡を訪ねる」パンフレット 写真:里見氏墓所「光明寺」 写真:新田公旧里の碑 写真:観音塚古墳 写真:史跡研修に参加された方々

 10月4日(土)太田市の新田義貞公顕彰会が日帰り研修『西上野(高崎市)新田一族「里見氏」と「山名氏」の史跡を訪ねる』を行い、高崎市「里見の郷委員会」(会長中嶋雄三)他が現地案内しました。それに同行してきました。
 茂木晃会長や会員の他、太田市民の方を含む約40名が参加しました。太田市のバス一台で、太田市宝泉行政センターを出発して、高崎市旧榛名町下里見の里見城跡、中里見の光明寺、八幡町地区の観音塚古墳、八幡八幡宮、山名町の山名八幡宮を巡る、現地研修一日コースです。

「里見城跡」見学(下里見町)

 里見城は河内源氏、源(新田)義重の子義俊が1154(久寿元)年に里見郷に居を構え、築城したと伝えられています。義重は所領の里見郷を義俊に譲り、この城を西上野の拠点としました。以来義俊は里見という地名を氏として「里見義俊」としました。
 本郭は東西100メートル、南北70メートルで、北は里見川の崖になっており、東、西、南は2.5メートル程の土塁が巡らされています。南西方面には腰郭(こしぐるわ)、東には堀切を施し、防御に当たりました。山城としての遺構がよく残っています。戦国時代に改修されています。

里見氏墓所「光明寺」参拝・見学(中里見町)

 天台宗の寺で、本尊は阿弥陀如来、開基は比叡山横川の高僧・源信の弟子明慶上人で、創建は治安年間(1021〜1024)と伝られています。平安末期には、源(新田)義重の子里見義俊がここ里見によって光明寺の檀那(だんな)となり、1170(嘉応2)年にこの寺に葬られたといいます。この光明寺には『里見家歴世供養塔』があります。里見氏累代の供養塔・石殿・宝篋印塔(ほうきょういんとう)の部分などがあり、手厚く供養しています。房総里見氏ゆかりの延命寺から贈られたヒガンザクラもあります。
 本堂左手前には、明治23年8月に、郷土史家の里見水戸之介が、全国から浄財を募り建設した『新田公旧里の碑』があります(画像上から3番目)。幅2メートルほどの台座の上に、高さ3メートル、幅1.5メートル、厚さ25cmの仙台石が置かれ、碑文が以下のように書かれています。「…義国は義重を生み、義俊・義兼を生み、義俊は里見郷に住して里見の祖となる、義兼は新田郡世良田邑をはさみ新田の祖となる…基氏は朝氏を生む、朝氏は子無し、義俊の6世の孫子五郎を以て嗣となし、さらに、小太郎と称す、すなわち新田公義貞是なり…」とあります。
 このように、新田義貞は幼少の頃里見の地で育ち、里見小五郎と称したという伝承があり、「小五郎谷戸」「小五郎橋」「医者が清水」「安養寺」などの呼称が小字などに残っているそうです。
 ただ、新田義貞生誕の地という伝承があるのは、里見郷の他にも、台源氏館(太田市由良町)、反町館(太田市新田反町)、世良田新田館(総持寺・太田市世良田町)があり、いずれも特定できる史料があるとは言えず、確定には至っていません。


写真:八幡八幡宮 写真:山名八幡宮

「観音塚古墳」見学(八幡町)

 観音塚古墳は6世紀末の築造とされ、群馬県では最後の前方後円噴といわれています。特に注目されるのは、石室を構築する自然石の巨大さです。最大重量は55トンにも達し、見るものを圧倒する巨石構造は「群馬の石舞台」と称されています。近年、この巨石は高崎市旧榛名町上里見間野地域から産出された「里見石」ではないかと、右島和夫先生(群馬県埋蔵文化財調査事業団)が指摘して、大変な脚光を浴びています。

「八幡八幡宮」見学(八幡町)

 上野国では最も由緒のある八幡宮で、源頼義が建立し、義家(八幡太郎)が奥州征伐の折必勝祈願したとの伝承があります。「八幡荘」に鎮座する八幡宮です。「八幡荘」は河内源氏の所領とみられ、平安末期には、源(新田)義重に伝領され、義重は治承、寿永の内乱で荘内の寺尾に城館を構えて自立の志を示しました。義重の子義俊・義範は新田荘の里見・山名を苗字の地としました(本貫の地)。
 新田義貞は生品神社から挙兵しました。直接利根川を渡って、鎌倉に向かったという考えがありましたが、越後の新田一族や上野・信濃の諸士らと、ここ八幡荘「八幡八幡宮」で合流して鎌倉に向かったと思われます。

「山名八幡宮」見学(山名町)

 山名町に鎮座する旧郷社で、平安末期には、源(新田)義重に伝領され、義重の子・義範が安元年中(1175〜77)に宇佐八幡宮を勧請(かんじょう)し社殿を造営したとされています。安産、子育ての神(お宮)として嵩敬を集めています。境内を上信電鉄が走っていて、線路の下を通って参拝するのも珍しいです。

 最後に研修を受け入れた「里見の郷委員会」から、見学者全員に、高崎市旧榛名町の今が旬の名物“里見梨”がプレゼントされました。これからは太田市や新田義貞公顕彰会と交流をしていきたいのことです。
 何年か前のNHK大河ドラマ・平清盛の「平家物語」や約20年位前の大河ドラマ「太平記」の物語の世界ですが、太田市東毛の方はまだまだ新田義貞公への“熱い”思いをもっています。古墳時代から中世の南北朝の歴史について、皆さん並々ならぬ関心があるようです。

新田義貞公顕彰会について

 『歴史に名高い新田義貞』(上毛かるた)『いざ鎌倉 義貞挙兵の生品神社』(太田市市民憲章かるた)で知られる新田義貞。
 現在、全国の義貞ゆかりの地に、顕彰碑や銅像が建てられていますが、出身地太田では、郷土の誇る武人を顕彰し、高潔な精神を語り継ぐために、昭和63年正式に会が発足しました。太田駅前に銅像が建てられ、平成24年には生品神社ゆかりの方々により同神社に新田義貞の銅像が再建されています。
 各種事業を通じて郷土の偉人を顕彰し、全国の足跡ゆかりの方々と交流を図っています。

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中嶋講二さんの写真